第12話 別れ

楽しい時間が流れるのはあっという間という通説は正しいようで、蓮にとって久しい安寧の時間は走るように過ぎていった。


絢音のためにと作ったグラタンは思った以上に好評で、アリスの四肢の回復も加速度的に進んでいる。


幸せかと問われて、到底、幸せだと答えられるような状況ではないのだろうが、この時間だけを切り取ってみれば、素直に楽しかったと言えるだろう。


今は絢音が風呂から上がってきたので、蓮はアリスと二人、湯船に浸かっている。 早く毎日、こんな日々を過ごせるようになれたらいいな、というような話をした。


温いお湯に十分ほど浸かって、発汗しはじめたので浴槽から出て、先に熱さに音を上げて、出ていたアリスの体を入念に洗ってやる。 悪魔は代謝をしないので、体臭がするということないので、意味はないのだが。

泡を流してやると、今度は自分が洗うという。 秘部を触らせるわけにはいかなかったので、背中だけ洗ってもらうことにした。


「お兄さんの背中、大きいです……」


柔らかい手の感触が背中全体に行き届いて、心地いいのと、微笑ましいので、幸福感を覚えた。


そう思っていた、刹那━━背中に肋骨のようなものが当たる感覚、そしてコリコリしたものが背中の上を突き進んでいる。


これは……


「お、お前どこでこんな洗い方覚えたんだよ……」


「え? どういうことですか?」


アリスは素知らぬ顔というよりは、本当に何も知らないという顔をして、首を傾げている。 どうやら、本当に天然でやっている様子。


「なんでもない、余計な詮索だったな。 ただ、体を洗う時に自分の体を押し付けると、自分の体に泡がついて洗い流すのが手間だから、手で洗った方がいいぞ」


適当な理由をつけてやめさせようとする。

蓮以外の男と風呂に入るということはなさそうだが、対象が自分であってもこんな洗い方をしていては、いけないと思ったからだ。


「でも、こっちの方がお兄さんの体温を感じられて、好きです……」


アリスを傷つけないように言葉を選ぶのに苦労する。 どう説明したものか……


「まあ、人間のしきたりだと、体で体を洗うことは下品なことなんだ。 それだけ覚えておいてくれ」


まったくもって不器用な男だな……と蓮は自分のフォロー能力の低さにほとほと呆れ果てる。


「はい……」


アリスは明らかに残念という表情を浮かべている。 なんなら今にも泣き出しそうだ。

子供心に、蓮が絢音に多少なりとも、惹かれているのだろうと思っているのであろう。 アリスらしかぬ、意図してないとはいえ過激なアプローチはそのためだった。


自分の親のような存在に近付く異性が酷く、不快に映る気持ちは、蓮にもよく分かったので、アリスの気持ちが理解できた。


「でも、気持ちは伝わったよ。 ありがとう」


蓮は薄い笑みを浮かべて、アリスの額の頭髪を手で梳いてやる。


「えへへ……どういたしまして」


アリスはそう言うと顔を赤らめて下を向いている。

可愛いやつだ、と蓮は思った。


しかし、実際に自分はどういう目で絢音を見ているだろうか。

命の恩人? それとも……


考えているだけでも、羞恥心が頭の中に詰まってきたので、蓮はその思考を早々に打ち切ることにした。


絢音は、ただの恩人だ。 そういう気は無いんだ、お互いに。 蓮は否定するように、そう自分に言い聞かせる。


「お兄さん?」


アリスの声で蓮は我に返った。


「あ、あぁ……体も洗い流したところだし、そろそろ出るか」



アリスの髪を絢音のドライヤーで乾かし、櫛で梳いてやって、布団に寝かせる。 自分で布団を敷けていた辺り、四肢はほとんど治った様子。


「アリスの四肢も完治に近い。 明日の早朝には、ここを出よう……」遠慮しがちな性質の蓮はそう考えた。


「お兄さん……」


アリスはソファーに座る蓮の前に立つと、モジモジとする。


「なんだ?」


「血が、吸いたいです」


頬を赤らめて、そう言った。 どうやら、悪魔からしたら、アリスに限定した話かもしれないが、血を要求するのは恥ずかしいことらしい。 今まで蓮から血を与えていたので、彼女のそんな性質には気付かなかった。


四肢の回復にエネルギーを消費したか。 左手首に力を入れる。 浮き出てきた血管を薄く切って、そこから垂れてくる血を吸わせてやる。


血を飲み終わると、疲れたのか「もう寝ます、おやすみなさい」と言って、早々にアリスは布団に潜って、眠ってしまった。


自然、絢音と二人きりになる。 自分も眠ってしまおうか、と思った矢先に絢音から声をかけられる。


「ねぇ、これリビングに置いてあった本。 石造りの街でしょ? まさか、逃亡犯と本の趣味が被るとはね」


絢音は蓮が置き忘れていた石造りの街を右手に取って、笑顔を浮かべている。


「あんたも好きなのか?」


「当然! 読書の習慣はないんだけど、これだけは中学生の時に読んでから、一年周期で読んでるくらいすきだよ〜」


絢音は腕を組み、自慢げな顔を浮かべている。 その顔はなんだ? と思う。 その時の蓮は、その自慢げな表情の意図を知る由もなかった。


それから二人は石造りの街について一通り語った。

衝撃のラスト、主人公の心情の変化について、他の作品との類似性、あとがきの文意。


何か、趣味について話し合えたのは、何年ぶりだろうか。 蓮には小学生の時の友達はおらず、中学に入って二人、文芸部の友達ができた。

その友達と話題になった作品について話したくらいだ。


思い返してみる。 石造りの街を初めとした、自分の好きな作品については、一切話していなかった。 何年ぶりという話ではない、人生で初めてかもしれない。


絢音と過ごしたその時間はとても、楽しかった。

交友経験のあまりなかった蓮にとっては、誰でもする雑談というものでさえ、テーマパークで遊んだかのように楽しめた。


その後、アリスについて話したり、逃亡譚を語ったりして、話す話題もなくなって、二人眠るということになる。 いつまでいるのか、というようなことは聞かれなかった。

蓮の方から明日には出る。 という話をしようかとも思ったのだが、なんだかそれは意味は分からないが、無粋に思えたので、黙っておくことにしたのだ。


蓮はソファーに横たわって目を瞑る。 寝たフリをして、絢音の寝息が聞こえてきたら出ていこう、と。


体感時間で、三十分ほどが過ぎただろうか。 ぎぃとベッドの軋む音がした後に、ぎしとフローリングの軋む音。 その音は確実に、蓮の方へと近付いてくる。


絢音か?


呼吸音が顔のすぐそばで聞こえる。


ぎしというソファーの軋む音と同時に、呼吸音が近付いてくる━━


蓮は閉じていた目を開け、唇の前に手をかざす。


━━━━と、目の前には絢音の顔。


そんなことがあるかと必死に否定し、そうして彼女に笑われようとしたいたが、心の隅で予見していた通りだった。


「……ごめんね」


顔色は正常、目もしっかりしている、酒気を帯びているということはない様子。 もっとも、酒に酔っていたとしても、それが彼女の望んでいることだということには変わりはないのだが。


「……気にすんなよ。 誰だって道を違えることはある」


蓮はそんな言葉を吐いている自分に違和感を覚える。 俺が望んでいるのは、そんなことか?


しかし、蓮はその違和感を飲み込んで、彼女を突き放す。 本当に彼女のことを思っているのなら、これが正しいはず。 逃亡犯との恋なんて悲劇に他ないのだから。


「寝よう」


「……そうだね、本当にごめん」


絢音はソファーから降りると、顔を蓮から背けてベッドに向かった。

そんな中、蓮は確かに彼女の目尻から涙が伝っているのを見る。


「いい、気にしてない」


蓮は無神経な自分を呪った。 なにが気にしてないだ。

本来、意識を向けてやるべきなのは自分の内面じゃなくて、彼女の方だというのに。


しかし、不器用な蓮は彼女をフォローすることができなかった。 否、しない方が正解なのかもしれない。 いっそ嫌われてしまった方が、いいのかもしれない。


「……おやすみなさい」


儚い、街灯の下から昇る煙草の紫煙が消えていく様のような、そんな儚さを覚えさせる声で絢音はそう言った。



蓮が絢音を拒絶してから、二時間ほどの時間が経過していた。

最初の方は、啜り泣く声がしたけれど、三十分もするとそれは収まって、それから十分もすると寝息が聞こえてきたので、それから充分な時間を置き、蓮はリビングに行って、書き残しを綴ることにする。


「絢音へ


リスクを負ってまで、俺達を匿ってくれて本当にありがとうございました。 感謝の念で胸がいっぱいです。


冷蔵庫の下から二段目の棚の青い蓋のタッパーには、手前味噌になりますが、かなり上出来のワカメご飯が入っているので、よかったら食べてください。


そんなあなたに、さよならも言わずに去ることをここに詫びます。


もし無罪を表明できて、また成人になって会うことができたなら、その時は一緒にバーでウイスキーでも飲みましょう。」


俺も、あなたのことが好きでした。 と、綴ろうとして筆を止める。 そんなことを書いたら、かえって絢音の心を傷付けることになるのでは、と憂慮した結果だった。 禍根は断っておかねばなるまい。


足音と息を殺して、絢音の部屋に戻る。

フローリング床の軋む音にビクビクしながら、書き残しを机の上に置く。


ソファー横に置いてあった二人分のリュックサックを背負うと、深い眠りに就いているアリスを起こさないように、そっと抱き上げて、部屋を後にする。


玄関まで着く。 アリスを起こさずに、どうやってドアを開けようか迷っていると、蓮は確かに足音を聞く。


しまった。


そう思うや否や、絢音が後ろに立っていた。


なんと言ったものか、迷っていると絢音から想定の埒外の言葉をかけられる。


「頑張ってね」


年頃の女の子とは、不思議な生き物だ。

自分を拒絶した相手に、自分のことを信頼していなかったかもしれない相手に、素直に応援の言葉をかけられるだろうか。 絢音の顔には曇りのない、少しだけ幸薄い、いつもの笑顔があった。


不器用にアリスを抱いているのを見かねて、絢音がドアを開けた。 視点は蓮からアリスに向き、じゃあねと言ってアリスの頭を撫でている。


「あぁ、頑張る」


不器用だから、せめて傷付けないようにと慎重に言葉を選んだ結果、こうなった。

アリスを抱き直して、蓮は開かれたドアを進んでいく。


アパートを後にした蓮の背中が見えなくなるまで、絢音は手を降っていた。


やっぱり、女の子はよく分からない。 けど……

蓮の心に芽生えていた感情が、羞恥心や理性という雑草を取り払われて芽を出す。


蓮は、絢音がどうしようもなく好きだった。


蓮は歩きながら、彼女に唇を奪われそうになった時の音、匂い、体温、激しく脈打つ心臓の鼓動を何度も反芻した。


思い出だけは、変わってしまうことはないのだから。

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