第13話 車窓に大仏
空気のぬるい暖冬は流れるように過ぎていき、藍島とライブに行く約束をした三月の最初の土曜日は嫌になるほどすぐにやって来る。
薄雲のかかった水色の空がほどよいぬくもりを伝える早春の休日の午後に、俺は母親に帰りが遅くなることを伝えて玄関を後にし、マンションのエレベーターを降りた。
(家が駅に近いのはありがたいが、大野町駅は日中の電車の本数が少ないのがなあ)
朝と深夜以外は急行も通過するベッドタウン仕様の時刻表に心中ぼやきながら、エントランスから外に出て乾いたアスファルト路地を歩き出す。
駅へと続く道は狭く、いくつかの集合住宅がある他はほとんど一軒家で高さのある建物が少ないので空は広かった。
しかし大野町は、何もないところというわけでもない。
伊勢湾に面する知多半島西側に位置し、古くから海運で栄えた土地である大野町は、江戸時代には鍛冶業や酒造業などの商工業も盛んな港町になった。常滑産の陶器が全国に広まったのも、大野町の強力な海運の力があってのことである。
やがて明治に時代が移ると観光業が発展し、鴨長明が和歌に詠んだ歴史もある大野町の海水浴場はモダンなレジャー文化の発信地として人気を博した。
だが水質が悪化した戦後は
とは言え海運業や商工業、観光業などによって大野町に活気があった時代が存在するのは事実であり、妙に立派な社寺や古い町家、海沿いに並ぶヤシの木などに過ぎ去った歴史を感じることができる。
マンションから駅への徒歩五分の道のりには郷土菓子であるえびせんべいを売る和菓子屋と古い喫茶店しかないものの、俺がこの
それから数百メートルほど歩いたところで、三つ四つ並ぶ丸いガラス窓がわずかに観光地らしい楽しげな雰囲気を醸し出す無人駅の大野町駅に着いた俺は、ICカードで改札を通って名古屋方面行きの準急に乗った。
休日なのでそれなりに乗客はいたが、準急なので座れないというほどではなく、暖房と日差しで暖められた車内は春らしい穏やかな雰囲気で満ちている。
(名古屋に行くのは、結構久々かもしれないな)
そこまで遠い場所ではないのだが、普段は家から出ることも少ないインドアな俺にとっては、名古屋に出かける日は少し特別な一日だった。
座席の温もりにうとうとしつつ、郊外をゆっくりと走る電車に揺られること約二十分。
特急が停車する乗り換え駅である太田川駅到着のアナウンスで慌てて起きて降りると、待ち合わせ場所である3・4番線のホームにはすでに藍島が待っていた。
「おはよう、与村」
普段よりもさらに張りのある声を響かせて、藍島は俺の名前を呼んだ。
さらに上階の線路が影を作る太田川駅のホームに立つ藍島の瞳は、戦場に喜んで赴くよく教育された兵士のような熱を帯びていて、俺が今日ここまで過ごしてきた平穏な半日とはまったく違う緊張感を持っている。
この片田舎の人の賑わいの中でまるで異質な藍島の美しさに、俺は思わず息を飲んだ。
モデルというよりはアスリートのようにスタイルの良い彼女の戦闘服は、細プリーツが全体に入ったココアブラウンの膝下ワンピースで、肩には黒色のポシェットを斜め掛けしている。
足元はポシェットと同じ黒色のヒールが低めのレザーのショートブーツを履いており、バランスのよいコーディネイトになっていた。
また普段は下ろしている長い髪はアップヘアにまとめられ、耳には金色の大きな輪っかのイヤリングが留まっている。
いつもにも増して華やかで凛々しい顔は当然シックな色合いのリップグロスやアイブローで化粧をしていて、近づかれるとふわりとチョコレート系の香水の甘い匂いがした。
(今日の藍島は、可愛いっていうか綺麗ですごい)
外国の写真から抜けてできた女優のようにキマった藍島の麗しい姿に、俺の頭は一瞬真っ白になる。
服の色も匂いも身につけている何もかもが、彼女が推しのために選んだものだと考えると胸の奥がモヤッと重くなるのは確かだが、そうした背景を差し引いても今日ここに立っている藍島が圧倒的な美しさを湛えているのは事実であり、見る者の目を惹きつけて離さない魅力があった。
(藍島はそこらへんの多人数の女アイドルグループみたいなコンビニで買える大量生産品のチョコじゃなくて、百貨店最上階のバレンタインフェアで売ってる何千、何万円もする高級ショコラだったんだな)
過剰すぎる比喩を頭に思い浮かべながら、俺は後ずさりしてホームから落ちてしまわないように両足にしっかりと力を込める。
大人っぽいコンサバ系のファッションに身を包んだ藍島は、男子高校生が思い描くお洒落で可愛い女子の私服姿を遥かに越えて、近寄りがたい高みに立っていた。
「ああ、おはよう。その推しカラー?のワンピ、すっごい似合ってるな」
多分ものすごく気持ち悪い粘ついた話し方をしているだろうなと思いつつ、俺は何か言葉を発さなくてはならないとお世辞めいた本音を言う。
今更になって俺は、好きでもない男アイドルのライブに行くのに気乗りしなくて忘れていた、もしかしたら同級生とのデートかもしれないイベントに
俺がその完璧な装いを称えると、藍島は上品にスカートの裾を軽く持ち上げて、カテーシーをするようにお辞儀をした。
「ありがとう。与村もジャパナイのグループカラーの服でばっちりだね」
優雅で茶目っ気のある可愛らしい動作で応えて、藍島は俺の服を褒め返してくれる。
俺が着ているのは初心者はモノトーンコーデが無難とネット見かけて近所の量販店で買ったブラックデニムのジーンズと白のオーバーシャツで、眼鏡は普段通りのブルーライトカット機能がついてるだけの安物である。
だが藍島は俺のその消極的な選択を推しのアイドルグループに合わせたものと勝手に考えて、にっこりと微笑んでいた。
「うん……まあ、そういう感じだ」
俺は適当に話を合わせて、否定はせずに頷いた。
そうこうしているうちにホームに特急の電車がやって来たので、俺と藍島は近くのドアから車両に乗り込んだ。
準急と違って特急の車内はやや混み合っていて、俺と藍島の距離は自然に近くなる。
「私は今日のライブのテーマのダンス・マラソンに合わせてみたんだけどね。ダンス・マラソンって、1920年代のアメリカで始まった誰が一番長く踊り続けられるか競うイベントなわけだけど、これが結構意味が深くて」
車内の
俺は吊り革を掴み、あまりにも近くに居すぎる藍島を直視できずに名鉄沿線の観光案内の車内広告をじっと見つめる。
他の乗客の話し声と電車の走行音がうるさくても藍島の声ははっきりと聞こえる一方で、内容はなかなか俺の頭に入ってこなかった。
「ダンス・マラソンって今はチャリティー目的で開かれることが多い楽しいイベントである一方で、大恐慌時代のアメリカでは非人道的なリアリティーショーとして行われていてね」
藍島の
「あ、ほら大仏だよ」
子どものように無邪気に、藍島は窓の外の景色に目を輝かせる。
道端にある駐車場、そして小高い公園の緑とともに見えるのは、やわらかな春光に照らされた巨大な銅色の阿弥陀如来の坐像であった。
それは山田才吉という明治から昭和にかけて活躍した実業家がその地を
「電車から
聚楽園の大仏の前を通過することは、藍島にとってこれから遠出する実感を得る重要なイベントの一つであるようである。
そしてその感覚は、同じ知多半島の住民である俺も共通して持っていた。
「ああ。このときだけはスマホを見るのやめて、大仏を見る」
ダンス・マラソンとアメリカ社会の関係についてはいまいちぴんとこなくても、聚楽園の大仏への愛着はすぐに同調して俺は頷く。
藍島に推しの話を中断させるとは、大仏の力はやはり偉大である。
だが藍島が推し以外の偶像に心を奪われる時間は一瞬で終わり、すぐにこれから見に行くライブのテーマ設定の話に戻った。
「それでね、そういうアメリカの歴史を踏まえると、今回のジャパナイのライブにかなりの社会風刺性があるがあるのは明白なんだけど」
それから名古屋につくまでの間、藍島はライブに先行してリリースされたアルバム内の楽曲に、20世紀前半から半ばまでのアメリカ文学の引用が多数含まれていることについての考察を延々と語っていた。
俺は藍島の講義のおかげで、第一次世界大戦への派兵によって不信感や喪失感を抱えた当時の若者たちをアメリカでは失われた世代と呼び、その子どもたちは大恐慌と第二次世界大戦というさらなる災禍を青少年期に経験したビート世代になったということを学んだ。
(いつの時代も、貧乏くじを引くことになる人々はいるものだ。そして先人たちの不幸を忘れて、自分たちが一番不幸なんだと思い込む)
歴史を知ることで、俺は社会不安を煽る風潮に対して少しだけ冷静になる。
だが藍島の話に耳を傾けてもジャパナイというアイドルグープについては結局、節操がなくてペダンチックな芸風であるということ以外よくわからなかった。
名古屋駅の手前の金山駅で降りた後は、名城線右回りの地下鉄に乗り換える。
金山駅の地下につながる長い長いエスカレーターを降りて、利用者の多い改札を抜けて大曽根方面のホームに着くと、周囲には次第に同じライブ会場に行くのであろうめかし込んだ女性たちが増えていた。
「……今回のアルバムの歌詞カードに載ってるモツヒサくんの写真は、代表的なビートニク作家のジャック・ケルアックのパロディなんだって。ケルアックは結構なハンサムで写りの良い写真がたくさん残ってるから、ビジュアル込みで人気のある人だったんだろうね」
「なるほど。つまり日本で言う、太宰治とか萩原朔太郎みたいなものか」
「そう、そういうの。私にとってはモツヒサくんの方が美男子なんだけどね」
まだ続いている推しについての藍島の深堀りと自慢を適当に聞き流しながら、俺は太田川駅のホームで藍島に会ったときに感じた胸の高鳴りが確実に遠ざかってることに安心しつつも、どこか寂しくなった。
(学校で一番の美少女なのに誰の恋愛対象にもならない濃いドルオタなのが藍島だってことは、最初からわかっていたはずだ)
藍島は俺のようなキモメンを見下しているわけでもなく、意図的に無視しているわけでもなく、ただ何も見ていなかった。
彼女の澄んだ
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