10.大罪の精算にかかる費用

 最初に絶望したのは、ジョンから、この世界に私のような人間が存在しないことを聞かされた時だ。人間が存在しないかもしれないことは、ジョンみたいな龍人を見た時から薄々理解してはいたのだが、それでもやはり直接それを伝えられると、何とも表しにくい気持ちの悪い感情が競り上がってきた。しかし、その時にはまだあまり深いことは考えていなかったし、ジョンがいたこともあって不安も薄かった気がする。


 この世界に訪れたこと自体が、私の罪に対する罰だ、なんて考えがよぎったのは龍人の集団に囲まれた時、ふと過去と状況が重なってしまったのが原因だと思う。それまでも、私の心に潜む芽依は様々な形で私の前に姿を現したが、私があの子を苦しめる映像が脳裏によぎったのはあの時が初めてだった。だからそれまで忘れていたのだ。私が彼女に対して犯した仕打ちを。


 それと今まで味方だったジョンもその出来事を機に離れてしまった事も、死のうと思った原因の一つ。


 蘇る過去や、絶え間なく続く悪運は、不安を煽るには十分だったし、私の心は耐えられなかった。戦争もない平和な国に暮らしていた、ただの平凡な高校生が突然見知らぬ土地に一人取り残されて、襲われたり殺されかけたりすれば、誰だって耐えられるはずがない。故に町役所に着く頃には心はボロボロだったし、元々、頃合いを見て自殺を図るつもりだったのだ。


 だがそこでもまた、世界は私に容赦しなかった。私を受け入れた二人目の恩人が、大量殺人犯で今は私を殺そうと目前で目論んでいる。こうなるに至った原因である、やけに生々しく映った初めて見る死体も、縦横無尽に駆け回っていた元気な犬でさえ、今の私には憎たらしく思えていた。


 だがやはり私は、これが罰であることを確信し、それを重んじて受け入れるべきなのだと理解してしまったのだ。


「私は、大人しく死のうと思います。そうしなければ、きっとこの罪は永遠に精算されないままだから」


 覚悟を背負い落ち着きを取り戻した私と、その覚悟を前にして邪魔者が消えることを察し落ち着きを取り戻す黒い龍人。しかし影の暗殺者に優しさは欠片も残っていない。あるのは殺人犯としての後悔や失念と、私が死ぬことに対する期待の眼差し、狂気のみだ。


 しかし残念ながらまだ私の言葉は終わっていない。否、ここから始まると言っても過言ではない。


「そう、死んでくれるのかい。いやぁ助かるよ。君を殺しても見つかってしまえば言い訳は出来ないからね、処理に困っていたところだったんだ。自殺してくれるのなら何よりだよ」


「けど、死ぬのは今じゃない」


 私の言葉に、漆黒の龍人ケイトの表情が曇る。緊張感あふれる空気を前に、一度深呼吸を挟みたいところだが、隙のひとつも命取りな今の状況で、私に余裕はない。流れる汗にすら気にも留められないまま、言葉を続ける。


「私は私の罪を精算するために死にます。けど貴方の悪事に気付いてしまった以上、貴方を野放しにしたまま死ぬことはできない」


「つまり、どういうことだい?」


「自首してください。何があったのかは知りませんが、人の命を奪うのは悪いことです」


「僕が善人面して人殺しを行なっているとでも? 小学生でもわかる模範解答だね。今更そんなことを言うために私に立ちはだかるなんて、無意義もいいところだよ」


 彼の声量は言葉の威圧感とは裏腹に、弱々しく聞こえた。先程まで落ち着いていた呼吸も心なしか乱れている気がするし、もしかすると動揺しているのかもしれない。


 しかし、正常な精神状態ではないのは私も同じこと。大柄な相手である以上、同じ土俵で戦えば負けるのは目に見えているし、怖いのは相変わらずだ。心臓もペースアップして鼓動を披露しているし、脳は逃避を必死に訴えかけている。


 それはわかっている。正面から向かおうなんてハナから考えていない。


「貴方が自首しないと言うのならば」


 私は踵を返すと、全力で窓へ向かって走り出す。少し遅れてケイトが背後で私を追う音が聞こえてきた。


「待て! 何をするつもりだ!」


 ほとんど叫ぶような彼の声が鼓膜に刺さる。体を震わせながらも、窓を開き、迫り来る彼を確認すると、淵へと足をかけ、そして躊躇いなく跳んだ。


 下には私に気づかない無数の龍人たちが悠々と人生の一部を全うしている。しかしそんな様子を見ているうちに、すぐに自由落下が発生して私の体を地面へと引き寄せる。惹かれ合う磁石のような抗えぬ強い力は私に成す術を与えず引き寄せる。


 そこからは流されるままだった。周囲を確認することも、ケイトを見上げることも叶わないまま、ただ意識を保つことで精一杯で、私はもう目を閉じて死を待つことだけ考えた。


 そしてふと、ここに来てからここまでの事が蘇る。本のページのように、捲られていく思い出たち、それらはどれも悪夢のように恐ろしい事ばかりであったが、その中に存在しているジョンだけは記憶に輝きを残し続けていた。


 ジョン。こうなってしまっては謝ることも叶わないが、それも仕方ない。心残りも死んでしまえば無に還ることだろう。走馬灯を前に、私は心の中でも目を閉ざした。











「本当にそれで良いのですか?」











「え?」脳内に直接聞こえてきた不意の声に、私は自分が物理法則の恐るべき実力を体感していることも忘れて目を見開いた。


 しかしただ忘れているだけで、私の高度は速度を上げて下がっている。死が目前に迫っていることは目に見えていた。


「ヒカリ!」


 そんな希望の欠片もない状況で、聴力のほとんど機能していなかった私の耳に聞き覚えのある声が聞こえてくる。それを認識した瞬間、時間の経過がやけにゆっくりになり、私の映す世界が鮮明になる。落ちる私も、道を行き交う龍人たちもスローモーションフィルターをかけたように遅くなる。


 だがおかげで心に余裕ができた。鮮明になった視界を頼りに声の主を探す。すると私の真下に位置する場所に、ジョンの姿が見えた。彼も例外なくスローワールドに飲み込まれているようだが、その表情には今の私に対する様々な思いが見えた。あんな別れ方をしたのに、それでも尚、私を思う心があるなんて、やはり彼は良い人なのだと改めて実感する。


 いや待て、自然に入ってきたが、脳内に直接聞こえた声ってなんなんだ。それにこの状況、軽んじて受け入れるにはあまりにも常軌を逸しすぎている。


「あの者は、貴方の死を望んでいません」


「うわ、まただ」再び脳内に直接聞こえてきた声。男性とも女性とも取れない、上手く認識できない不思議な声色だ。だからといって何かの犯人みたいなモザイクがかった声でもなければ、聞き取りにくくもない。


「それでも貴方は死を選択するのですか?」


 遅行する世界を眺める。それらは至って普通の日常をいつも通りに過ごしており、その中に悪はない。私は首を縦に振った。その動きだけは普通の速度で行えた。


「私は、許されないことをたくさんしてきた。だから償わないといけないの」


「死ぬ事が償い?」


「そうだよ、死ぬことより重い罰なんてないから、一番重い罰を背負って罪を精算するの」


「それはおかしくないですか?」


 私は顔を上げた。しかしもちろん、声の主の姿はない。


「貴方がどんな罪を犯し、何を悔んでいるのかはわかりませんが、少なくとも貴方の持つ倫理観は他の人と変わらない、むしろ非常に純粋で美しい考えを持っていると思います。故に、少なくとも殺人を犯すほどの大罪は犯していないと推測できます」


「そうだけど、私は……」


「ならば貴方の罪を精算するには、貴方が傷つけた人間に相応の良い行いをする事なのでは無いでしょうか」


 相応の行い、とは言うが具体的にどうすれば良いと言うのだろう。知っている人どころか、私のような人間が一人もいない世界で、帰る方法もわからない。それにもし帰れたところで私が彼女に会っても、また同じことを繰り返してしまうような気さえしてしまう。


「私の目には、貴方は、逃げるために死のうとしているように見えました。もし間違っていたら申し訳ありませんが、死ぬことが正しいとも限りませんよ」


 胸に手を当てる。思えば私は自分の考えから逃げてばかりだった。そのせいで芽依にも、ジョンにすらも未だ謝ることができていない。私が死ぬ事で全てが解決すると決めつけていたが、それは間違っていたのだろうか。


「それに、まだやり残した事があるのでしょう?」


 目下のジョンへ視線を向ける。しかしそこで同時に私は今の状況を思い出す。今更、命乞いをしたところで生き残れるような立場にいないのだ。そう思えば思うほど、言葉にできない悔しさが込み上げてくる。


「私、私、まだ死ねないよ。まだ、死にたく無い!」


「その言葉を待っていました」


 その言葉を境に遅れていた世界が元の姿へと戻っていく。私は急に重力に手を取られ、地面へと誘われる。だが地面と接触する直前、パーカーのポケットが突然周囲を巻き込むような輝きを放ったかと思うと私の体は宙に浮いた。私自身が宙に浮く、というよりは私の体を周囲の空気が持ち上げると言う感覚に近い。ふわふわと、靡くスカートや揺れる髪がその証拠だ。


 地面へと足を下ろすと、纏っていた空気が四散していき再び重力が働き、非現実的な世界観が一転、一気に現実へと引き戻されたような感覚になる。しかしまあ、驚きの表情を浮かべる龍人たちを前にしても、現実と認識してしまうあたり、私もずいぶんこの世界に馴染みを得てしまったようだ。


「貴方、何者なの?」


 空を見上げ、声の正体を探す。しかし存在するのは五割がた雲に覆われた真っ青な空と、視界に入り込んでくる背の高い民家ばかり。人の形をしたものが空中に在することはない。


 現実離れした現実。ありえない事実。私の周りは、思えば悪い事ばかりが起こっていたわけではない。思い出に唯一輝きを残した彼も、脳内に直接語りかけてきた謎の声も、私の中ではぞんざいに扱うことも許されないかけがえのない大切な存在だ。


 しかし予想外にも私は生き残ってしまった。どうやら様々な面で、私はやり残したことを片付けることができるらしい。


 布石は効いている。ならばまずは目の前の町長から片付けるとしよう。

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