第14話 ナゴヤドーム
その後、紫のラインの入った名城線の銀色の車体に乗り込み、そこそこの満員電車に揺られること約三十分。
やっとナゴヤドーム前矢田駅に辿りついた俺と藍島は、人の流れにのって地下鉄を降りた。
「ナゴヤドームに来るのは、一年ぶりくらいかな。与村は?」
「俺は多分、小学生の頃以来だな。地元の子ども会か何かのバスで、野球観戦に来た気がする」
俺は野球にそれほど興味はないので、団体のイベントか何かがない限りは観戦することはない。また音楽関連に関しても、いつもサブスクで聞くだけなのでライブに出かけることはなかった。
(だから別に、この場所に思い入れとかはない)
自分とナゴヤドームの距離の遠さを再確認しながら、俺は初めて降りた見慣れぬ地下鉄の駅を見回した。
一ヶ月後には日々野球の興行が行われているのであろうナゴヤドームのその最寄り駅には、いたるところに地元球団の青いコアラや竜のキャラクターのイラストが貼ってあり、あとどれくらい歩けば球場に着くのかを教えてくれている。
「やっぱり大きいね、ナゴヤドーム」
青と白で彩られた地下通路を抜け、爽やかな初春の風にいくつものペナント状の飾りがはためく
ほどほどに晴れた青空の下、白い屋根がゆるやかな曲線を描くナゴヤドームはやはり巨大で、愛知県のエンターテイメント施設の頂点らしい威容を誇っている。
「モツヒサくんはどっちかと言うとバスケが好きなんだけど、ヤタロウは実際はニワカでも一応幼少時からのプロ野球ファンってことになってるから、ナゴヤドームでライブができることがより嬉しんだって」
万物を推しと推しの所属するグループに結びつける藍島は、野球も当然好きな方向に引き寄せた。
(でもヤタロウって男について話すときは、ちょっとコメントが辛辣だよな)
本当の推しと、推しの周囲を完全に区別する藍島は、真の愛情を示す範囲に厳しい基準を持っている。
やがて歩道を渡り終わると、黒を貴重にしたアールデコ調の看板が掲げられた入場口がそこにあった。
藍島も写真を撮っていたし、周りの女性も皆同じようにスマホを向けていたので、俺も周囲に合わせてカメラアプリを使った。
看板を撮りつつも、藍島をわざとフレームの中に収めたのは一生のものの秘密である。
写真を撮ったあとは、場内に入る列に並んだ。
前の方を見てみると、係員のチケット確認はスムーズで、人の列は滞ることなく会場の中へと進んでいく。
思っていたよりも人だかりが少ない入場口の様子に、俺は拍子抜けして首を傾げた。
「グッズ買うとか、そういうのはいいのか?」
「うん。ペンラとか、欲しいものはネットで買ってあるから」
藍島はポシェットから帆立の殻に棒をつけたような形の、おそらくこれもアールデコを意識しているのであろうデザインのペンライトを出し、俺に見せた。
「直前の物販に力入れて、ライブの直後に特典会やるところもあるけどね。でもジャパナイは、接触イベントじゃなくて音楽の力で売れたいグループだから」
アーティストぶっているとも言われる男アイドルの方向性を、ファンである藍島は好意的に説明する。
それから藍島は今度はごく普通の形のペンライトを出して、古いものだけど良かったら使ってほしいと俺に渡して貸した。
俺はお礼を言って、押し付けられたペンライトのスイッチを試しに入れてみる。
そしてグループ名のロゴの入った細長いライト部分が、真昼の明るさの中でも健気に光を発したのを見て、俺はスイッチを切った。
そのうちにすぐに係員の立っているところまで列が進み、チケットのQRコードは機械にすぐに読み取られて俺と藍島は会場内に入る。
(普通の野球試合のときとは、全然雰囲気が違う)
無感動なおぼろげな記憶ではあるが、俺は以前に来たときの印象と今を比べて、ここまでの道のりよりも差異を強く感じた。
ホットスナックやビールを売っている売店はすべて閉まっており、通路には関係者が送ったスタンド花がずらりと並んでいる。
あの鷹揚で緊張感のない野球ファンの人々の姿はどこにもなく、代わりに大人っぽく小洒落た装いの若い女性たちが明るい表情で歩いていた。
(やっぱり藍島が一番なんだが、みんな綺麗な人ばかりだな)
俺は挙動不審に道行く人をちらちらと見て、自分がひどく場違いなところに来てしまったような気持ちになった。
男アイドルのライブと聞いて想定されるような、オタク臭い量産型の女子の姿は目立たず、通路には洗練された二、三十代向けファッション誌のような服装の女性ばかりが歩いている。
男性客もいることにはいるのだが、そのだいたいがハイセンスな抜け感のある業界人風の男ばかりであるので、疎外感は余計に強まる。
(もうこれ絶対、俺みたいなキモオタが来て良い場所じゃないだろ。俺の本当の居場所はインターネットの石の裏側の暗いところなのに、なんでこんなところにいるんだよ)
俺は心が挫けそうになりながらも、藍島にトイレに行くことを申し出て、鑑賞前に用を足した。
女子トイレはそれなりの列ができていて藍島はなかなか戻ってこなかったが、男子トイレは当然空いていてゆっくりできたのは救いだった。
それから客席で藍島と再び落ち合ったのは、開演時間の十五分前のことである。
ナゴヤドームの内部は四万人を収容できるだけあって広く、巨大な格子状の骨組みが組まれた屋根の下には、米粒のように小さく見える大勢の観客が並んでいた。
俺と藍島の席は内野のスタンド席で、ステージからの距離はあるものの全体は見やすく通路にも近い。
「ジャパナイのライブは演出凝ってるからね。アリーナ席の臨場感も良いけど、ここからなら全体の雰囲気を楽しめるよ」
折りたたみ椅子を下ろして席について、藍島は初心者の俺にあれこれと話しかける。
確かに藍島の言う通り、幾何学的なフレームで飾られたステージ上のスクリーンに流れる物販商品の広告や電子機器の電源についての注意は、レトロな1920年代風のデザインで凝っていた。
しかし数分ほどで映像を見るのも飽きて、俺は客席の様子を眺めることにした。
「そういえば、うちわを持ってる人はいないんだな」
推し活のパブリックイメージである、あの色鮮やかに文字が書かれたうちわを見かけないことに、俺は気付いてつぶやいた。
藍島はその疑問に苦笑して、外国人みたいに首を振った。
「ああ。あのファンサして、とか書くやつ? ジャパナイのファンは世界観を大事にしてるから、そういうのはやらないなあ」
ここでも藍島は、自分たちは推しを単なる消費財ではなく、表現者として扱っているのだと主張する。
どの世界にも面倒くさいオタクはいるのだと、俺は微笑ましい気持ちになって頷いた。
やがて開演五分前になったところで、俺はふと違和感を感じて会場内を見渡す。
(なんか、空席が多いな……)
さすがにアリーナ席は満員だが、あと五分では絶対に埋まらないであろう数の空席が後方には多数存在している。
俺がその大きすぎる空白をじっと見つめていると、藍島がその視線に気づいたらしくめずらしく小声で話し出した。
「ジャパナイはコアな人気はあっても、まだあんまり一般層には浸透してなくて。今日も完売はできてないんだけど、でも東京はもっと残席が少ないらしいから」
ぼそぼそと推しの不人気を取り繕う藍島の表情に普段の完璧さはなく、空席へ向けられた眼差しには不安げな色がある。
藍島の深刻そうな様子からすると、結局東京でも席を埋められないJapan Knightsの人気の無さは、それなりに重大なものであるようだった。
(売上が微妙とは聞いていたが、ジャパナイってやつらは本当に人気がないんだな)
これほどまでにお金をかけてもらえたイケメンでも、満席という大手芸能事務所のアイドルとして当然期待されている結果を出すことができないのだと思うと、俺は妙にすっきりとした気分になった。
ルサンチマンがプラス方向に働くことで元気になることもあるのだということを、多数ご用意されすぎている空席は学ばせてくれる。
藍島の方はというと、痛ましげに埋まらない後方の席を見上げていたが、すぐに明るい声で気を取り直して、ポシェットの中を探り出した。
「あ、そうそう。これも余分に持ってきたから、細かいところを見るのに使っていいよ」
ペンライトの次に藍島が俺に貸してくれたのは、小さな折りたたみの茶色いオペラグラスだった。
「ああ、ありがとう」
ペンライトとオペラグラスを同時に持たされた俺は、両手が塞がったのでオペラグラスは一旦サコッシュにしまった。
藍島は自分用の双眼鏡のピントを合わせていたが、その姿はまるで旗艦にZ旗が掲げられているのを目撃しているかのように真剣だった。
彼女が魔女なのか軍人なのかわからないが、俺は藍島はやはり本物なのだと感じた。
午後四時三十分ちょうどになったところで、予定通りに開演ブザーが鳴って照明が落ちる。
「これで始まるね」
藍島は声を低くして囁いてから、周囲の人達と一緒に立ち上がった。
このときに俺が高揚感を覚えていたとしたらそれはきっと、藍島が距離をつめて吐息が感じられるほど近くから俺に耳打ちしたからだった。
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