霜ヶ峰の精霊

「精霊?」

志穂子はまたしても顔をしかめた。今度はいったい何を言い出すのだ。

「そう。今は人間の姿かたちをしているけれど、これは僕の本当の姿じゃない。本当の姿は目に見えないし、君に触れることもできない。実体がないから君達のように寒さを感じることもないし、そんなに重そうな荷物を背負って歩くこともない。これでわかってもらえた?」

リュウと名乗った男性は小首を傾げて尋ねてきた。だが、志穂子はぽかんと口を開けてリュウの顔を見返しただけだった。初めて聞く言語で自己紹介をされた人みたいに。

「精霊って…、そんなの本当にいるの?」志穂子がやっとそれだけ尋ねた。

「現にここにいるじゃないか。」

「いや、それはそうだけど…。」

志穂子は決して霊感が強い方ではない。高校の時のクラスメイトには霊感が強い女の子がいて、修学旅行で行った宿泊先の部屋に幽霊がいると言って大騒ぎになったものだ。だが志穂子には何も見えなったし、何も感じなかった。そういう超常現象は自分とは無縁の世界で起こるものだと思っていた。だが、今目の前にいるリュウという男性は自分が精霊だと言っている。周りに人がいれば、他の人にも彼が見えているかを確かめることができるのだろうが、あいにくここには志穂子とリュウの二人しかいない。

「でも、霜ヶ峰に精霊がいるなんて話聞いたことないよ?確かにパワースポットとしては有名だけど…。」

「普段は僕が人前に姿を現わすことはないんだ。精霊が人間に姿を見られることは好ましいことじゃないからね。春から秋にかけてはこの山にもたくさんの人が訪れるから、僕は陰からひっそりと彼らの姿を見守っているだけだ。だけど冬は人が少ないからね。君のように一人で登ってくれた人を見ると嬉しくなって、こうして人間の姿になって話かけてしまうんだ。」

「はぁ…、そういうものなんだ…。」

志穂子は困惑してリュウの顔を見つめた。期間限定で現れる精霊。まるでロールプレイングのゲームみたいだ。信じるにはあまりにも突拍子もない話。でも確かに、この男性にはどこかその年代の人間らしくない邪気のなさがあった。

「それでどうする?僕と一緒に、山頂まで行ってみるかい?」

リュウが尋ねてきたが、志穂子はなおも決心しきれずに考え込んだ。

「…正直あたし、今かなり混乱してる。いきなり精霊だとか言われても、すぐには受け入れられないっていうか…。」

リュウが悲しげに眉を下げた。志穂子が慌てて取りなすように言った。

「さっきも言ったけど、端から信じられないってわけじゃないの!ただ、精霊なんて今まで見たことないから、いきなりそんな話されても現実感がないっていうか…。」

「じゃあ、どうしたら信じてもらえる?」リュウがため息まじりに尋ねた。

「そうね…。何か証拠見せてくれたら信じられるかも。精霊にしか出来ないこと、何かしてみせてよ!」

リュウは腕を組んで考え込んだ。志穂子はそんなリュウの姿をじっと観察した。これでいい。もし彼がただの頭のおかしい人なら、ここで諦めて帰るはずだ。だがリュウは意外にも頷くと言った。

「わかった。それじゃあ、いいものを見せてあげるから、よく見ていて。」

リュウはそう言うと、オーケストラの指揮者のように華麗にさっと片手を振った。志穂子は眉根を寄せてその様子を見つめた。

 しばらくは何も起こらなかった。さっきまでと変わらない、深々とした雪原がどこまでも広がっているだけだ。志穂子は辛抱強く何かが起きるのを待ったが、やがて痺れを切らして口を開こうとした。

 その時だった。不意に視界を白いものが舞った。ふわふわとした小さなものが、頭上からゆっくりと零れ落ちていく。志穂子は空を見上げた。さっきまで澄み渡っていた空は灰色の雲に覆われ、そこからちらちらと細雪が降り始めていた。星屑のような小粒の雪が、雪花せっかとなって空を舞い、音もなく足元の深雪に重なっていく。その光景は言葉を忘れるほどに美しかった。まるで空からダイヤモンドの雨が降り注いでいるみたいだ。

「すごい…、これ、あなたがやったの?」

志穂子は思わずリュウの方を振り返って尋ねた。リュウは柔らかく微笑んで頷いた。

「このくらいはお手の物だよ。どう?これで信じてもらえた?」

志穂子は小刻みに頷いた。こんな光景を見せられたら、さすがに信じないわけにはいかない。

「頂上からの景色はもっと素晴らしいんだ。君もきっと気に入ると思うよ。」

リュウは満足そうに言った。気がつくと雪は止み、雲間から再び光芒が差し込んでいた。志穂子はさっきまでの光景の余韻に浸りながら神妙に頷いた。もはやこの男性を疑う気にはなれなかった。霜ヶ峰に宿る精霊。いいだろう、信じようじゃないか。ある意味それは志穂子にとって歓迎すべき出会いだった。幼い頃から思いを焦がしていた雪山、その精霊と出会い、あんな夢のような光景を見せられたのだ。彼について行けば、もっと美しい光景を目の当たりにすることができる。ここまで来たら行けるところまで行ってみよう。超常現象だろうが何だろうが、今の志穂子は全てを受け入れる気持ちになっていた。

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