ウィンター・ロマンス

瑞樹(小原瑞樹)

白銀の海

 深山志穂子みやましほこが雪山への憧憬を抱き始めたのは、小学四年生の時だった。将来なりたい職業について同級生と話をしていた時、「花屋さん」とか「ケーキ屋さん」とかではなく、「山岳写真家」という、小学生の女の子が志望するにしてはマニアックな職業名を上げたのは志穂子だけだった。同級生にはよくその理由を尋ねられた。どうしてわざわざ山に登るのとか、どうして普通のカメラマンじゃダメなのとか。志穂子としても明確な答えを持っていたわけではない。当時の志穂子にはっきりわかっていたのは、自分が山、とりわけ雪山に並々ならぬ情熱を抱いていたということだ。

 志穂子が雪山に惹かれるようになったのは、自身が山岳写真家であった父の影響だった。父は世界各地の山々に登っては、あらゆる山の姿をフィルムに収めて帰ってきた。現像された写真を志穂子は何度も飽きもせずに眺めたものだ。千紫万紅せんしばんこうの春の山、翠巒すいらんの広がる夏の山、錦繍きんしゅうが映える秋の山、だが、志穂子がもっとも心惹かれたのは冬の山だった。一面に広がる銀嶺ぎんれいと、天色てんしょくの空が織り成すコントラストが志穂子の心を強く掴み、ぜひとも自分もこの光景を一目見てみたいという気持ちを駆り立たせたのだった。

 それ以来、志穂子は自身も山に登りたいと思い、登山のためのトレーニングに励むようになった。中学・高校と陸上部に所属し、練習がない日でもジョギングをかかさなかった。家にいる時はストレッチをし、雪山に登るための身体づくりを着々と進めていった。志穂子は決してスポーツが得意なタイプではなかったが、それでも懸命に練習に励んだ。彼女を突き動かしていたのはただ一つ、どうしても雪山に登りたいというその思いだけだった。

 そして大学一回生になった今、志穂子は念願の雪山登山に挑戦している。場所は霜ヶ峰しもがみね。長野県にある高原地帯にある山であり、市内からだと電車とバスで二時間ほどの距離だ。標高は約二千メートルと高いが、山頂近くまではロープウェイで行くことができ、そこから一時間ほど歩けば山頂に行くことができるため、初心者にも人気のハイキングコースとなっている。ただ、そうは言っても今は十二月。他のシーズンに比べてリスクの大きいこの時期に登山をする者は多くはない。志穂子は登山を始めてまだ一年目。雪山に登るにはまだ早すぎるとも思ったのだが、我慢しきれずにやってきたのだった。

 白銀の海が一面に広がる。降り積もった深雪みゆきは真白の絨毯のようで、丘の起伏に合わせてなだらかなカーブを描いている。まだ足跡のついていない新雪が、生まれたての赤ん坊のように世界に無垢と調和をもたらしている。空は青く澄み渡り、燦燦と降り注ぐ太陽の日差しが白銀の海を照らし出している。写真でしか見ることのなかった光景が、今や自分の眼前いっぱいに広がっている。夢にまで見た光景を前に志穂子の心は喜びで満たされた。

 ただ、そうは言っても肉体の疲労と無縁ではいられず、志穂子は早くも息が上がっていた。

「あー…、雪山って思ったよりきつい。春とか夏に来た時とは全然違うな…。」

志穂子はそう言って顔をしかめた。ロープウェイを降りて登り始めて早十分、同じような景色が続いているために方向感覚が失われ、自分が本当に山頂に向かえているのかが怪しくなっていた。

「…山頂まであと五十分もあるんだよね。引き返した方がいいかな…。」

志穂子はちらりと後方を見やった。ロープウェイに乗っていたのは自分一人。後からついてくる人は誰もいない。もしここで遭難でもしたら誰も助けてくれる人はいない。そんな不安が頭をよぎったが、志穂子はかぶりを振ってその考えを打ち消した。

「ダメダメ、せっかくここまで来たんだから、山頂まで行かないと意味ないって!」

志穂子はそう自分を奮い立たせると、今一度ピッケルをしっかりと握り締めて雪道を進もうとした。だが、これまでの道よりも雪が深くなっていたのか、踏み出したスノーシューズがすっぽりと雪の中に埋まってしまった。志穂子はふくらはぎに両手を当てて何とかそれを引き抜こうとしたが、すぽんという間の抜けた音がして勢いよくスノーシューズが抜け、バランスを崩してそのまま仰向けに倒れ込んでしまった。首筋からひんやりとした感覚が伝わる。

「…あーあ、何やってんのかな、あたし。」

一人でじたばたしている自分が何だかすごくみじめに思えて、志穂子は目を瞑ってため息をついた。勢いだけでここまで来てしまったものの、この調子では山頂まで行くのはとても無理だ。早いうちに引き返した方が懸命かもしれない。

「あの、大丈夫?」

不意に頭上から男性の声が降ってきて、志穂子は目を開けた。誰かが自分の顔を覗き込んでいるようだが、太陽をバックにしているせいで顔が影になっている。その人の手が志穂子の手に触れ、そのまま手を掴んでゆっくりと彼女の身体を起こした。志穂子は首を振ってニット帽や髪についた雪を振り落とした。

「あ、ありがとうございます。あたし雪山って初めてだから、歩くの難しくて…。」

志穂子は礼を言いながらゴーグルを外した。誰か他の登山者が助けてくれたのだろうか。何ならこのまま山頂まで連れて行ってもらおうか。そんな虫のいいことを考えていた矢先、目の前にいる人の姿を見てあんぐりと口を開けた。

 まず目を引いたのはその人の服装だった。茶色のロングコートに白いマフラー、焦げ茶色のコーデュロイのズボンに黒のショートブーツ、黒の革手袋、冬の街中ならスタイリッシュなその格好も雪山では軽装に過ぎる。耳まですっぽりと覆った白いニット帽にゴーグル、フードのついた蛍光イエローのウェア、分厚い手袋にスノーシューズ、大量の荷物が入ったバックパックという自分の服装がひどく不格好なものに思える。だがそのことを指摘する前に今度は男性の顔が目に入った。年齢はおそらく二十代前半、物静かな雰囲気で、登山をするよりも暖炉の前にある揺り椅子で読書をしている方が似合いそうだ。ベージュの髪が柔らかい印象を与え、こちらを見つめるスカイブルーの瞳はガラス玉のように透き通っていた。志穂子は美術館の絵画でも眺めるような気持ちでその男性の顔に見入った。前言撤回。この男性に無骨な登山ウェアは似合わない。

「大丈夫?」

男性がもう一度尋ねてきた。片膝をつき、心配そうに志穂子の顔を見つめている。志穂子はようやく我に返った。

「あ、ごめんなさい。ぼーっとしちゃって…。あたしは大丈夫です。それよりあなたは大丈夫なんですか?そんな薄着で、荷物もないみたいだし…。」

志穂子が男性の背中を覗き込んだ。見たところ、男性はリュックも何も背負っていない。ここでPVの撮影を始めるのかと思うくらい身軽な格好だ。

「うん、僕は平気だよ。慣れているから。」

男性が柔らかく微笑んで言った。雲間から覗く陽光のような微笑みだ。そんな微笑みを前にしては、志穂子はそれ以上突っ込んで聞くことが何だかひどく無粋なことに思えてきた。

「君、名前は?」男性が尋ねてきた。

「あ、深山志穂子と言います。地元の大学の一回生です。」

「一人でこの山に?」

「はい、霜ヶ峰には何回か登ったことがあったから大丈夫かなと思ってたんですけど、やっぱり甘かったですね。」志穂子が自嘲したように笑った。

「あなたは?慣れてるって言ってましたけど、よく山に登られるんですか?」志穂子が尋ねた。

「そうだね。登るというよりは、住んでいるといった方が正しいかもしれない。」

「住んでる?」

志穂子は怪訝そうに顔をしかめた。さっきからどうも言っていることがおかしい。

「そうだ、もしよければ、僕が山頂まで案内しようか?この辺りの道は毎日通っているから迷うことはないよ。」

男性が人の好さそうな笑みを浮かべていった。だが、その時にはさすがに志穂子も警戒心を抱き始めていた。装備もろくにしていない格好で毎日雪道を通っている?この人はいったい何を言っているんだろう。

「あ、ごめんなさい…。あたしやっぱり引き返します。別に今すぐ登らなきゃいけないわけじゃないし、もっと登山に慣れてから来た方がいいですよね、きっと。」

志穂子は自分一人で話を切り上げると、男性に背を向けてさっさと歩いて行こうとした。助けてくれたとはいえ、この男性とこれ以上関わり合いになるべきではないと本能が告げていた。

「…僕のこと、おかしな奴だと思ってる?」

男性がぽつりと言った。志穂子が足を止めた。

「君だけじゃない。僕がこの山で出会った人間はみんな、僕のことを頭がおかしい奴だと思うみたいだ。どうしてだろうね、僕が君達と同じような格好をしていないからかな。でも仕方がないんだ。僕にはこの格好しか出来ないんだから。」

男性が深々とため息をついて言った。志穂子はそっと振り返った。男性の瞳が、悲しげに志穂子を見つめている。

「僕はただ、君に見せたいと思っただけなんだ。ここの山頂からの光景を…。君はたった一人でここまで登ってきた。でも、この先に進むのが心細くなって引き返そうとしている。僕はそんな君が不憫でならないんだ。いいかい?山の光景はいつも同じじゃないんだ。今日はこんなに晴れて空気も澄んでいるけれど、明日も同じような光景が続くとは限らない。自然は日々移ろっていくものなんだ。今当たり前に見ている光景が、次に来る頃にはなくなってしまっているかもしれない。それなのに君は、本当にこのまま帰ってしまってもいいの?」

「それは…。」

志穂子は言い淀んだ。そりゃあ山頂からの景色は見たい。でもだからと言って、こんな得体の知れない男性に案内人を任せることの踏ん切りはつかなかった。

 男性は志穂子をじっと見つめていたが、やがて落胆したようにため息をついた。

「…残念だね。君ならもしかして、僕を信じてくれるかと思ったんだけど…、やっぱり君も、他の人達と同じだったみたいだ。」

男性はそう言うと志穂子に背を向け、コートのポケットに手を突っ込んで歩いて行こうとした。うら寂しさの漂う背中。その背中を見ているうちに、志穂子は考えるより先に言っていた。

「ねぇ、あなた、本当にこの雪山に住んでるの?」

男性が足を止めて振り返った。無言のまま志穂子を見据え、こっくりと頷く。志穂子はしばらく迷ったが、やがて言った。

「正直言うと、やっぱり信じられない気持ちはあるの。だって、こんな雪山に人が住んでるなんて普通じゃ考えられないし…。でも何て言うか、あなたが嘘をついてるだけとも思えなくて。そんな嘘ついたって怪しまれるだけだし。ただその、理由を知りたいっていうか…。」

「理由?」

「だからその、なんで雪山にいるのにそんな薄着なのかとか、手ぶらなのかとか、なんでわざわざこんな場所に住んでるのかとか…。そもそもあたし、あなたの名前もまだ聞いてないし。」

志穂子は一気にまくし立てると、もう一度ちらりと男性の方を見た。男性はきょとんとして志穂子の顔を見返したが、やがて納得したように大きく頷いた。

「確かにそうだね。君達からすれば、僕の言動はおかしなことばかりだ。僕にとっては当たり前だから何とも思わなかったけど…。わかった。それじゃ最初から話そう。」

男性はそう言うと、志穂子にまっすぐに向き直って言った。

「僕はリュウ。この山に宿る精霊なんだ。」

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