09.最低で最悪な覚悟

 それぞれ違う方向へ向いている瞳孔を、無心に見続けていた。それ以外に何もできなかったのだ。今の私は、感情を思い出すことを躊躇われるほどに様々な思いでいっぱいになっていた。原因はもちろん目の前に転がる線の切れた人の形をした肉塊。尽き果て腐敗した、哀れなるシルエット。


「どうしてこんなことに……」


 次へ次へと、呼吸が速度を増していく。落ち着かせようとすればするほど転がっているそれの姿を凝視してしまい、今度は混乱が加速する。それなのに何故かそれから目を離すことはできない。


 そして死体に気を取られていたその瞬間、無防備な私を何者かが襲った。それは私の視界を一瞬にして奪うと、口元を布のような物で覆い前方から意識を逸らさせたのだ。見るに耐えないそれから視線を外すことは、私の望んでいたことのはずなのに再び襲いかかる理不尽な手に素直に喜べない。抵抗を試みるも上手く拘束されてしまい、思うように動くことが出来きなかった。


「何で……私……」


 そしてすぐに思考が黒く歪んでいく。脳内が徐々に濃霧を発生させていき、よくわからない状況を更によくわからなくさせていく。だがこのまま事を受け入れてしまえば、どうなってしまうか想像もつかない。


 けれども身体は動かない。先程のような精神的な停止とは違う。今度は完全に感覚が鈍っている。それだけははっきりわかった。


「ジョン……」


 名前を呼ぶが返事はない。けれどもこれ以上は、言葉を発しようにも上手く喉を震わす事すらできなかった。


 意識が遠のいて、ゆっくり、ゆっくりと体が沈んでいく。


 ふと死を意識した。死の沼に沈んでいく私の体を私が空から見下ろしている。私の体はもう半分以上浸かってしまっていて、一人の力で抜け出すことは不可能な状態になっていた。それに何故か見下ろしている私は私に近づく事ができない。


 そしてまた少しずつ、彼女はその体を沼へと預けて行ってしまう。手を伸ばしても体を前のめらせても、届く気配のない体。どれだけ動いても手段を見つけられぬまま、結局私は沼の中へと完全に引きずり込まれてしまった。


「何で私ばっかりこんな目に合わなきゃいけないの?」


 問いかけるも答えはない。当たり前だ。周りに人はいないし、それどころか沼以外の部分は何も見えない。


 それに答えなんて別に必要なかった。解が存在してしまったら、私はきっと立ち直れないから。











 9話…最低で最悪な覚悟











 目が醒めると見知らぬ天井、ではなく見知らぬ壁だった。


 見渡してみれば、十畳くらいの何もないすっきりした部屋で、いつのまにか眠っていたのだと気づく。何故、窓と扉しかない殺風景な部屋の硬い床に倒れていたのだろうか。記憶が霞んでよく思い出すことができない。


「そうだ、リード」


 眠気が薄れていくのと比例して隠されていた記憶があらわになっていく。最初に浮かんだのはゴールデンレトリバーのリードと、龍人の死体。私に行動を急かすように吠える声や、吐き気を促進させるような強烈な異臭が嫌に鮮明に蘇る。それらに気を取られている時に私は……。


 腹の奥に気持ちの悪い感覚が残るが、今は思考を停止させている暇はない。


 私はゆっくりと立ち上がり窓へと寄った。外を見下ろすと、どうやらそれなりに高い位置にこの部屋があるようで下の道を通っている馬車や人が豆粒のように小さく見える。四階か、五階か、とにかく窓からの脱出は不可能だと思った方がいいだろう。


 一応、扉の方も確認してみるが、やはり鍵がかかっていてノブが途中で引っかかってしまう。意図的に閉じ込められたと考えるのが自然だろう。


 部屋の真ん中へと戻り、一度腰を下ろす。


 死体に遭遇したところまではハッキリ覚えているのに、そこからここへ至るまでの記憶が鮮明じゃない。何者かに背後から襲われて、気がついたらこの部屋にいた。つまり私はその間ずっと意識がなかったと言う事だ。


 人差し指で下唇を撫でる。音のない世界で唾液を飲み込む自分の出した音だけが鼓膜を揺らす。


「問題は、何故私は襲われたのか、ここは何処なのか。誰が私を襲ったのか」


「それは僕が説明してあげるよ」


 油断して独り言をつぶやいている私に突如男の声が扉越しに話しかけてきた。それは短い付き合いながらも聞き慣れた優しい声色で、今となってはそれが少し恐ろしく感じる。


 急いでポケットを探り、二日間も放置されていながら、それでもいつも通り堂々と佇むスマートフォンを取り出す。日本にいた頃は、この情報社会の中で二日もスマホに触らずにいる日が来るなんて思いもしなかった。しかし今こそ真価を発揮する時である。全力で指を動かしアプリを起動する。


 そしてある程度の操作を終えた時、声の主であるケイトは柔らかい笑みを浮かべながら部屋へと侵入してきた。急いでポケットへとスマホをしまい、即座に立ち上がる。


「やあ、ヒカリさん。よく眠れたかい?」


「はい、おかげ様で。ケイトさんの方は?」


「僕かい?」ケイトは頭をかいて笑顔を作り直した。だがそれは、いつもの柔らかい笑顔ではない。獲物を狙う喜びを現すような、狂気に満ちた恐ろしい笑顔。


 それを見た瞬間、私の下半身が微かに震え出し、動きが鈍くなる。また恐怖は、私の意識を極端に奪っていった。これでは打開策を見つけるどころか、彼から視線を外すことすら容易ではない。


「僕は全く眠れなかったよ。君にバルゴを見られて、僕の心は恐怖に支配されてしまったからね。もしもここで計画が崩されてしまったら、もしも全ての責任が僕へと向けられてしまったら、そんな恐怖が取り憑くように僕の周りをうろうろしているんだから、眠れるわけがない。ねえヒカリさん、僕はどうしたら良いんだと思う? ねえ、ねえ!」


 声色だけは優しかった彼が、ついに咆哮に似た声量を放つ。それは他者を追い詰める百獣の王のようでありながら、他者に追い詰められる雑魚のようでもあった。気迫に気圧されながらも、そんな混乱に似たような彼の状態を見て少しだけ落ち着きを取り戻す。


 呼吸を挟む。黙る私を前にしても、彼は追って言葉をかけてこない。チャンスだ。充分な間を取ったのち、私は冷静な風を装うように淡々と喉を震わせた。


「計画ってなんですか?」


 彼は目を血走らせながら、呼吸を荒くする。どうやらかなり不安定な精神状態らしく、彼の表情から見える感情は私にはとても読み解くことができない。


「そんなの決まってるだろう。僕の犯した罪の全てをバルゴに被ってもらおうって計画さ」


 今度は急に笑い出し、私へと一歩近づいてくる。


 それに合わせて、私は一歩身を引く。だが彼はそれ以上は近づいてはこなかった。代わりにケイトは独白を続けた。


「君にはこの後死んでもらうから話すけど、僕はこう見えてもう十数人も殺しをしているんだ。こうなったのも簡単な話でね、邪魔なやつらを問答無用で切ってたらこうなってしまったんだ。上手くいかない事が続いてね、痺れを切らしてしまったんだよ。最初のうちは誰も僕を疑わなかった。けど十人目を殺したあたりからさすがに警察は僕に目をつけ出した。あまりに僕の周りで殺人が起きすぎたからね。気づいた時には僕はもう戻れなくなっていたし、たとえここで人殺しをやめても捕まるのは時間の問題だった」


 最初の一言があまりにも衝撃的すぎてその後の言葉がよく聞き取れなかった。目の前にいるのは大量殺人犯で、私も今狙われている。そんな信じ難い事実があまりにも突然明かされてしまうのだから、本当にこの世界はわからない。


「そんな時、息子であるバルゴが何者かに殺された。これはね、チャンスだと思ったよ。あいつは俺の跡取り息子で、既に私の仕事を少し受け継いでいるんだ。上手くいけばあいつに罪をなすりつけられるかもしれない、そう思った」


 ケイトは両手を上げ、天井を仰ぐ。私は少し身構えた。


「けど、またしても邪魔が入ったんだ。そう、君だよ。どういう流れなのか知らないけどね、ジョンが君を僕に押し付けてきた。タイミングが最悪すぎて最初は神様の悪戯かと思ったよ。それでも町長の顔を崩すわけにもいかなかったし、ジョンとはそれなりに信頼関係も築いていたから、承諾するしかなかった。数日面倒を見るくらいなら大した邪魔にもならないだろうと、たかを括っていた」


 そしたら私がバルゴの死体を見つけてしまった。そうなってしまっては、計画を邪魔しかねない私は邪魔な存在になる。つまり、ケイトが私を襲うトリガーとなった出来事はバルゴの死体を発見した事。


 いやそれではおかしい。彼の口調や、事前情報では、バルゴは鱗無しに殺されたというニュアンスだった。もしもケイトがバルゴを殺したのなら、この警戒心にも頷けるが、ただ死体が置いてあるのを発見しただけで、私が彼の邪魔となりうる存在にまで昇華するのは流れとしては不自然だ。いや、そこまで頭が回らないほどに精神的に参ってしまっているという事なのだろうか。しかしそれが犯罪者の末路だ。多大なる罪を犯した者は、その罪を心に一生背負って生きなければならない。それは彼然り、私然り。


「けど僕はそんな君にさえも利用価値を見出していた。もしも君が勇者ならば、その力を利用し僕の思い通りの世の中にすることも雑作ないはずだ。私の元に置くリスクと差し引いても、十分な結果をもたらしてくれるとさ信じていた。でもね」


 私は彼の瞳を見て拳を強く握った。彼もまた、私を真っ直ぐ見つめる。空間の中に緊張の色がなくなる。私たちは互いに、既に思考を巡らせていた。


「申し訳ないけど、命乞いをしても無駄なんだ。これは決まってしまった事、僕にとっても、君のような良い子が死んでしまうのは非常に残念だけど、こうなってしまえば何があっても覆らない」


 説明の道中を介し、完全に落ち着きを取り戻したケイトが余裕さをひけらかすように首を振る。そして再び私の方へと歩み出した。


 それでも私は動かない。


 私たちの間には五メートルも無くなってしまった。


 ケイトはきっと今にも私に襲いかかるだろう。そうなってしまえば私にはもう勝つ術は残されていない。この状況を打開するなら、ギリギリ手が届かない、今しかない。


「私もこの世界に来てから今までに決めていた事があるんです」


 歩みを止めるケイトの目から視線を外さず、今度は私の方から彼へと歩みを進めていく。恐怖はおくびにも出さず、感情を殺してゆっくりと前進する。一瞬動きを止めたケイトだったが、私のそんな気の狂った様子を見て数歩後ろへと下がった。


 彼の瞳が揺れる。私はそれすらも逃さず、ただじっと彼を見つめながら追い詰めるように、踏みしめるように、一歩一歩、歩みを進めていく。


 私が決めた事。それはこの世界で死ぬ事だ。


 ジィラにたどり着いてから今まで、私は様々な困難に身を流されてきた。それらは日本では体験できないような恐ろしいもので、私一人ではとても太刀打ちできないような事ばかり。


 最初こそ、それらに悪態をつくような時間が続いていたが、次第に私は、これが私に対する罰の具現化なのでは無いかと思うようになってきた。自己肯定を幾度も繰り返し、目を逸らしてきた日本での出来事。しかしそれは間違いなく私の積み重ねた罪であり、罰せられるべき行いだ。


 もし、この世界が私を罰するために現れ、私に然るべき制裁を加えようというのならば度重なる悪運にも説明がつく。要するに、世界が私を殺そうとしているのだと気づいたのだ。


「私は、大人しく死のうと思います。そうしなければ、きっとこの罪は永遠に精算されないままだから」


 彼の表情に余裕が戻る。まだ私の話は終わっていない。

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