第11話 居候

結局、情事に発展するということはなく、ソファーの上で久しぶりに平穏に目を覚ました蓮は、まず最初に壁にかけられている、銀色の縁取りの時計に目を向ける。 昼の十四時を少し過ぎたくらいを指していた。

寝ぼけた頭で昨日のことを振り返り、思慮を及ぼす。自分は、絢音と添い寝しなくて済んだ、いやしなかったのか。 蓮は絢音と情事に発展しなかったことを、少し残念がっている自分がいることに気付き、恥じた。


「……七時間くらい寝たのか」


寝起きの嗄れた声で言うと、布団に横になっていたアリスが反応、ゆっくりと肘を使って体制を変えて蓮の方に向く。 どうやら四肢の損傷は回復の傾向にあるようだ。


「おはようございます、お兄さん。 絢音さんは、バイトに行きました。 帰宅は九時頃になるそうです」


一生働かないで食っていけるというのに、バイトをするのか。


単純に父親から与えられるお小遣いが足りないだけなのかもしれないし、父親が社会性を学ばせるためにやらせているのかもしれない。


しかし、それらを考えても答えは出ないし、楽しいわけでもないので考えるのをやめた。


「そうか、ありがとう」


と言うと、アリスはえへへともんふふともつかない笑い声を漏らす。


今日は、何をするか。 と考えたところで、読みさしの本や空のペットボトル、ぬいぐるみが散らかった部屋が目につく。 昨日は絢音を意識するので精一杯で、この汚い部屋には気が付かなかった。


こんなことで匿ってくれた恩返しになるとも思わないが、部屋を片付けてやることにした。 部屋をこんな状態にしている人間が、仮にも人に私物を触られることが嫌な潔癖症ということはないだろう。 無機物なら、いくらあっても不快にならないタイプの潔癖症がいることを知らなかった蓮はそう考えた。


まずは確実に必要ないであろうペットボトル類を居間から探し出してきたゴミ袋にまとめることにする。


案の定というか、ペットボトルの大半は、炭酸水の入っていたものであった。 おそらく、ハイボール用だろう。 ラベルを剥がして一本ずつ袋に入れていく。


作業を開始して二十分ほどが経過━━袋詰めにした二袋分のペットボトルを居間に置いておくことにした。


あとは、本人以外に不要、必要を決められるわけがないので、明確にゴミと分かるものだけをゴミ袋にまとめ、掃除機を探し当ててきて掃除機を部屋中、ベッドの下までかける。

部屋の隅に積まれている雑誌が大半を占めている本の山を除けば、大分綺麗になったように思える。


アリスに四肢を接合させる時以来、血を摂取させていないことを思い出して、リュックサックから取り出したサバイバルナイフで己の左手首を切って出血させ、彼女に与えた。


粗方、できることは片付いたように思える。


ぐぅという腹の音で蓮は初めて自分が空腹であることに気が付いた。 そうだ、自分の食事も兼ねて料理を作ってやろう。


掃除をしている中でゴミ箱に目をやると、夥しい数のコンビニの食品の容器が見受けられた。

おそらく、彼女はろくなものを食べられていないのだろう。


恩返しとは、思っていなかった。


自分でも理解できない感情によって突き動かされていた。

しかし蓮がその感情を理解するのは、まだ少し先の話である。 今は漠然と、結論づける回路に霧がかかっていた。


大きく、当たり前だが無機的な長方形のフォルムの冷蔵庫の中を確かめてみると、二リットルサイズの飲料水や麦茶、調味料や薬味があるばかりで、食品の類は冷凍保存されていた白米以外に見つからなかった。


蓮はマップアプリを起動して最寄りのスーパーマーケットまでの経路を検索する━━と、歩いて五分という結果が出る。 サングラスをしていても、怪しまれない昼間に行った方がいい、すぐにでも行こう。


蓮は居間と台所、風呂場の掃除もしてしまうと、早急に買い物に行くことにした。 腹の虫が騒いで、胃が軽く痛む。


心許ないが、アリスは置いていくことにした。


殺人犯の青年が少女の姿をした悪魔を連れて逃亡中、と報道されているので、一人で行動した方がすれ違う人々から疑いをかけられづらいだろうと考えたのだ。


事情をアリスに説明し、一人でスーパーに行く旨を伝える。

すると、アリスは寂しそうな目をして見つめてくるので、蓮は抱き抱えてやって「すぐに戻る」と念を押しておいた。



蓮は三十分ほどして、両手いっぱいに袋を下げて帰ってきた。 材料だけならこれの半分くらいで済んだのだが、音無家には耐熱性のある皿、茶碗、必要な調理器具が無かったので、スーパーの隣で営業していた三〇〇円ショップでそれらを調達してきたのだった。


昼飯にしては遅いが二人で食べる軽いものを作り、絢音が帰ってくるとされている時刻までには三人分のグラタンを作るという計算である。


蓮は、中学卒業とほぼ同時に両親を無くし、独り身になっていた為、料理は人並み以上にできるという自負があったのだ。


炊飯器に洗った米二合分と調味料に酒、細かく切ったワカメと白ゴマを入れると、スイッチを押して炊き上げる。 余らせて絢音に食べさせるために、多めに作っておいたのだ。


まな板の上で大ぶりの鶏ムネ肉を二つに割いて、両面に塩コショウを少し多めに擦り混む。 中火から弱火のフライパンの上で皮面を下にして二十分焼く。 こうすると、皮から出た油によって皮がフライされて、パリパリに仕上がるのだ。

その空いた時間に大根を摩り下ろし、大葉と小ネギを刻みと主菜の準備をすることにした。 今日の昼食は、わかめご飯と鶏ムネ肉の和風プレートだ。


ちょうど準備が終わったところで二十分が経過━━肉をひっくり返して、今度は五分焼く。


大根おろしをポン酢醤油と和えて、タレを作る。

そうこうしているうちに五分はあっという間に経過。


皿に肉を乗せて四等分、その上からタレをかけ、薬味を乗せて完成だ。

既に炊けているわかめご飯を茶碗によそって、準備は完了した。


リハビリも兼ねて、アリスの両手を掴み、歩行を補助してゆっくり台所まで連れてくる。


「いい匂いがします」


「だろ?」


アリスを抱き抱えて椅子に座らせてやると、買ってきた割り箸を皿に前に置く。


「「いただきます」」


アリスはまだ四肢を完全に動かせるわけではないので、蓮が口に運んでやる。 最初は難しかったが、段々とコツを掴んでいき、二十分もしないで完食させることができた。


「美味しかったです」


完食すると、アリスは笑みを浮かべる。 口の周りに米粒がついていたので、ティッシュで拭き取ってやる。


遅れて、蓮も食べることにした。


肉にたっぷりと大根ダレを乗っけて口に入れて、咀嚼━━手前味噌だが、家庭的ではあるが満足のいく味付けに、柔らかい食感の肉、そしていい具合に炊けた米、と百点満点中の百点をつけてやりたい。


程なくして完食すると、暇になる。 彼女が帰ってくるまでは、まだ六時間ある。 料理を一時間半前に始めるとしても、まだ四時間半は余裕がある。


今まではやらなければいけないことを探すばかりだったのが、今はやらなくてもいいことを探すことになっているのは幸いか。


蓮にはリュックサックの容量を食うとは分かっていても、持っていきたかった書籍があった。

ライト文芸に分類されるジャンルの、恋愛モノの数冊の本だった。 これは蓮が小学生の時に図書室でたまたま出会った本で、当時はただ感動しただけで、具体的にどのように感動したのかは言語化できなかったのだが。


しかし、それでもその本のことを、とても好きになりツラい時はいつもこの本を読んでいた。

主人公達のやっていることは、紛れもなく社会正義に相反するものである、しかし、彼らにとってそれはくすみのない正義であるという構図が気に入ったのだ。


主人公達のように、社会正義に反することをする気持ちにはならないが、同じく日陰者である自分を肯定されている気分になる。


蓮はアリスの隣で横になりながら、その本の中でも特にお気に入りの一冊「石造りの街にて」を読むことにした。 法律の代弁者である弁護士の職業に就く主人公が、偶然、再開した特異体質の幼馴染と再開して、彼女との再会を機に、法の型から外れて変わっていく、社会に背いているが、一人の人間に成長していくという物語。

いわゆるボーイミーツガール系の作品であった。


あとがきや挿絵を除けば、二百ページに満たないということもあって、七時過ぎには読み終えることができた。


それにしても、読む度に感想の変わる深いラストで、いつ読んでも心が掴まれるなぁ、と蓮は大きな陰謀の渦中にいるかもしれないというのに感慨に耽る。


さっきまで隣で寝息を立てていたアリスに大まかなあらすじを教えてやると、いつか読みたいという言葉が返ってきた。 この騒動が落ち着いたら、漢字の読み書きも教えてやりたいものだ、と思う。


時間もちょうどいいので、蓮はグラタン作りに取り掛かることにした。 マカロニを塩の入れた鍋で茹でて、その間にベーコン、アスパラ、マッシュルームに玉ねぎといった材料を刻んでいく。


茹でたマカロニの水切りをすると、鍋に移してコンロに置く。 バターを気持ち多めに入れて、熱したフライパンの中に多いくらいの玉ねぎを投入、炒めていき、いい色になってきたら、顆粒コンソメを入れて、小麦粉と牛乳を何回かに分けて入れる。 グラタンの匂いになってきた。

そして、切っておいた材料を入れて、沸々と鍋を焦がさないように、掻き回しながら煮込むこと二十分ほど、十分にトロみが出てきたので、三つの耐熱性のある皿にバターを敷いた上でグラタンを入れて、チーズをパラパラと乗せて、パン粉と粉チーズ、パセリを振りかける。


アルミホイルをかけて、後は絢音が帰ってきたらオーブントースターで焼くだけとなった。 時刻は九時ジャスト。



それから予想外に三十分ほど待たされた。 居酒屋で飲んだのか、店で買って飲んだのか、ベロベロに酔って帰ってきたからだ。


「たらいま〜」


呂律回らず歩く脚は心許なく、顔は赤らみ息は切れており、明らかに酔っ払っていることが分かる。 なんとか革のブーツと、ベージュ色のポンチョのような上着を脱ぐ。


「……また酔ってるのか」


「ほこは……おかへりって言ってほしい……なぁ」


言って、絢音の体が蓮に預けられる。 酒臭さに混じって、香水のような、シャンプーのような柔らかな甘い香りがして、確かな体温を感じて、心臓が激しく脈打つ。


「夕飯は用意してある」


少しでも絢音と体を近付けていたいと思ったが、蓮は強制的に話題を提示して彼女から離れてもらうことにした。


「ふぇ? 夕飯……?」


「グラタンだけど、食べられそうか?」


赤面を悟られぬように、キッチンに顔を向けてそう言う。


「手料理かぁ……何年ぶりだろう。 嬉しいなぁ、ありがとうね」


言って、肩に手が回され━━頬に唇を軽くくっつけられる。 一瞬だが、確実に蓮の思考は停止した。


こんなことは、人生で初めての経験であった。 絢音は自分以外の男性にも簡単にこういうことをするのだろうか? 彼女はどういう意図でこんなことをしたのか?


様々な感情が蓮の脳裏を錯綜する。


内的思考から現実に引き戻された時には、既に絢音はフラフラとした安定しない足取りで、キッチンに向かっていた。


蓮も不機嫌そうなアリスを連れて、遅れてキッチンに入ってくると、照れを忘れるためか作業に没我する。 三つの耐熱容器をオーブントースターに入れて、十分に設定して焼く。


絢音は酔いが更に回ってきているのか息を荒らげて机に突っ伏している。 蓮は大きめのジョッキに水を注いで、飲ましてやる。 酔いを覚ますには、酒と同量以上の水分を摂取させるべきだ、という知識を持っていたからだ。


「ありがとう……」


グラタンが焼ける頃には、水も飲み干し、ほとんど酔いは覚めている様子。 曰く、酔いやすい代わりに酔いが抜けるのも早い体質らしい。


ミトンでグラタンを掴んで、テーブルの水を染み込ませたキッチンタオルの上に置いていく。


アリスを座らせようと思ったら、いつの間にか座っていた。 どうやら四肢の損傷はほとんど回復した様子だった。


箸と比べたら単純な動作で食べられるフォークでの食事だし、回復も進んでいるし補助は必要ないかもな、と考える。


蓮が椅子に座ると、アリスが口角を上げて、手を合わせる。


「いただきます、も久しぶりだなぁ」


絢音もそう漏らすと、手を合わせた。

蓮もアリスの見本になるべく、手を合わせる。


「いただきます」


「いただきまーす」


「……いただきます」


それは蓮にとって、久しぶりの家庭的な営みだった。

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