16.不完全情緒ドロップアウト
「今までお世話になりました」
手に持っている紙袋を前方へ差し出しながら深々と頭を下げる。中には駅近で探り探りで買った和菓子の詰め合わせがはいっていた。好みを知り得ていなかったので果たして口に合うかはわからないが、店長は何の躊躇いもなくそれを受け取ると豪快な笑みで受け入れる。
「わざわざ手土産なんて、相変わらず真面目なやつだなぁお前は。これから金も必要になってくるだろうに、無理しなくてもよかったんだぜ?」
「いいえ、これは私の気持ちなので。店長には本当にお世話になりましたから」
焦げた肉の香りが鼻腔に触れる、狭い焼肉店。ここは私がメアの家に住み始めてから世話になっているバイト先だった。昔から営んでいるらしく、建物の節々には年期の深さが伺えるが、そこに味を感じたのも私がここを選んだ決め手になっていた。二ヶ月という期間は短いようで長くて、正直な話、未練がないと言えば嘘になる。口は悪いが優しい店長も、飲食店慣れし冗談が飛び交う同僚たちとの関係も、様々な色を宿した個性的な客も、私にはとても心地よく日々の平穏さを噛み締めていた。
その生活も今日で終わるのだと思うと口惜しい。仕方がない事だとはわかっているが、この感情は簡単には割り切りたくなかった。
「しかし最初にヒカリの姿を見た時は随分驚かされたな。まさか鱗が無い人間がこの世に存在しているなんて。面接の時にゃ平静を装っていたが、内心パニック状態だったんだぜ?」
「装えてなかったですけどね?」
そう言って笑い合う。
ひとしきり笑った後、漆黒の龍人は一息つくとカウンターに体を預け、落ち着いた笑みを浮かべた。
「他の奴らに挨拶は済ませたのか?」
「はい、デルディマ以外は」
「ははは、本当に仲悪ぃなお前ぇらは!」
「冗談ですよ、研修中に一番世話になったのは彼ですから。しっかりお礼伝えときました」
「さすが、真面目だな」
照明が微かに揺れる。客も他のバイトもいない店内に私たちの笑い声が反響する。その声が途切れるのを見計らって私は「さて」と声を漏らした。
「もう、行くのか?」
「はい、準備もあるので」
おじさんの寂しそうな瞳に吸い込まれそうになるが、拳を強く握って私は扉へと向く。少し顔を傾けるとカウンター添いの壁の上に物凄い数のメニューが並んでいるのが見えた。これらを覚えるのにどれほど時間がかかったことか。怒られた数は途方もないが、そのどれもが相当昔のことのように感じてしまう。
しかし私は確信した。ここでの記憶は間違いなく私の宝物になったのだと。今、この瞬間にこの場所は私の世界として確立し、そしてこれからも私にとって特別なのだと。
「まあ、なんだ……」
鱗にツヤの薄い、歳を重ねているであろう表情が迷いを見せる。バイトがいなくなる度にこんな顔をしていたらキリがないだろう。などと冷めたことを思ったりもするが、それでもやはり、私もそんな彼の情緒に心を動かされている。こういった彼の雰囲気は、どことなくジョンに似ているような気がしなくもなかった。
「……今だから言えるが、俺は本当にお前のことを気に入っていたんだ。今まで色んなバイトを見てきたがお前ほど誠実で真面目な人間は中々いなかった。色んなことに気づいてすぐに行動に移せる上に周囲の空気を読める。その上、気が利くときた。若いのに大したもんだといつも感心してたんだ」
「私はそんな、できた人間じゃありませんよ」
「そうやってお前はよく自分を過小評価するがな、本当なんだぞ? それが誰にでも分け隔てなくできるから、媚びてる感じも無いし。最初はこれも才能かと思っていたが、才能ってだけでここまでできるもんじゃねぇ。お前の心が、しっかりと育ってる証拠だって俺は思うね」
何故か鼻高々に語る店長とは裏腹に私は再び、胸に晴れない深い霧を抱えていた。
誠実で真面目。誰にでも分け隔てなく接することができる。こんな評価はきっと日本にいた頃の私では到底受ける事はできなかっただろう。私はずっと、芽依をいじめていた。彼女を苦しみの渦中に誘い閉じ込め、世界を歪め心を閉ざさせてしまった。しっかり育った人間が、他者を陥れ笑っていられるものか。私は全うとは程遠い、最低な人間なのだ。
「そう、全部お前のせいだから」
女性の声色が聞こえ目を開くと、私は再び暗闇に立っていた。そこに存在しているのは毎度の如く、私と芽依のみ。
「……芽依」
「野吹さえいなければ、私はもっと幸せな人生をおくれてたんだ。お前が、私から全てを奪ったんだ」
「……本当にごめん」
芽依は幼さの残る可愛らしい顔を憎悪に歪めながら私を指さした。
「返せ。返せよ!」
「……ごめん」
彼女は駆け寄り、私の胸ぐらを掴む。激しく揺らされるも私は一切抵抗することができなかった。
「お前ばっかり幸せになってんじゃねぇ!」
「ヒカリ?」
ハッとして周囲を見渡す。染み付いた焦げ肉の香りが鼻に抜けて、私は自分がどこにいたのかを思い出す。胸に手を触れずとも、心臓が自己を激しく主張している事が感じられた。
目前では店長が不安や心配を隠さずに私の肩に手を置いている。もしかしたら体を揺らして上の空な私の意識を戻そうとしてくれていたのかもしれない。もう辞めるバイト先に要らぬ心配をかけてしまうあたり、私はやはりできた人間では無いのだ。
「お前は褒める度に暗い顔をする。だからこれまであまり無闇矢鱈に賞賛するような真似は控えようとずっと思っていたんだ。けど最後だからどうしても感謝を伝えたかった。お前が不快に思ったなら謝る。すまなかった」
頭を下げる店長を見て、私は唇を噛んだ。折角良い流れで別れられると思っていたのにこれでは台無しである。
「私の方こそ、ごめんなさい。全部私が悪いんです。店長は何にも悪くありません。だから顔を上げてください」
「ヒカリ」肩に置かれた手に力が入るのがわかる。そして龍人の目も、心なしか鋭くなっているように見えた。
息を呑む。鼓動の暴走は依然止まらない。
「この先、色んな困難がお前を待ち受けると思う。そしてそれを乗り越えなくちゃならなくなる時が来る。お前は優しいが同時に臆病で自己評価が低い。本当はもっとできるやつなのに勿体ない」
「そんなこと……」
「そう思うのはわかってる。けど覚えておいてほしい。誰が何と言おうと、少なくとも俺はお前が出来るやつだと知ってる。自分に自信が持てないのは仕方ない。でも俺はお前が誰よりも優しく気の利いたやつだって知ってるんだ。そう思っている人間が少なからずいる事を覚えておいてほしい」
胸に留まる濃霧に消える気配はない。それでもその中にら薄らと光が見えたような気がした。モヤモヤと渦巻く闇の中に抗いを見せる、一筋の光が。
「きっと俺だけじゃない。この世界でお前に関わった全ての人間が思ってるはずだ。お前はすごいやつだってな。二ヶ月しか共にしなかった俺が言ってんだぜ? 間違いねぇよ。だから自信を持て、な?」
優しい笑みを覗かせる店長の手が和らぐ。
鼓動はいつのまにか通常営業に一転していた。目を瞑りそっと胸に手を置く。
芽依をいじめたのは私だ。それは消えることのない確かなる真実。でもここで働いたこの二ヶ月間もまた真実なのだ。その二ヶ月間の評価を彼は私にくだしている。いくら疑わしかろうと、納得できなかろうと、それは受け入れるべき真実。少なくとも私にとっては大切な事実だ。
「ありがとうございます。店長」
だから私は素直な言葉を、感謝という形で示す。彼が私に誠意を持って賞賛してくれたように、私は私の誠意を彼へとぶつける。
「おう。……もう行くんだろう? 体に気ぃつけて元気でな」
「……はい。本当にありがとうございました」
私は今一度深く頭を下げて扉へと手をかけた。
二ヶ月前、この世界へ来た頃に比べて遥かな熱を帯びた空気が私を出迎える。この街は他の場と違い季節によって大幅に気候が変わるらしく、そういった日本に良く似た気候すら私の胸をざわつかせる。今は蒼天の星。日本で言うと二月で夏に位置する気候になっている。
外に出た瞬間、吹き出るような汗が額から滲む。しかし私は照りつける太陽に対抗意識を燃やすように街へと駆け出した。夏はまだ始まったばかりだ。
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