第10話 信頼

「先客って……なんのことだ?」


蓮は目の前の少女がどこまで自分のことを知っているのか、悟られぬように慎重に、段階を踏んで確認していくことにした。


人間というのは通常、逃亡中の殺人犯と遭遇というような埒外の事態に遭遇したら、冷静でいられないはずだ。 自分達のことを逃亡犯だと認識していたら、どこかでボロを出すはず。 蓮はそう考えていた。


「あなたも飲みに来てるんじゃないんですか?」


少女は笑顔を崩さないまま、そう言ってのけた。 とても成人しているようには見えないが……


「俺は……俺達は、寝泊まりする場所がなくて、仕方なくここを利用していただけだ。 それにまだ、未成年だ」


「私だってまだ十六歳ですよ?」


「……」


また笑顔を崩さないまま、そう言った。 なんだかこの少女と話していると、自分のペースが乱されるなぁ、と蓮は嘆息を漏らす。


「そういえば後ろには齢十にも達していなそうな幼子が……あえて、そちらの事情には触れないでおきます」


少女の目線がアリスに向かう、と苦笑を浮かべる。


「俺の子どもじゃねーよッ!」


と言いながらも、蓮は"そちらの事情"という言葉にドギマギとしていた。 まさか、勘づいているのではなかろうか、と。


「あなた達は、寝泊まりする場所がないんですね?」


少女は一歩、蓮に近付いてそう言う。 蓮は気が気じゃなかった。 年頃の女の子に近付かれるなんて、何年ぶりだろう。

こんな状況にも関わらず、嗅覚が女の子の甘い匂いを感知して、心臓が激しく脈打っている。


「あぁ、だからこんなとこで」


「だったら、私のお家に泊まりませんか? こんなとこで寝てたら風邪引いちゃいますよ? 風邪引いちゃったら、そこの女の子も可哀想です」


彼女の突拍子のない提案に蓮は思考が途切れる。 泊める? 会って数分と経っていない人間を? お人好しも度が過ぎるだろう、と。


否、彼女は自分達を逃亡者だと知っていて、不思議ちゃんを装い、家に泊める程で警察の元に連行しようとしている、という可能性の方がまだ高い。


それだけに彼女の発言は異質だった。


「普通、赤の他人を泊めようと思うか?」


蓮は己の無神経さを放って、ストレートに言い放つ。


「でも、その女の子を放っておいたら、きっと、風邪を引いちゃいますよね? そんなのは、よくないと思う」


初めて、少女が悲しげな顔をした。


それを見た瞬間に、蓮はいたたまれない気持ちになった。 幼い頃に、罵詈雑言を浴びせて母親を傷付けてしまった時を彷彿とさせる、人の善意を蔑ろにしてしまった、あの気持ち。


「それは……そうだな、でもあんたに迷惑かけるわけにはいかねえよ」


蓮は言って、少女から顔を逸らす。


「いえ、迷惑はかかりません!」


「赤の他人の俺を、信用できんのか?」


正直言って、蓮は怖かった。 自分の期待を裏切られるのが。 善意を向けてきた彼女から、裏切りを受けるのが怖かった。 また、純粋に無関係な彼女にリスクを背負わせたくなかった。 だから、拒絶した。


「信用できますよ。 だって悪い人の顔をしてないし、私と同じくらいの歳だろうし……」


「……どんな論拠だ」


「それに……小さな女の子を身を呈して守る人に悪人はいないと思います。 私、あなたが彼女に誰かが近付かないように見張っているの、見てましたよ」


「……そこまで知っておいて、なんで信用できる。 こんなとこに泊まるしかない人間がまともな人間だと思うか?」


「いえ……あなたが殺人の容疑をかけられた逃亡者だということ、知ってます」


刹那、体に電撃が走ったように蓮の体が動く。 目的は少女の逃亡、通報を防ぐため。


少女は「わっ」と声をあげて、首を右腕で囲まれる。 蓮は右腕を掴まれるが、女子の膂力はたかが知れている。


このまま、気絶させて逃亡する━━━━


「……あなたが、殺人犯だったとしても……悪い人じゃない、って分かります。 理由があったんだって……」


それが、逃れるための口実だったとしても。 少女の狡猾な手段だったとしても。


「大体、人殺しなら……銃を使ってますよ……ね? 私、あなたが銃を構え……て、ここに入ってくる……の、見てました」


そこまで、見ていたのか。 そこまで知っていて、近付いてきたのか。

この少女は相当、頭が抜けているか、それとも━━致命的なまでのお人好しなのか。 どっちにしろ、そんな人間を傷つけたくない。


蓮の心に迷いが生まれる。


少女の体が酸素を求めて、打ち上げられた魚のようにバタバタと暴れるのを見て、蓮は右腕の力を抜いて、彼女を離した。


少女は地面に膝から崩れ落ちると、地面に手をついて、酸素を取り込む。


「っ……はぁ……はぁ……分かって……くれたんですね?」


少女は蓮を睨みつけるでも、逃げ出すでもなく、笑顔を向けた。


「やれやれ、お前……相当なバカかお人好しだな」


普通に考えたら、相当のバカでない限りは、アビス外で銃を持っている人間を見たら、警察に通報してそれで終わりだろう。 蓮は自分の思考を反芻して、正当なものであると何度も頭に理解させる。


「えへへ……っていうか、お前って呼び方やめませんか? あなたも同い年か少し上くらいでしょ?」


少女はそう言うと少し機嫌の悪い顔をして、腕を組んだ。


「名前は知っているだろう? 早見 蓮、来月から十六歳になる逃亡者だ。 あんたは?」


「早見……蓮……なんだかアニメの登場人物みたいな名前ですね」


言って、ふふっと薄い笑みを浮かべる。

先ほどまで絞め落とされかけていたとは、到底思えない発言に蓮は嘆息を漏らす。


「私は音無(おとなし) 絢音(あやね)、十六歳の女子高生です。 よろしく。 それと、後ろで寝てる可愛い女の子の名前は?」


「あぁ、よろしく……コイツはアリス……早見 アリスだ。 ……なにか?」


言って、蓮は絢音と名乗った少女が目をキラキラさせていることに気が付く。


「その子、悪魔なんだよね? あとで、起きたら触ってみていい?」


依音が大きな赤色の虹彩をキラキラさせながら、蓮に顔を近付けていく


「……まあ……いいよ」


蓮は実に半年ぶりくらいに、同年代の女の子にドキッとさせられて、曖昧な返事しかできなかった。 しかし、その胸の高鳴りに悪い心地はしなかった。



美術館から真っ直ぐ歩いて五分くらいのところに、絢音の住むアパートはあった。 キャリアウーマンが住んでいそうな、こじんまりとしたアパートだった。

民間ハンターの父がアビス黎明期にアビスを攻略、その時の宝物を売った金で父と娘の二人で、慎ましく暮らしているらしい。 父は既に一生、二人で働かずに暮らせる金が手に入ったというのに、未だに現役でアビスを攻略していて、今も一昨日、攻略に行ってまだ帰ってきていないとのこと。


なので、家には絢音一人ということになる。 見ず知らずの男を連れ込む警戒心の低さは、他人である蓮でも心配になった。


「さあ、入って入って」


絢音はドアノブを捻ると、照明のスイッチを手探りで探して、押す。


すると室内の照明に照らされて、絢音の顔が明瞭になる━━天使の輪がある黒艶のセミロングヘアに、くっきりとした二重瞼に赤い虹彩の大きな瞳、長く伸びた睫毛。 もはや青白いまでの白さを誇る肌は、シワひとつなくとても綺麗で、輪郭はシュッとしている。 小鼻の小さな鼻に、口紅でも塗っているのか若干の紅色を帯びた唇は小ぶりで上品な印象を受ける。


蓮は改めてドギマギとしてしまう。 今からこの女の子と同じ空間で過ごすのか……と。


しばらく見惚れていたのか、絢音は苦笑を浮かべる。 心做しか、後ろに背負っているアリスからは、威圧感のようなものを感じていた。


絢音の後を追って、居間に入る。 フローリング床の上に桜色のカーペット。 部屋の隅には木製のローボードがあり、その上に大きな液晶テレビ。 テレビの正面にソファーが置いてあり、その間にはガラステーブルが置かれているという具合で、計算したくらいに一般家庭的だ。


それだけに、部屋の隅に設置された棚に所狭しと入っているウイスキーかブランデーと思われる、琥珀色の液体が入った酒瓶が浮いている。 中には酒と馴染みのない人でも知るようなメジャーな酒も見受けられる。 また、瓶の蓋にはテープが、棚には今は除けられているがカーテンが設置されており、かなり本格的に保管している様子。


おそらく最も世界的に主流であろうワインのボトルのような形をした瓶もあれば、まるで壺のような大きな曲線の特徴的な瓶もあり、中には明らかに動物を模した芸術品なような瓶。 樽をミニチュアにして蛇口を付けたようなものまであり、まるで酒の美術館に迷い込んだような錯覚を覚える。


絢音の未成年飲酒のキッカケになったのは、父親かもしれないな、と思う。 否、飲酒は父親公認でこれらは全て、絢音のコレクションかもしれない。


「ウイスキーに興味がおありかな?」


蓮の視線が棚の酒に向いているのに気付いた絢音は自慢げに声をかける。 どうやら、これらは彼女のコレクションと考えるのが妥当の様子。


「いや、俺はまだ未成年だから……」


蓮は未成年で酒を飲むということに、なにか説明し難い抵抗があった。

だが、蓮はウイスキーには個人的にかなり興味があって、ウイスキーの主な分類や、それぞれに使われる原材料や製造方法、ウイスキーを使った有名なカクテルまで知っている。 しかし、実際に口に運んだことは一度もなかった。 別に社会正義を内面化しているわけでもないのに。


「私も十六歳だよ?」


絢音は無邪気に笑う。


「そのやり取り、さっきもやったぞ」


言われて、絢音はんふふともえへへともつかない笑い声を漏らす。 どこかで聞いた覚えのある、笑い方だ。


まるで、子どものよう。 そう、アリスの笑い方にそっくりだった。 今、改めて見たら、絢音の容姿はまるでアリスが蓮と同年代まで成長した姿のようだった。 顔の作りと雰囲気が、そっくりだ。


この二人は、姉妹レベルで似ているな。 蓮は顎に指を当てて、肩に顎を乗せている少女悪魔と目の前の未成年飲酒者を見比べる。


「大人アリスか……」


蓮は絢音を見ると、思わず言葉を漏らす。


「なんか言ったー?」


絢音が不思議そうな顔をして首を傾げる。


「なんも言ってないよ」


「そう、ならいいけど……約束通り、悪魔ちゃんのことモフモフさせてね?」


不敵な笑みを浮かべて、そう言った。


「まぁ、約束だからな……アリス、悪いけど触らせてやってくれ」


言って、アリスを背中から降ろして、フローリング床に降ろす。 相変わらず四肢は自由が効かないので、必然的に女の子座りとなった。


「お兄さん……」


アリスは振り返って蓮の顔を直視すると、捨てられた犬みたいな、実に悲しそうな表情を浮かべた。 どうやらアリスは今のところ、絢音が、いや他人との接触がそこまで得意ではない様子。


「お兄さんって……可愛いにゃあ〜」


絢音はモフモフと言いながら、アリスに頬ずりをする。 アリスは「うぅ……」と呻き声に近いものを漏らしていた。



それからアリスは十五分ほどモフモフされると、力なく地面に仰向けに倒れ「お兄さん……」と言うと疲れ果て、眠りに落ちたので、蓮は絢音が寝室に引いてくれた布団にアリスを寝かせた。


蓮は絢音の寝酒にブレンデッドモルトのスコッチ・ウイスキーを使ったオールドファッションドを作ってやる。ウイスキーが所狭しと置いてあるだけあって、カクテルを作る道具は一通り揃っていたのだ。 蓮は絢音の寝酒に紅茶で付き合い、一杯を舐めるようにチビチビと飲んで彼女の酔いがかなり回ってくると、眠ることとなった。 時刻はもう朝の七時を過ぎている。


アリスの子ども用の布団とベッドを合わせて、二枚の寝床が用意される。 これは、一つのベッドを二人で共有しようということだろうか。 否、違うだろう。


「じゃあ、俺はソファーを使わせてもらうよ」


蓮がそう言って、ソファーに腰を預けると、顔の赤い絢音は首を傾げる。


「え? 一緒に寝るんだよ?」


「あんたは酔っ払って正常な判断ができなくなってる、普通に寝ろ」


「あんたじゃなくってぇ……絢音……お姉ちゃんって、呼んでほしいなぁ……あとね、私はね、酔っても判断力を失うなんてことはないからね」


そう言う顔は真っ赤で目は据わっていた。


「……百人中百一人が判断力を欠いてるって言うと思うぞ」


蓮は真顔でそう言い放ち、ソファーに仰向けになる。


「お姉ちゃんって……お姉ちゃんって……呼ん」


言って、絢音は瞼が落ちると、ベッドに俯せに倒れる。

おそらく、酔いが回り切ったのだろう。


「おやすみ」


蓮はそんな言葉とは裏腹に、内心ドキドキしていた。 酔った絢音のことを上手く断れずに、一緒に寝ることになっていたら、どうなっていただろうかと。


酔っ払いが寝入るのを見届けたことで安堵し、意識は眠ることを許したのか、疲れの溜まった体が限界を迎え、蓮は深い眠りに就く。

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