第70話 新しい物語

 日が増すごとにクロサキは熱を出すことが少なくなり、覚束なかった足取りもしっかりとしてきた。

 それはとても喜ばしいことだった。心配ごとが減るのもそうだが、その分クロサキが楽しそうに一日を過ごしているように見えるからだ。

 それを見るのも楽しみに一つになっていた。


 ─のだが。


 あの時読んだ本がクロサキの言っていた通り、素敵な話だったと言ったからなのか何なのかはよく分からないが、あれからことあるごとに、「·····読んで」という言葉と共に本を勧められるのだ。

 促されるがままに読んでいくのだが、その勧めてくる本を渡す頻度が多く、読むのが遅いシロアンは溜まりに溜まっていくものだから、「まだ、読んでいる最中なのです」と申し訳なさそうに言うと、「·····ごめん」と渡そうとしたらしい本を抱えて悲しそうに頭を俯かせてしまっていた。

 その時、あの時の本を褒めてくれたことが嬉しくて仕方なくて、本でお礼をしていたことを気づいた。

 表情で自分の気持ちを表現することが難しく、それに加えて口数がかなり少ない彼の精一杯の"気持ち"。それに気づくことが出来なかったこちらの方が悪かった。

 だから。

「クロサキさんは沢山の本を読んでいますから、その本達の面白さを私にも読んで貰いたかったのですね。でしたら、こうしましょう。私が読み終わった時に次に読んで欲しい本を渡してください。読むのが遅いので、いつになるかは分かりませんけど」

 それでいいのでしょうか、と言ってみるとクロサキはおずおずと顔を上げ、「·····迷惑、だと·····思って、ないのか」と僅かに怯えも滲ませた声音で訊いてきた。

「まさか。本を読むのはとても楽しいですよ。それと読むたびに思うのです。だから、クロサキさんは楽しそうな顔をしていたんだと。私、天界にいても分からないことが多かったのです。それも含めて本は色んなことを教えてくれます。その知らなかったことを知れる喜びは、お客さんの前で歌って喜んで貰えた時と同じ気持ちになるのです。だから、迷惑だなんてこれぽっちも思ったことがないのですよ。これからも沢山の本を教えてください」

 その言葉通り、迷惑だとは思ってないと示すように、満面の笑みを見せた。

 その笑顔をぼんやりと見ていたが、パッと目を逸らし、小さく頷いた。

「決まりですね!次の本を読むのが楽しみです」

 手を合わせて喜んだ。




「今日も読んでいるのね」

「はい」

 休憩中、洗った食器を拭きながらカウンターで読書しているシロアンに声を掛けたが、よっぽど夢中になっているらしく、短い返事をしたぐらいでそれ以上は何も言ってこなかった。

 これはお邪魔だったわね、と独り言を呟いたと同時にシロアンは本を閉じた。

「ごめんなさいね。うるさかったかしら」

「えっ? あ、違うのです。ちょうど区切りが良かったので。そろそろ休憩時間も終わりますしね」

 気にしてないと笑みを向けると、つられて笑んだ奥さんが、「それにしても」と言った。

「よく読んでいる本のジャンルが恋愛物が多いわね。それもクロサキさんが?」

「はい。そうです」

「へぇ、そう」

 意味ありげに片眉を上げ、ニヤリと笑っている。

 それに対して特に気にしてない様子のシロアンは、「ですが、そのお陰で分かった事があるんです!」と声を弾ませた。

「好きになった時、胸辺りが温かくなるのですね。そして、ずっとその人しか考えられなくなったり·····。前に言っていたことがようやく分かりました。·····だとしたら、私、クロサキさんのことが·····」

 上手く、言葉が出てこなかった。

 どうしたのだろうと思って、もう一度声を発してみようと思った時。

 ぽたり。

 本の上に雫が落ちる。

「あ、あれ·····おかしいですね。どうして、私·····」

 拭っている間にも次々と指の間から零れ、本を濡らしていく。

 本を濡らしてはいけないのに、と思っていても溢れる涙もどうにかしないと思い、今自分がどうしたいのか分からなくなっていた。

「·····私·····っ私·····」

 ふわり、と優しく温かなものに包まれた。

 急なことに驚き、一瞬涙が止まった。

 目を瞬かせているシロアンをよそに抱きしめた奥さんは、優しく、ゆっくりと頭を撫でる。

「いいのよ。大丈夫」

 たった一言。深い意味にも聞こえないその一言は、何故だか絡まっていた糸を解すかのように、気持ちが軽くなるのを感じた。

 安心、だからなのか、また泣いてしまっていた。

 そんなシロアンを落ち着くまで奥さんは何も言わず、頭を撫で続けていた。


 今日は家でゆっくりとしてなさいと言われ、いつもより早めに帰らされた。

 何度も迷惑を掛けてしまって申し訳ないことをしてると思いつつも、玄関を潜った。

 が。普段ならば寝室か図書館にいると思っているクロサキがあろうことが、台所のテーブルで何かの作業をしていたのだ。

 クロサキの方もまさかシロアンが帰ってくるとは思わなかったらしく、ペンを握ったまま驚いているような顔をしていた。

 前よりも目を合わせてくれ、瞬きしたら見逃してしまいそうでも、表情を見せてくれることにいつもならば嬉しいとは思うのだが。

 ただいまも言わず、顔を見ていられなくて目線を下げてしまった。

 したこともない行動に不審に思ったのだろう、椅子から立ったクロサキが、「·····どうした」と心配と不安を滲ませた声でこちらに歩み寄ろうとする。

 近づかないで。

 何か、言わないと。

「·····クロサキさん、ごめんなさい。一人にさせてくださいっ」

 叫ぶように声を上げると、クロサキから逃げるように二階へと駆け上がった。

 シロアンの後を追わず、手を上げたまま呆然としていたクロサキは、きつく握りしめる。

「·····オレが、·····何か悪いことを·····」


 あれからどことなく気まずくて、言葉を交わさない日々が続いていた。

 突き放した言い方ではなかったが、あまりいい言葉ではないから、何かと悪い方向を考えてしまう彼のことだろう、また自分のせいでと責めているかもしれない。それを含めた謝罪をしたかったが、いざ目の前になると、頭が真っ白になり、何も言葉が出てこなかった。

 こんなこと初めてでどうしたらいいのか分からず、戸惑っていた。

 きっとすでにイオ達には気づかれていることだろう。だが、シロアンが何も言おうとしないからか、深くまで訊こうとはしてこなかった。

 本当は「どうしたの」と訊いて欲しかった。けれども、訊かれたとしても何をどう言えばいいのか分からなかった。

 自分がどうしたいのか、分からない。

 ベッド上で仰向けになり、ぼんやりと天井を眺めていた。

 今日は仕事が休みで特に行くところもないし、かといって何かしたい気分は一切湧かなかった。

 ちなみにクロサキはというと、眠たい身体をどうにか起こしつつ、あの紙の束を抱えて図書館へと向かったようだ。

 行ってらっしゃいも掛けてくれない背はどこか落ち込んでいるように見えた。

 そんな気持ちにさせたくないのに。

 そのことを思い出し、小さくため息をついて横を向くと、開かれている本が目に映った。

 何の本だろうと思い、起き上がってその本を手に取る。

 女の子が好きな男の子らしい子とちょっとした言い争いになり、すれ違う日々を送っていた。

 本当は言い争ったわけでもない。ただ、お互いのことを意識し始めて、どことなく気まずく感じて会話がままらないからだという。

 この状況、今の自分に似ていると思ったシロアンは齧り付くように読み進めた。

『本当は目を合わせて話したい。楽しく笑い合っていたい。でも、彼を前にすると、どうしてだろう。なんで声が出ないの。私、どうしたら……』

 そんな女の子の思い悩む心情に胸が締め付けられていると、その女の子の友達が、一輪の紫色の花と折り畳まれている紙をその女の子に渡してきた。

 差出人はあの男の子。

 恐る恐るとそれを受け取り、紙を開き、それに書かれていた言葉を読んだ時、シロアンは、これだと顔を上げた。

 これなら、きっとまた話すきっかけが出来る。

 そうだと思ったら居ても立っても居られなくなり、慌ただしく部屋から出た。


 "ソレ"を見てシロアンは一人、大きく頷いた。

 準備をしている間にいつものようならばそろそろ帰ってくる時間になっていた。こういう時に限って早いものである。早く帰って来て欲しいとも、まだ心の準備が出来てないから、帰って来て欲しくないとも思っていた。

 そんな時。寝室のドアが開かれる音がした。

 やけに響いたそれにバッと顔を上げ、ソレを背中に隠す。

「………っ」

 シロアンと目が合い、息を呑んだかと思うと、気まずくなったのか踵を返す。

「っ!ま、待ってください!」

 慌てて彼のことを追いかけると、そう言われると思わなかったというように、一歩踏み出した格好のまま立ち止まっていた。

 そのことに一先ずはホッと一息し、背けている顔を見上げた。

「あ、あの、クロサキさん、ごめんなさいっ!」

 頭が地面に付きそうな勢いで下げ、上げる。

「クロサキさんが勧めてくださった小説を読んだことで、クロサキさんに対する気持ちが分かったのです。ですが、分かったと嬉しいと思ったはずなのに、何故か涙が止まりませんでしたし、クロサキさんの前になったら、上手く言葉が出なくなっていて…」

 あの時のことを思い出して、無意識に手に力が入る。が、持っていたことに気づき、すぐに力を緩めた。

 いつの間にか俯かせていた頭の上から、「…それは、本当か……?」とおずおずといったような声音が降りかかった。

 思わず見上げるとこちらの様子を伺っていたらしいクロサキの少し怯えを滲ませた紅い瞳と目が合ったが、すぐに顔を反らされた。

 少し残念に思ったのも束の間、やってしまったとばかりに少しばかり眉を下げていた。

 それに目を見張っていると、唇を血が滲みそうな程噛んでいたと思われていた口が開かれた。

「…オレ、シロアンと話さなくなった日から、ずっと…ずっと…自分のせいだと、これでもかと責め続けていた…」

「それは、違いますっ!」

 反射で声を上げて反論したのを、静かに首を横に振った。

「…いるだけで、嫌われ続けた……だから、仕方ないと思っていた…だが、シロアンだけは、違うと思っていた……」

 クロサキの口から少しばかり思っていた自分への信用があったことに嬉しく感じていたが、さっきの発言からして、やっぱり自分もクロサキが言う、"いるだけで嫌う"人達と同じと思われてしまったようだ。

 それは仕方ない。自分がそんな態度を取ってしまったのだから。

 あんな態度を取らなければと後悔し始めるシロアンはよそに、一旦閉じていた口を再び開く。

「…そうなる前…オレも、シロアンへの、気持ちが分かったから、…多分、これは、悲しかった……」

 持っていた紙の束を震える程握りしめていた。何かに耐えるかのように、強く。

「私、本当に……」

 彼をどれだけ苦しませてしまったのだろう。

 信用に値する相手への"気持ち"も傾いていたというのに、それを無下してしまっていた。

 渡してきた本の類が恋愛ものが多かったのは、もしかしたら、自分の今の気持ちが分からず、口で伝えることが難しい彼なりの伝え方だったのではないかと今思い始める。

 なんて、素敵で、一生懸命なのだろう。

「すぐに気づけなくて、ごめんなさい」

「いや…いいんだ。こうして、また…話せたから」

「クロサキさん……」

 徐々にその言葉を噛みしめて度に笑みを深めていた。

「私もまた話せて、とても嬉しいです」

 そこでクロサキはやっと身体ごとこちらに向けてくれた。本当に許してくれたのだと思っていると、「それに、」と今まで持っていた紙の束を目の前に差し出された。

「…これが、無駄にならずに…すんだ」

「これは?」

「……口で言うのが、難しいから…物語にして、書いたオレの……"想い"」

 何度か見かけた紙の束はそういうことだったのか。それにしても、物語にして書いてしまうだなんて、よっぽどクロサキの"想い"は。

「…勧めてくださった本でもクロサキさんの想いは十分に分かりましたが、これは全てクロサキさんの気持ちなのですね」

 文にしたためた紙の束は、一枚二枚ほどの薄さではない。そこそこの厚さがあり、クロサキが言う"物語"形式にしたというのが分かる厚さであった。

「読むのが今から楽しみですね」

 ふふっと笑った後、後ろに隠していた物を前に回した。

「では、私の想いも受け取ってくれますか?」

「…これは」

「天界にあった白いお花とは違いますが、それでも、花冠を本来の意味として受け取ってもらいたいのです」

「本来の、意味……」

 片手で受け取ろうとしたクロサキに「頭に乗せてもいいですか?」と訊ねると、乗せやすいようにと、姿勢を低くしてくれた。

 その気遣いに嬉しく思いながらも、そっと乗せる。

 満足気に微笑み、「もういいですよ」と声を掛けようとした時。

 背に腕を回されたかと思うと、引き寄せられる。

 突然のことに声も上げれられずにいると、シロアンの肩に顔を埋めていたクロサキが、「…シロアン、ありがとう…本当に、ありがとう。こんなオレを…選んでくれて…」とくぐもった声で言っていた。

 どこか涙声に聞こえるクロサキを慰めるように、優しく優しく頭を撫でる。

「私の方こそ。クロサキさんに出会えて、とても嬉しいです」

 クロサキの背に腕を回すと、より一層の強く抱きしめられ、身体が密着する。

 少し息苦しいと思いつつも、クロサキがそれだけ嬉しがっていることが行動で分かり、嬉しくて仕方ない気持ちでいっぱいになっていた。


 しばらくお互いに何も言わずそうしていると自然と離れ、クロサキから改めて手渡された"想い"を受け取り、ベッドの縁に並んで座って、読み始めた。

 クロサキは恥ずかしいらしく、終始、どことなくそわそわし、今は手に持っている花冠を何度も持ち直していた。

 それを横目で見ながらこっそりと笑っていた。


 こんな愛しい人とこれからもずっと一緒にいられると思うと、自然と笑顔が溢れてしまう。


 これからの人生にどんな物語が紡がれるのだろう。

 楽しくて、喜ばしくて、笑い合える出来事が少しでも増えますように。

 心の中でそっと祈った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「醒めない悪夢に優しい子守り歌を」 兎森うさ子 @usagimori_usako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ