第3章「宿探し」

第9話 放浪

後藤邸に忍び込み、データを手に入れた二人であったが、予想外の襲撃によってアリスは四肢を麻痺、回復するまで泊まれる場所を探さなければいけなくなってしまった。 もっとも、アリスが怪我を負っていなくても、すぐに次の行動に移るということができたとは限らないが。


二人は雨模様の目黒区を、ビニール傘をさして歩いている。

デパートが閉店時間となるので、外に出たところそれから三十分ほどしてポツポツと雨が降ってきたのだ。


「お兄さん、重くないですか?」


正直キツかったが、アリスの労う言葉で蓮は努めて元気を装おうとした。


「大丈夫、重くねーよ」


アリスが肩に首を乗せて顔を覗き込んでくる。


「ウソです……顔色、悪いですよ?」


アリスは蓮の不調を看過しなかった。 蓮は彼女の心配を無碍にしたくなかったので、正直に打ち明けることにした。


「……正直言うと、ちとキツい。 人間の体で悪魔の力を使ったら、そりゃあな」


「お兄さんは無理をしすぎです。 たまには休まないと、体が持ちませんよ。 ひとまずは人目につかないで、少しでも休める場所を探しましょう」


「分かってるけど、そうでもしないと」と出かかって、口を噤む。 蓮はアリスには、自分の復讐に燃える修羅の顔をどこか後ろめたがり、見せたくないというきらいがあった。


「そうだな……」


言って、蓮は思考に没我する。 身分証明の必要なくて、顔を見られないで、それでいて暖房が効いていて、休めるところ━━アビスが出現、悪魔を拉致してきて売買する人間が増え始めてから、人間に扮した悪魔による事件を防止する為に、身分証明は厳格化され、それは難しくなっていた。


昨日の奇跡的に身分証明を求められなかったカラオケ店が頭を過ぎるが、同じ店に再び顔を出すのははばかられた。 もしも、あの後に自分の正体がバレていたら、戻ってきたら間違いなく、通報されてしまう。


しかも、今はアリスの『紫電一閃』は封印されている、少女一人を背負って逃げるのは酷だろう。


アビスも同じ理由で選択肢から除外された。 今の疲弊し切った二人で秘奥まで辿り着ける可能性は、極めて低い。


とりあえず、蓮が公安ハンター第一課の葛木という男を倒したことは同じ第一課の人間に伝わっていると考えて妥当だろうし、警戒するに越したことはない。 『紫電一閃』の応用技で追跡を巻けた、と希望的観測をすることもできたが、最悪を想定して電車に乗って目黒から移動しておこう。 蓮は残った体力の全てを消費するくらいの気持ちで、駅まで辿り着くと二人分の切符を買って、何度か乗り換えて埼玉県の大宮市まで辿り着いた。


電車に二人、椅子に掛けて揺られている蓮には緊張するだけの体力すら残されていなかった。 早く休まなければならないだろう。


大宮駅を出て、イートインスペースのあるコンビニに辿り着く。 とりあえずは、ここで何か食品を買って休もう。


買い物カゴにアリスの選んだジュースと、あまり食指は動かなかったが食事用のサンドイッチを二個とスポーツドリンク、栄養ドリンクを運んだ。 一秒でも早く、体力を回復させなければなるまい。


もう夜も深まってきたというのに、サングラスをして、少女を背負っているのは怪しまれるかと思ったが、店員はアルバイトか、髪を金髪に染めた大学生らしき男、お世辞にもとても真面目で社会正義を持っている、というには見えない。 二人は特に不審がられるということはなく、会計を済ませられた。


蓮はアリスを人形でも座らせるように、不器用にイートインスペースに座らせて、自分も隣に座った。 マスクも着けないで、密になっているとは、コロナウイルスで騒がれていた六年前では、とてもありえない光景だ。


慣れない悪魔の力の行使ですっかり疲弊して、食欲がないのを無視して無理矢理、サンドイッチを口に運んで咀嚼する。 蓮は食事をしているというのに、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべている。 いつもと同じ味のはずなのに、味が薄く感じた。 美味しくもないものを身体のためにと、摂取しているので、それは気持ち的には食事というより作業に近かったのだ。


サンドイッチをやっとのことで一袋平らげると、小休止とでも言わんばかりにアリスの選んだ体に悪そうな緑色のジュースのキャップを外して、口まで運んでやる。


白湯でも飲ますように、ちょっとずつ、分けて飲ましてやる。 三分の一ほど空いたところで、キャップを閉めて元の位置に置く。 アリスはこんな状況下にも関わらず、目を細め口角を上げ、実に幸せそうな顔をしていた。 税込百四十八円の笑顔か……安いもんだなと、蓮は笑みを漏らす。


それにしても、こんな顔ができるくらいに回復しているなんて、よかった。

やっとできた家族を殺され、自分は四肢を切断され、命を狙われる。 そんなの、人間性が破壊されたって、自分のような復讐鬼に変貌したって、おかしくないだろう。 蓮は少し安堵した。


二袋目のサンドイッチはいつも通りの味がした。


スポーツドリンクで流し込んで早々に食事を済ますと、栄養ドリンクをチビチビ飲み、二人は他愛ない会話をしながら一時間ほど粘った。

アリスの体は相変わらず動かないが、蓮の方は時間が経過してきたこともあり大分、回復してきた。


これなら、もう歩けそうだ。


アリスを不器用に背負って、二人分のリュックサックを腹に抱えてコンビニを出て行った。


コンビニを出て、途方もなく歩いていく。 埼玉県のアビスはまだ攻略されていないが、やはり今の自分達で攻略するのはリスクの高い行為に思えた。


一時間ほど歩いただろうか。 再び、疲れが溜まってきたので蓮は再び別のコンビニに入って、今度はそのコンビニ限定のアイスフロートのようなデザートと緑茶を買い、イートインスペースで一時間半ほど過ごした。 運のいいことに、コンセントがあったのでスマートフォンの充電を済ませておいた。


手元にあるUSBメモリ、この中のデータを見れるのはいつになるだろう。 蓮は邸内で少しだけ見た、看過できないワードを思い出して、胃を掴まれたような、酷い不安に襲われた。 復讐の鬼になったとは言え、相手の規模がデカすぎる。

蓮は、そんなことを考えていると再びノイローゼに罹りそうになった。 しかし、アリスを抱えているという責任感と、仇敵への怨念とでなんとか押し殺すことに成功。 まだ見ぬ仇敵を目指して、店を出る。


それから店を出て真っ直ぐ、歩いていく。

なんとなくスマートフォンを見てみると、時刻は午前三時過ぎを指していた。 会話が途切れたと思ったら、いつの間にかアリスは眠りに落ちていた様子。


蓮は一人になると、酷い恐怖に襲われるようになっていた。 会う人会う人が自分のことを見ているような被害妄想に、銃殺されるかもしれないという恐怖、漠然とした不安。 たまに歩くこともままならないくらいの憂鬱に襲われるくらいだ。


逆に言えば、アリスがいる時は意識が彼女に向くからか、それらの恐怖が和らいだ。 アリスは俺の希望だ、もう生きていく上で欠かせない存在と言っても過言ではない。 しかし、蓮は気付いていなかったが、それは悪い言い方をすれば、依存だった。


蓮は自分の肩に涎を垂らしている少女を見て、微笑む。


それから二時間ほど歩いて、蓮は取り壊しが決定された美術館を見つける。 でかした、これなら誰かに見つかることはないし、身分証明の確認など以ての外だ。


窓ガラスを蹴破って館内に入ると、ライトで照らして館内を睨め回し、二階に上がる。 そこで真っ先に目に付いたソファーに土埃を払ってアリスをゆっくりと寝かせてやる。


「おやすみ」


言って、蓮はすっかり気の緩んだ顔でアリスの頬にキスをする。


自分はまだ、起きていなければなるまい。 蓮はコンビニで購入していた缶コーヒーを開けて、それを飲んで自分に喝を入れる。 彼女の四肢が自由が効くようになるまでは、自分が見守っていなくてはなるまい。



目を覚ました蓮は激しい自責の念を抱く。


ライトで顔を照らされて、自分が寝てしまっていたことに気付いた。 両手に持っている、無機的な黒を基調としたライトに似合わない、身長百五十センチほどの小さな少女。 顔は辛うじて少女と分かる程度で、よく見えない。


クソッ! 蓮は眼前の少女を睨めつけて悪態をつく。

いくら疲れていたとは言え、こんなミスがあるか、と。


「あの〜先客さんですか?」


風鈴のような、聞くものを安心させる綺麗な声。 焦燥や敵意は感じられない。 そして先客とは、どういうことだろう。

言葉の意図が読めない、ということもあって、不思議と警戒心を解いてしまう。


近くに寄られて、初めて少女の顔を視認した。 虹彩が茶を超えて赤色の、黒目がちの切れ長の瞳に、真っ直ぐ切り揃えられた肩までの黒艶の髪。 暗闇ということもあってか、青白いほどに色白な肌。シュッとした輪郭に、骨と皮だけのような細身の身体。

白のカットソーと黒のハーフパンツの上に、薄手の桜色のカーディガンを着ている。 今はもう冬だというのに、寒くないのだろうか。


おそらく同年代か、歳下だろう、と蓮は踏む。


それにしても、不思議な少女だ。 たったの一声でここまで安心させてしまうなんて。 蓮はまるで快楽に理性を蝕まれるような、心を捉えられるような。 そのような、おかしいとは思いつつも、引き込まれていくような不思議な感覚を覚える。


「先客の方でしたら……ご一緒しませんか?」


少女はウイスキーだか日本酒だかの瓶が飛び出ているコンビニのビニール袋を前に持ってきて、首を傾げながら言った。 顔にはキャリアウーマンのような、親しみを覚える笑みが浮かべられている。


自分と同年代の少女は皆、晦渋な文学のように解し難いものだと思っていたが、蓮はこの少女以上に不思議な女の子を未だかつて見たことがなかった。

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