12.プラネタリウムが見た夜景

 その後、私は証言者として、ジョンは警察官として警察署へ向かった。署内は、事件の全貌を明らかにすべく多大な時間と人手がかけられており、至る所が騒々しく動き回っている。


 署についてからまず、食事や水分補給を勧められた私はそれに従い一時の休息を取った。結局最初に想定した通り、三日間飲まず食わずの状態になってしまっていた私の体力は、ほとんど限界に近くなっていて、ジョンに抱きしめられていた時も疲労感や空腹感が一気に押し寄せ、その場に倒れそうになってしまったくらいだった。その後の検査で、実は相当危なかったらしい事が明らかになったのだが、危機的な感覚が全く無かったのがまた恐ろしい話である。


 そして十分な休息を取った後、今回の事件の、私の知り得る一部の情報を提示、解説をした。元々私はそれほど詳しく知っているわけではないので、これはそれほど長くは行われず、数十分もすれば私は解放され、その後はまた休憩時間へと当てられることになった。


 因みに、何故三日間なのかが私には最初理解できなかったのだが、どうやらケイトに眠らされていた時に丸一日が経過していたらしい。お陰で目は冴えているし、食事を済ませた今となっては元気が有り余ってしまっているくらいだった。


 ジョンはというと、仕事の引き継ぎをするとかでずっとどこかへ行ってしまっている。彼が出てからもうどれほど時間が経ったろうか。休めるのは非常にありがたかったが、一人の時間が長く続けば、当然寂しさが顔を覗かせてくる。仕事なので仕方がないが、退屈な気持ちは私の中からとても消える気配がなかった。


 それにこれからの事を思うと憂鬱だ。生きる道を選んだのは良いが、生活できる場所がなくて死にましたでは話にならない。三日前にこの世界へ来た私には存在証明も身元もないし、頼る当てもない。もしかしなくても、警察へ来ることすら本当は良くなかったのかもしれないのだ。ため息が漏れる。前途多難もいいところだ。


 そして私のため息と同時に通路と繋がっている扉が開かれた。


「待たせたなぁヒカリ!」


 狙ったようなタイミングで顔を出したのは、いつも間の良いジョンだ。その顔には若干の疲労感が伺えるが、彼は相変わらずの愛想の良さで私の前へとやってきた。


「みんな話が長ぇからさぁ、ヒカリが待ってるっつってんのに全然聞かねぇの! 参っちゃうよなぁホント」


「めっちゃ待ったけど大丈夫。警察は話すことが仕事なんだから仕方ないよ」


「何だやけに物分かり良いじゃねぇか。まあいいか、帰るぞ」


 ジョンは背負っていた鞄を無機質なテーブルの上に置き、何やら漁り始める。


「え?」だが私はそんな彼に怪訝な顔で返した。


「あ?」そんな私にまた怪訝な顔で返してくるジョン。


 それから私たちはお互いに睨み合うような形で固まった。その間は一瞬だったかもしれないし、数十秒と経っていたかもしれない。しかし耐えきれなくなった私たちは小さく、そしてやがて徐々に声を大きく笑いあった。


「どうしたどうした、急に止まって」


「だって、私が家ないこと知ってるくせに帰ろうなんて言うんだもん。そりゃ止まるでしょ」


 ジョンは納得したように「あー」と声を漏らすと、再び鞄の中へと視線を戻し右手を忙しなく動かした。さっきから何を探しているのだろうか。


「ヒカリ、お前は今日からメアさんって人の娘って事になった。俺の住んでる所の大家さんなんだが、事情を説明したら快く引き受けてくれたんだ。行く当てが無いって言ってただろ。だからとりあえず今日から一緒に住むぞ」


「本当に一回ちょっと待って」


「悪い待てない。これはもう決まったことだからな。これが保険証と人間証明証」


 ジョンは鞄から紙切れを取り出すと私の前へと差し出す。それは私の名前や住所、諸々の個人情報が書かれた保険証だった。もちろん、住所が指すのは知らない場所だし、あらゆる個人情報は私の理解に達していない。わかるのはカタカナで書かれた「ノブキヒカリ」の文字のみ。


 私が受け取ったのを確認すると、ジョンは私の手を取った。


「説明はあとだ、とりあえず出るぞ。ここじゃ話しにくいからな」


 そうして私たちは手を繋いだまま警察署を早足に退散した。その間、ずっと映っていた彼の後ろ姿を見て私は喉の奥が熱くなるのを感じていた。


 警察署を出ると、辺りは当たり前のように暗くなっていて道にはライトを点けた馬車が点々と走り回っていた。澄んだ空気は星空さえも鮮明に広げる。自然が生み出したプラネタリウムを見上げながら感嘆の声を漏らし、恐怖のない暗闇を堪能していく。並ぶ民家は灯り様々に夜道を照らしており、私たちに正しさを明確に示してくれる。


 手を引くジョンは私には目も向けず前進し続けているが、歩幅は私に合わせてくれていて、急ぐ必要は全く無かった。それに、私を導くその背中はどこか嬉しそうに見えた。


「ねえジョン」彼から声がかからないのを確信し、自分から呼びかけてみる。


「ん?」ジョンは二十度ほど、こちらへ首を向ける。ギリギリ見えない表情には、光が灯っているように見えた。


「一つ、ちゃんと言っておきたいことがあって」


「なんだよ、勿体ぶって」


「改めて、私が貴方に言ってしまった事を謝りたい。ごめんなさい、本当に反省してる」


「ああ、良いって本当に。それに本気じゃ無いことはわかってたし」


「え?」そこでジョンは歩みを止めた。


 右手に見える公園の灯りが私たちを誘うようにほんのりと道を照らす。


「ちょっと、寄ってこうぜ」


 引く手が強くて、抗う間もなく私たちは公園へと吸い込まれてしまう。彼もここの街灯に誘われるような謎の魅力を感じたのだろうか。


 思いのほか広い公園の中をゆったりと進んでいく。夜空が宿す自然の明かりは街灯の存在を否定するかの如く夜道を照し、私たちの距離を明確に見せる。灯りも一定間隔で点いているものの、間隔が広く、表から見た時ほど実力を発揮しておらず、ほとんどの光は恒星が担う形となっていた。


 暫く歩いていくと、少し頭の高い丘のようになっている場所へと辿り着き、私たちはその頂上にあるベンチへと腰を下ろした。そこは明かり様々な家々を見下ろせる絶景スポットとなっており、上から下まで明暗に美麗の限りが尽くされた夜景が映されていた。


「こんな綺麗な景色はじめて見た」


「凄ぇだろう。ここ、俺がこの街で一番好きな場所なんだ」


 街へ向くジョンの横顔に笑顔が灯る。その顔が、誰かへ、他人へ向けられたものではなく自分自身が感じた心からの笑顔なのだと気づき、つられて私も笑顔になる。


 一つ、彼の好きなものを知れた。それだけで彼に少し近づいた気がして、胸の奥が暖かくなる。


「学生の頃から、悲しい時も辛い時も、ここの景色に励まされて来たんだ。俺は身寄りがいなかったから、救いになってくれるのはこの場所だけだった。夜景も綺麗なんだが、夕方に来るとそれはそれでまた良くてなぁ」


「……思い出深い場所なんだね」


 太ももに肘を置き、前かがみな姿勢になるジョン。私は体勢を崩さず、ただジョンの儚げな横顔へと視線を送っていた。想定していなかった重い話に、返事を迷ってしまう。


「ヒカリ、いや、ノブキ。俺はな、お前の夜景になりたいんだ。お前の心が暗くなった時に優しく照らせる灯に、闇をふら払う光に」


「待って、何で今更名字呼び?」


 ずっと夜景から目を離さなかったジョンが、そこで初めて私を見る。頭の上にしっかりと疑問符が見えてしまうような、それはそれは間の抜けた顔だった。


「え、えぇ!?」彼は文字通り目を丸くして口を大きく開き絶叫した。みるみる赤くなっていく顔を隠すように右手で額を抑える。呼び方のインパクトが強かったので後半部分をあまり覚えていないが、確かに洒落たような台詞を言っていたような気がするので、それが原因だろう。


「え、じゃあヒカリの方がファーストネームって事かよ!」


「そうだけど……」


「マジか、じゃあずっと俺……うわぁ……」


 確かに、よく考えてみればこの世界の人間は、日本語を使っている割に名前は外国風だ。その様子があまりにも馴染みすぎて全く気にしていなかったが、まさかここで誤解が回収される事になるとは。


「ジョン、私の夜景が何だっけ」


「それ以上は言わないでくれ。既に傷になりつつあるから」


 咳払いを一つ吐くジョン。


「要するにだな、もっと俺を頼れって言ってんだよ。お前はこの世界に俺以外に知人がいねぇんだろ。だから俺が助けてやる」


 先程とは打って変わって真顔で説く龍人。その雰囲気に乗せられて、不本意にも冷静になってしまう自分がいた。


「でもジョンには仕事もあるし、私なんかに構ってる暇はないでしょ」


「私なんか、とか言うなよ。さっきも言ったけど俺にとってヒカリはもう大切な存在なんだよ。お前も、もっと自分自身を大切にしろって」


 肩に手を乗せてくるジョン。その表情は周囲の暗さも相まって寂しさに溢れている。


 私はそんな彼の心を受け入れるように瞼を閉じて、俯く。


 自分を大切に……。私は、常に私だけを大切にして生きてきた。どんな時も辛い事から逃げ続けて、楽な方へと進もうとしたし、それで他人が傷つくことも厭わなかった。


 もう十分、過ぎるくらいに自分を大切にしてきたつもりだ。


「わからない」顔は上げず、肩に触れる鱗に覆われた太い腕を見る。


 色様々な星が闇夜を挟みながら私たちを見下ろす。そんな雲ひとつない空の美しさは、今や私の目には欠けらも映されていない。


 ジョンの腕に少し力が入るのを感じた。


「私、ジョンをもっと頼りたい。自分のことを大切にしたいよ。でもわからないの。本当にジョンの事を頼っても良いのか、自分のことを大切にしても良いのかが」


「……どういう意味だ」


「まだ謝らなきゃならない人がいるの。私その人に酷いこといっぱいしてて……。まだ謝罪も果たせていないのに、私、自分のことなんて大切にできない」


 私の肩への重みが消える。そこでようやく顔を上げられた私はただ一点、ジョンだけを無心に見つめた。彼は自由になった手で頬をかきながら星空を見上げ、そして困ったような笑みを浮かべている。


「なんていうかさ、ヒカリって真面目なんだな」


 意味がわからなくて、眉を悩ませる。謝罪を抱えた人間が真面目なわけがないのに、この大型鱗人は何を言っているのだろう。


「どこが?」


「何を気にしてんのかわかんねぇけど、もっと気楽に生きて良いんじゃねぇか?」


「でも私……」


「人間、生きていれば色々ある。詐欺にかけられたり、勢いで人を殴ったり、大切な人と突然離れ離れになったり、車に突き飛ばされたり、冤罪で警察に捕まったり。それはヒカリ然り、俺然りだ。その重さによって変わってくるかもしれねぇが、誰だってそれなりに背負ってるもんはある」


 喋る暇も与えず、諭すように言葉を投げかけてくるジョン。しかし私はそんな彼に対していつのまにか口を閉し、耳を傾けていた。もしかした私は夜景を求めていたのかもしれない。自己否定を繰り返す自分を肯定してくれる外側の存在、救いを与えてくれる仲間を求めていたのかもしれない。


 なんてずるい人間なんだ。そう思う。私は私の罪を精算するために生きる事を決めたはずなのに。


「だからお前だけ辛い思いをする必要はないんだよ。楽しんだり悲しんだりしながらも、ちゃんと罪と向き合っていけば良いじゃねぇか。何をしちまったのかはわからないけどよ、等身大に生きることは全く悪いことじゃねぇんだ」


 彼の大きな手が私の頭を撫でる。


「一緒に生きるぞ、ヒカリ」


 瞳から雫がこぼれ落ちる。最初、その正体に気づかなくて、私は驚いてから、頬を流れるそれを指ですくった。だがそれでは拭いきることはできない。次第に量を増していったそれは私一人ではどうにもならないほどに溢れてしまい、ついには止まらなくなった。


「私、わからない、どうしたいのか、どうすればいいのか、何が正しいのかわからないの」


 ジョンは私を自分の胸へ引き寄せ、またしても優しく抱きしめる。先程と違うのは泣いているのが私だという点だ。優しい笑みを浮かべて頭を撫でるジョンも対照的だった。


「言ったろ、善悪の審議より問題に向き合うことが大事なんだって。だから迷えば良いさ、答えが出るまで」


 背中に回される手がやたらゴツゴツしていて私とは違う生物である事をはっきりと主張している。それなのに、彼の言葉は、瞳は、人間との差異を一切感じなくて、その事実が私にとてつもない安心感をもたらす。


 いつもそうだ。ジョンの言葉は、表情は、必ず私に笑顔をもたらしてくれる。


「私、ちゃんと考えるよ。私がどうするべきなのか。どうしたいのかを見つけるために」


 涙と笑顔のユニゾンが光無き周囲をほんのり照らしているのがわかる。抱きしめられ、大きな大胸筋に隠れているジョンの表情も、今の私にはよくわかる。


 今までの私ではいけない。私を信じて、隣に立ってくれた彼を裏切るような事、私自信が許さない。変わるんだ、ジョンのためにも、芽依のためにも。


「さあ、すっかり冷えてきちまったな。そろそろ帰ろうぜ」


 彼は私から体を離し、立ち上がるとその場で大きく伸びをした。二メートル以上もある大きな体を空いっぱいに晒すジョン。私も立ち上がり大きく手を広げると深呼吸をしてみせた。


 冷たい空気が肺の中で暖められて、再び外気に取り込まれる。


 私たちは再び前へと歩き出す。


「ありがとう、ジョン」


「礼を言うのはまだ早いぜ、これからたくさん世話してやるんだからな」


「だからこれからを見越してお礼の先払いしてるの」


「まさかの先払い制度!?」


 先へ進むジョンを追う私の歩幅は狭い。振り返ると、見渡す限りの広大な夜景も随分と見づらくなっていた。


 冷たい風など気にもとめずに会話する二人の人間がいる。一人は大柄で全身鱗まみれの龍と人を混ぜたような生物。一人は小柄な少女。私たちは運良く出会って知り合い、そして今も隣に立っている。


 不安はたくさんあった。きっとこの先、私は様々な予測不能の事態に身を投げることになるだろう。それは私の想像以上に厳しいものかもしれないし、案外簡単なものかもしれない。そんな先の見えない未来のことを思えば心に巣食う恐怖はすぐに姿を現してしまう。しかしそれでも今なら大丈夫だと思える自分がいる。大丈夫だと思える自信がある。


 だって隣には、彼がいるから。


「そういえばどうして私が落ちた時、町役所にいたの? 偶然、じゃあ無いよね?」


「そんなの決まってんだろ」


 私たちの間に沈黙はない。次から次へと流れる会話も、すっかり日常へと溶け込んでしまっている。


 人通りの少なくなった公道を話を弾ませながらご機嫌に歩く。どうやら家まで行くには、まだ暫くかかりそうだった。

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