第15話 幕は上がり、そして下りる
照明が落ちると同時にスクリーンも一瞬暗くなり、そして古い時計を模したカウントダウン映像が映し出されて秒針がビートを刻む音楽が始まる。
観客の女性たちは、何かの降臨を待つ儀式の参加者のように画面に映る数字を読み上げていて、藍島は特に声を出していた。
しかしナゴヤドームはとてつもなく広く、彼女たちの声は高すぎる天井に吸い込まれていく。
(だって満員じゃないからな)
他人事ながら俺は、ドーム球場という会場を声援で埋めることの難しさを体感していた。
カウントダウンがゼロになると声援の無力さを覆い隠すように音楽が爆音で鳴り響き、ステージが白く眩しく照らし出される。
金色に輝く複雑な装飾付きの足場が組み上げられた舞台上にはクラッシックな黄色い車を模したセットがあり、エレクトロ調にアレンジされたジャジーな金管楽器の響きとともに、中から黒いタキシードを洒脱に着こなした六人の男たちが現れた。
タキシードは安っぽいものではなく仕立てが良さそうな生地に深みがあるもので、全員雰囲気のあるホンブルグハットを被り、蝶ネクタイやポケットチーフ、革靴など身につけているものすべてが小粋に決まっていた。
歓声は会場全体に響き渡るほど十分ではないものの一段と大きくなり、藍島の声もより気合の入ったものになる。
高まる歓声を堂々と受け止めた男たちは、長い手足で軽やかにチャールストンステップを刻みつつ、あの背伸びした英語の発音で歌い出した。
(まあ、デビュー当時よりは上手くなってんじゃないのか)
椅子に座ったまま腕を組んで批評したい気持ちを堪えて、俺は空気を読んで立ち、見よう見まねでペンライトを振って彼らの歌唱に耳を傾けていた。
共感性羞恥を刺激する歌声なのは相変わらずであるが、声量やリズム感、声の伸びや抑揚などの技術面では大幅な成長が見られており、及第点は取れていると言ってもよい。
オープニングを飾る曲の出来栄えも、狂騒の20年代的なジャズ要素を取り込みつつもラウドロックとして成立しており、聴き応えがあった。
おそらく「パーティーが始まった」「倒れるまで踊り続けよう」というような歌詞を英語で歌っているのであろう男たちは、ウィンクや投げキッスなどあの手この手で観客の女性たちを沸かせていて、藍島も息を飲んだりきゃあと言ったり、反応に忙しい様子である。
確かに数え切れないほどのライトに照らされた舞台上で、凝ったタイポグラフィで歌詞が映し出される巨大なスクリーンを背景にして、金色の足場の上で高級スーツを着て歌い踊る男たちの姿は絢爛豪華で見る者全員の目を奪う。
だがなりゆきでここにいるだけでファンでもなんでもない俺は、彼らのパフォーマンスにかかっている金額の大きさには感心しても、心からの感動はできなかった。
(円盤化とかグッズとかもあるだろうから、多分赤字にはならないだろうけどな)
俺は仏頂面になって周囲から睨まれてしまわないように、なるべく生暖かい眼差しを保った。
男たちが帽子を投げたり、ジャケットを脱いでサスペンダーとワイシャツ姿になったりする度に黄色い歓声が上がるが、俺の心が化粧臭い雰囲気イケメンに動かされることはない。
つまらないトークを挟んでダンスパーティー風の場面が終わると、今度は野球やアメフト、ゴルフやテニスなどそれぞれ違う古めかしいスポーツウェアに身を包んだ男たちが現れてコミカルな歌を歌い出した。
そしてその次にはまた雰囲気をがらりと変えて、マフィア風に毛皮付きのコートを着た男たちが、葉巻やマシンガンで格好つける場面があった。
ダーティーな曲調でグロウルのパートが印象的な、そのマフィア風の衣装での歌唱ではモツヒサという男に特に見せ場があった。
だからそのときには藍島はもう声を上げるという雰囲気ではなく、双眼鏡を覗いて何も言えないほどの歓喜に打ち震えていた。
藍島は彼らを主演にした黒社会が舞台のノワール映画のような妄想に日々励んでいたのだから、彼女がこの悪ぶった出し物に熱狂するのは当然の結果である。
一方で俺は、照明が暗くなっても明るくなっても、ほとんどずっと静かな気持ちでいた。
しかし彼らがカールした金髪やおかっぱの黒髪のかつらを被り、フラッパースタイルの色とりどりのドレスを着て女装をして出てきたときには、思わず俺も借りたオペラグラスを引っ張り出して接眼レンズを覗いた。
ノースリーブで膝上丈の胸元が広く開いたドレスを着た彼らは女性特有のやわらかさに欠けるものの、ちゃんと手入れをしてきたのであろう脚は綺麗で、化粧を直して赤い口紅を塗った顔も俺としては意外とありだった。
長い手袋をはめた彼らの腕が扇情的な振り付けで動くたびに、ドレスに散りばめられたスパンコールやビーズがきらきらときらめき、観客の女性たちの嬉しげなどよめきが気だるげで大人びた雰囲気の歌唱曲にアクセントを作る。
「やばい。普通に女として負けちゃった」
藍島はどちらかというと推しの女装姿をネタ的に受け止めて笑っていて、自虐めいた冗談を俺につぶやいた。
(そんなことはない。藍島の方が可愛い)
と思いつつも、俺はそれなりに真剣に彼らの女装姿を見つめていた。
一曲歌い終えた後に入ったコントめいたトークは単純にファン以外は笑ってはあげられない代物で寒かったが、ここまで女装を極めた手間暇は評価したかった。
フラッパー姿の男たちが去ると、長い着替え時間を持たせるための映像による演出を挟んで、今度は戦場風の場面があった。
暗く赤っぽくなった照明の下で、化粧を落としてくすんだ濃緑色の軍服を着た男たちが、内容が内省的になってきた歌を歌う。
いかにも政治的なメッセージが込められている雰囲気に俺は鼻白んだが、隣の藍島はもちろん、あちこちからすすり泣く声が聞こえてきて怖くなる。
(何でこの内容で泣けるんだよ)
この空間において異分子である俺は、周囲に合わせてペンライトの明かりを消して、よそ見も許されない雰囲気の中ただ前方を凝視して早く時間が過ぎて行くのを待っていた。
俺は模造銃を持って芝居がかったダンスをする舞台上の男たちよりも、化粧が崩れないように涙を堪えてそっとハンカチで目頭を抑える藍島の方が見たかったが、礼儀正しい観客としてそれも我慢する。
ありがたいことに彼らのライブは終盤もテンポよく進み、ステージは適当なところで明るさを取り戻して歌詞も前向きになった。
やがて曲が一番に盛り上がったところで彼らは軍服を脱ぎ、ライブTシャツ姿になって客席に降りてくる。
ドーム全体はざわざわと騒がしくなり、アリーナ席にいる周囲の観客はスタンド席に降りたメンバーの姿を見ようとしたり、逆に後方から来てくれるかもしれないと後ろを振り返ったりして忙しい。
「アリーナ席にも来るメンバーはいるはずなんだけど」
まずは冷静に状況を把握している藍島は、双眼鏡でスタンド席の動きを確認してから後方の出口を見た。
「ってことはこの通路にも?」
藍島がそう言うならそうなんだろうと思いながら、俺はすぐ近くの通路に目を向けた。
通路につながる出口には、プロフェッショナルな表情でインカムに話しかけるスタッフの姿がある。その雰囲気にやはり誰かは来そうだと予想したそのとき、一人の男が出入り口から姿を現した。
「モツヒサくんだ……」
天啓の幻視を目にしたのに近い反応で、藍島は顔を上げている。
(確かにこの男は、藍島の推しのモツヒサだ)
俺の方は無感動に、藍島が見せてくる画面に映っていた顔と今通路を降りてくる男の顔を結びつけていた。
やや色黒で精悍な印象がある一方で、鼻筋の通った顔の造りには繊細さがあるその男は、間違いなくJapan Knightsのグロウル担当のモツヒサである。
微笑みを残しながらゆっくりと移動するモツヒサに、観客の女性たちはキリストを前にした信者のように手を伸ばす。
モツヒサは器用に求めに応じて、目の前に並ぶ数多の手とハイタッチをしていた。
その席のブロックの最下方にいた藍島と俺は、モツヒサと観客の女性たちが絶妙な距離感を保って触れ合っているのがよく見える。
モツヒサを見上げる藍島の横顔は敬虔で、推しがすぐ近くにいることでかえってある種の落ち着きを得たらしく、とても神聖なものを尊ぶ眼差しだった。
重力を感じさせない軽やかさで彼が一番下まで降りてきたとき、藍島は他のどの女性よりも高貴なしぐさで、ココアブラウンのワンピースの袖からのぞく白い手を手を差し出した。
藍島は数多いるファンのうちの一人として彼を愛し讃えていたが、少なくとも俺の目には彼女の特別な輝きは失われていないように見えた。
皆同じ信仰を持っていても、王族と平民では住むところが違うように、藍島は他の観客とは別の地平に立っている。
生の推しを目の前にしてもただの女に成り下がることのない藍島の姿にほっとしつつも、俺は彼女に幻滅する機会が訪れなかったことを残念にも思った。
(ここで藍島のことがどうでもよくなれば、それはそれで楽だったのにな)
丁重に敬愛を示す藍島にモツヒサが恭しく手を重ねるのを間近で見ながら、俺は自分の心のどこかがまた一つ捻じ曲げられていくのを感じた。
もちろんモツヒサはすべての女性に平等に接していたし、藍島も慎ましい態度をとっていたが、彼女の生来の芯の強さを前にした男はそれを何よりも尊重するしかなくなる。
たとえアイドルのファンという立場にいたとしても、藍島は本質的に人に
(だから俺は、いつも藍島に屈服してる)
何もかもが自分の手の届かないところで起きているという理解に至っていた俺は、暗い影に突っ立って二人を眺めていた。
しかしそのとき、モツヒサは藍島の後ろにいる俺に気づいて微笑んだ。
多分、男ファンらしき人物がいたことが嬉しかったのだろう。
その笑顔は他の女性客はもちろん、藍島に向けられていたものよりも眩しく、作り物ではない眩しさがあった。
(ああ、そうか。この男にとっては、俺もそのファンサってやつの対象なのか)
傍観者の気分でいた俺は、唐突に自分も当事者である事実を突き付けられ、慌てて怯んで立ちすくむ。
だが推しの視線の先に俺がいることに気付いた藍島が、嫉妬や羨望といった負の感情を一切見せることなく、完全な善意で身を引いて俺を前に招いたので、俺はモツヒサという男になんの遮蔽もなく向き合うことになった。
改めて対面してみると、モツヒサは俺よりもずっと背は高いが華奢で、ライブTシャツの下の身体は薄く、日焼けした端正な顔は瞳に確かなきらめきを宿していても頬は若干やつれていた。
多分、売れてなくても彼らはそれなりに忙しいのだろう。
(とりあえず、ハイタッチすれば良いんだよな)
浮かれた気持ちはまったくなく、俺は義務感で他の観客の真似をして、ペンライトをもっていなかった方の手のひらを胸のたかさに上げた。
俺の態度の悪さを緊張と解釈しているのであろうモツヒサは、俺の戸惑いや恐れをすべて受け止め、胸の奥にあるのかもしれない純真さを掬い上げるようにそっと優しく俺の手に触れた。
モツヒサの腕は細かったが、少し汗をかいた熱い手のひらの大きさや硬さはやはり男らしく、俺と同じところもあればまったく違うところもあった。
(同じと言っても、同じ人間で同じ男ってだけだが)
どこまでも冷静なまま、一瞬の接触で得た情報を脳の中で処理していた。
俺は実際のところはまったくファンではない、偶然でやって来た男だから、興味のない男に触れられても道を間違えることはない。
だがそれでも男が異性に求めるものとは根本的に違う、女子が好む
もしも俺が無垢な生娘だったら、必ず深い沼に落ちていたはずである。
このときまでずっと心のどこかで馬鹿にしてきたが、モツヒサは確かに女性を熱狂させる力を持った一人の男アイドルだった。
そう結論づけたときにはもうすでにその手は離れていて、俺と藍島は出口へと去っていくモツヒサの後ろ姿を見送っている。
Tシャツに描かれたライブ名とグループ名のロゴを背負った背中は、数え切れないほどの女性の期待と慕情を受け止めるには小さく見えたが、もしかするとそれも母性本能をくすぐるための作戦なのかもしれない。
「ね。モツヒサくんは最高でしょ」
幸せなひとときの中で語彙力を失った藍島が、自分の席に戻る俺にささやく。
俺は感じ入ったふりをして黙って頷き、つい先ほどまでそこにいた男と重ねた手のひらを見つめた。
時間にしてみれば一瞬のことであるが、好きではなくとも濃密で印象的な記憶が残る。
それからメンバーが順番にそれぞれの持ち場に行って戻ってきたところで客降りは終わり、再びステージに全員が並んで一曲を歌ってライブは終わった。
「これで終わりなのか?」
思いの外あっさりとした終幕に拍子抜けして、俺はすべての照明が点灯して明るくなった天井を見上げた。
「ジャパナイのライブは演出を大事にするから、アンコールはないんだよ。そういうものだって、ファンも受け入れてるから」
藍島はこれまだ自慢げに、Japan Knightsというアイドルグループのアーティストぶったこだわりを説明する。
確かに藍島の言う通り、アンコールがなくても観客たちは満ち足りた表情で、会場内のざわめきに耳を澄してみてもライブを称える言葉しか聞こえなかった。
(まあ確かにアンコールがないならないで、すっきりしていていいな)
長々とアンコールをやられても困る俺は、はっきりと終幕を定める趣向にすぐに納得し、藍島にお礼を言ってオペラグラスとペンライトを返却した。
そのうちに分散退場のアナウンスが入って観客は順番に去っていき、俺と藍島も指示に従って会場を後にした。
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