第3話 ふと考えてみたけどすぐに考えるのをやめた

特に変わり映えする事なく1日が過ぎた。パソコンの電源を落として机周りの片づけをしながら今日を振り返る。

安房を意識していたのか、いつもとは違う時間帯に喫煙休憩をとっていたので社内で安房と会話をする事はなかった。彼女のデスクの方を覗いたが、すでに退社していたみたいだ。

いつもは早く出社をしている分、安房よりも先に退社する事の方が多いがこの日は週明けだったからなのか、いつもよりも時間を割く案件が多かった。

会社を後にしたら仕事モードだった頭を一旦整理して車に乗り込んだ。昼間に暖められた車内は蒸し暑く、エアコンを全開にして駐車場で電子タバコを吸いながら社内が冷えるのを待つ。おもむろにスマホを取り出すと安房からメールが来ていた。

『先に帰って晩ご飯の準備をしています。帰宅時間を教えてください。』

安房にはこれから帰る、と返信をし、妻の方にも今日の終業報告としてメールを送信した。これまでにないルーティンが生まれたので、この先送信間違いがないように注意する必要があるな、と心の中で自分に言い聞かした。

安房が社宅に居ると思うと真っ直ぐ帰る理由になる。いつもなら今日の晩御飯は何にしようかと国道の方に車を走らせるのだが、今はその必要がないと思うと、これもまた新しいルーティンとなるのでしばらくはうっかりいつもの交差点でウインカーを出すかもしれない。とは言え、それらはすべて社外での事である。仕事に影響が出ないようにしないといけないのかもしれない。

頭の中でゴチャゴチャと考えているうちに社宅に着いた。部屋の明かりが点いている以外はいつも通りの風景だ。


「ただいま。」

玄関を開けると2階に向かって挨拶をした。すると遠くの方から返事があった。

「おかえりなさぁ~い。」

やや力の抜けた安房の声が聞こえた。

階段を昇って自分の部屋に鞄を置き、リビングに向かう。

「先に手洗いうがいしてくださいね。」

自宅でいつも妻に言われる台詞と同じ事を安房に言われた。

言われた通り洗面所で手洗いとうがいをした。口元を拭きながら目線を風呂場の方に向けるとすりガラスが濡れていたので先ほどまで使っていたと思われる。開けっ放しの洗濯槽からは安房の下着らしきものがちらっと見えたのだが、そっと蓋を閉じておいた。

「まだ出来ないので、よかったら先に風呂に入っててくださぁ~い。」

洗面所から出ようとしたところ、リビングから彼女の力の抜けた声が聞こえた。

一旦、自分の部屋から着替えを取りに戻って先に風呂に入る事にした。

浴槽には入浴剤が入っていて、安房がお湯を張っていてくれたようだ。

夏場はのぼせるのでシャワーで済ましていたのだが、せっかくなので彼女の心遣いにゆっくりと浸かる事にした。

口元までお湯につかり、いつも通りの一日を思い返していた。

もし、これまで通りの日常なら今日の今頃はなにしてたんだろうか?

外で食べて帰っているだろうから、まだ社宅には戻っていないと思う。そのまま近所のパチンコ屋にでも駆け込んでいたのかもしれない。社宅に戻れば簡単にシャワーだけ浴びて、部屋にこもってスマホを触るか、適当に読みかけの本でもめくって時間を無駄に費やしていただろう。同居人がいる事が有難い。いっその事、背中でも流してくれたらいいのに。

下らない妄想も交えてたせいか、少しのぼせてしまった。風呂からあがるとドライヤーで簡単に髪を乾かして、まだ充分に乾ききっていない身体に着替えを羽織る。いつもなら身体を乾かしがてら下着しか履いていないが、さすがにその恰好はよくない。

スウェットと短パンを履いてリビングに着くと、テーブルの上には手作りの春巻きと唐揚げとポテトサラダが大皿で並んでいた。色合いはともかく。

仕事上がりで疲れているだろうに、よくこんなに準備ができたものだと感心しながら冷蔵庫を開けた。

「あ、門ちゃん。ビールならテーブルに置いてますよ。」

動きを察したのか、私がビールを取ろうとする前に安房が私を制した。

「ほんとだ。ありがとう。」

「とりあえず、お疲れ様です。」

安房はコップに入れた麦茶で私と乾杯をした。昼間の暑さで渇いた喉にビールと熱々の春巻きが心地よく流れていく。気が付けば食卓から食材がどんどん姿を消す勢いで食べていた。

「安房、昨日もそうだったけど美味しいよ。50点は過小評価すぎるな。」

唐揚げを箸で摘まみながら安房の料理の出来栄えを褒めた。

「ありがとうございます。じゃあ何点くらいいただけるのかしら。」

「80点でも低いくらいかな。」

「門ちゃんの奥様と比べたら?」

彼女は難題を吹っかけてきた。

「それは...比べる話じゃないね。どっちに対しても失礼だよ。」

少しつまらなさそうな顔をされた。言葉を続けた。

「それにあいつは何年も俺好みの料理を作ってくれているからね。安房とも年季が違うから同じ土俵には立てないよ。」

「じゃあ門ちゃんの奥様が作る好きなお料理って何ですか?」

なかなか彼女が食い下がって来る。

昔の妻はさほど料理が得意な方ではなかったけど、子どもたちが生まれてからは色んな料理を作るようになった。きっと私に向けてではなく子どもたちに向けてなんだろう。その証拠に私の苦手な瓜系がよく食卓に並んでくるので、その度に妻の目を盗んで子どもたちの皿へと移していた。

それでも妻の作る料理はやはり外食では味わえない個性があって私は単身赴任生活になってからは特に妻の作る料理を楽しみにして自宅に帰る。

「俺はカレーかな。妻の作るカレーは毎日でも食べたいって思えるからね。」

「わかりました。カレーですね、わたしも得意ですよ。なので門ちゃんの家に居る間にカレーを作ります。自信があるので絶対に奥様と比べてくださいね。」

頭に血が上っているのか、少し頬を赤らめて安房が言う。どうやら麦茶にアルコールでも混ざっていたみたいだ。

「いや、俺なんかよりも彼氏が喜びそうな料理を作ってみたら?」

彼女はかぶりを振った。

「彼は味覚音痴なのであてになりません。冷凍物だろうと手作りだろうと表情変える事なく黙々と食べているだけですから。」

「何だかそっけないね。」

「だからお料理の練習台になっててください。いつか彼にビックリしてもらえるくらい頑張りますから。」

「それだったら彼氏に作ってあげた料理にハバネロでも入れといたほうがビックリするかもね。」

「怒りますよ。」

安房の熱意に水を差してしまうような事をうっかりこぼしてしまった。

「ごめん、悪かった。ちゃんと練習台になるよ。」

安房に謝ると最後の一口のビールを飲み干した。食事を終えた私は空になった食器を流し台へと運ぶ。洗い物を始めた私の背中に安房が問いかけてきた。

「門ちゃんは食べれない物ってあるの?」

「瓜系かな。キュウリとかナスとか。」

食べた物を口に入れたまま、彼女はくすくすと笑った。そのうち食べ終わると、空いた食器を流し台の横に置いてくれて、椅子に座り込んだ。

「明日、麻婆茄子にしようと思ったんですけどね。」

洗い物の手を止めた。

「俺は豆腐だけでいいよ。ナスは匂いが付きにくいから、一緒に炒めてもあとで取り除いてくれて出してくれたらちゃんと食べるよ。」

「駄目です。ちゃんと一緒に食べてこそ麻婆茄子ですから。」

まるで母親に叱られている気分だ。

「はい、安房様。承知いたしました。」

「でも、いきなり嫌われたらこの先居心地が悪くなってしまうから麻婆茄子は今度の機会にしますね。」

「ありがとうございます、安房様!」

再び洗い物を続けているうちに安房はスマホを触りながら黙って自分の部屋へと戻っていった。

洗い物を終えた私は、ひとりになったリビングに残ってぼうっとしていた。

近くからはエアコンの送風が、そして少し耳を傾けると浴室からシャワーの音が聞こえる。

換気をするため、エアコンのスイッチを切って窓を開けた。思いのほか涼しい風が部屋に入ってきた。

住宅地の夜は静かだ。昼間あれだけうるさかった蝉の鳴き声もすっかり聞こえる事もなく、ときどき車のエンジン音が効果音の様に聞こえてくる程度。

妻におやすみのメールを送信して、自分の部屋へと戻る。


特に変わり映えのしない日々が続いた。いつも通りのルーティンワークな日々。

喫煙所で彼女と一緒になっても普段通りの会話をしているだけなので、社内の連中からもバレていないように思える。

朝から雨だった日は私が少し遅く出社するかたちで安房を助手席に乗せて一緒に出社した。そんな大胆な行動においても安房は同僚たちには、以前煙草を分けてあげた借りで雨の日は迎えに来る約束をしていた、とそれっぽい嘘をつく。

だから誰も私たちが同じ社宅に住んでいると疑わない。所詮、他人への関心なんてその程度だ。同居生活においてもラッキースケベすらない単調な日々を過ごす。

最初に迎えた休日は、昼間は一緒に過ごす事もなく私は車の洗車や部屋の掃除をして、彼女は二日とも昼前に出かけては夕方には帰って来てた。もちろん恋人同士ではないのでお互いが一緒に行動する必要はない。

その代わり家事全般はきちんとやってくれていた。昼ごはんをわざわざラップに包んで冷蔵庫に入れてくれていたので、私は外食することなく実に経済的だった。

夕方には買い物袋を下げて帰って来て、そのまま晩ご飯を作ってくれる。因みにその日曜日の夜の食卓には先延ばしにされていた麻婆茄子が並んだ。私は茄子のぐにゃっとした食感が苦手で小学生の頃以来、すっかり食べなくなっていた。しかし安房が上手く茄子を炒めてくれていたみたいで、遠い記憶の食感とは違い思いのほか難なく食べれた。それでもやはり全体的に茄子は口に合わないようで、この麻婆茄子は正直なところ100点満点中の50点と言いたかった。

その麻婆茄子を食べ終わった後の安房のガッツポーズがやけに憎かった。食べ終わったすぐ後に口直しのようにビールを注ぎ込んだせいか、この日は記憶なく眠りについた。

安房が晩ご飯を作ってくれるおかげで外食をしなくなった。そのおかげか、体重が少し減ったようだ。それに奮起したかのように夜は軽い運動をするようになった。外に出て帰る時間も浮いた分、時間に余裕ができた。妻と結婚したての頃に住んでいた狭いマンションの事を思い出した。あの頃もよく晩ご飯の後は軽い運動がてら妻と散歩に出掛けていた。少し歩けば国宝の城があり、その堀の周りを手を繋いで軽く歩いていた。手を繋いだ老夫婦を見て妻が言った言葉を思い出した。

『私たちも歳を取ればあの夫婦みたいにいつまでも仲良く居たいね』

その言葉が今日にいたるまで私を一家の主として支えてくれていた言葉だ。

安房と妻を重ねるわけには行かないけど、彼女の家事の姿を見ているとまるであの頃の妻が居てくれているようで何だか懐かしい。もちろん散歩に出掛ける時は一人で出かけるが。

一度、安房も散歩に着いていきたいと言ってことがあった。でも断った。もし社内の誰かに目撃されたら後々面倒な事になる。表向きには彼女は社内では実家から通っている事になっているので、遅い時間にこの街を歩いているのが不自然だし、ましてや私と居るとよりマズい。それでも安房だったら私と散歩している姿を見られても、遅くなった時に天門とたまたま会ったから駅まで送ってもらってる、ってやり過ごすんだろうな。こんなくだらない妄想をするようになった。

これまでの退屈な日々を思うと、くだらない妄想をしつつも退屈でない日常が送れるようになったのは安房のおかげだろう。

そういえば、ふと考えてみたけどすぐに考えるのをやめた事がある。この生活もいつかは終わりを迎える。この瞬間も記憶としては残るけど、それから先はいつもの日常に戻るだけ。安房には安房の人生、私には私の人生の中で、たまたま今の期間が同じ同居人として近くに居るだけで、過ぎ去った時間の記憶だけにしかならない。

だから予定されている未来があるから考えるのをやめた。


次の週末、安房は社宅には帰らずに彼氏と過ごす事になった。その彼氏はひとり旅に飽きたのか一旦自宅に帰るらしく、安房も金曜日の夜から月曜日までそっちに居るとの事。

2週間ぶりの以前の生活に戻っただけだ。それに来週もまた安房の同居生活が戻る。なのに週末の昼間は蝉の鳴き声がやたらとうるさい。昼間の蝉ってこんなに鳴いてたっけ?

先週の日曜日も昼間はひとりで過ごしていたが、さほど気にならなかった。もしかしたら安房が蝉を鎮める魔法でもかけてくれていたみたいだ。

そんな下らない事を妄想しながらリビングの窓を開けて昼間からキンキンに冷えた缶チューハイを呑んだ。蝉の鳴き声で暑く濁った外からの風を扇風機で掻き回しながらスマホをいじり、妻から送られてきた子どもたちの休日の写真を眺めていた。

しばらくして妻からメールがあった。

『来週から子どもたちが夏休みだから部屋を綺麗にしといてね』

はて?

酔っているせいか、なぜ子どもの夏休みだからといって掃除をしなければならないのか意味が分からなかった。

『どゆこと?』

『来週の土日にパパの社宅に泊まりに行きたいんだって』

妻からの返答は即答だった。事態が飲み込めた。これは予想外だ。

前に家族がこっちに来た時は妻が郊外は不便だからと、都心部のビジネスホテルに泊まった。しかし、今回は子どもたちだけで来るから妻の要望は関係ない。

子どもたちに会えるのは嬉しいが、今の社宅を見せるのは非常にマズい。

思わずまだ残っているチューハイの入った缶をへこむくらいに握った。

とりあえず細かいことは後で考える事にして、先に妻に返信をした。

『了解。楽しみにしている』

これで妻との会話は終わった。

そうは言ったものの、来週までにこの状況を何とかしなければならない。

開き直って安房を子どもたちに紹介してお手伝いさん、と呼ぶか。

いや低学年の息子は騙せても、娘はもう高学年だからそんな事で騙せるわけがない。きっとそのまま妻に報告されて大問題になり兼ねない。

安房が不在だからか、酔った私の思考回路ではまともな案が出て来ない。

結局、駄目もとで妻に訂正メールを送った。

『ごめん、来週は当番出勤だから土曜日は仕事している。もし先送りが可能だったらお盆休みの前に有休を取得して長期休暇を取るから、その時でも大丈夫?それでそのまま子どもたちと帰郷するのはどう?』

出来ないサラリーマンの必殺技、先送りを提案してみた。そして程なくして妻から返信があった。

『そうね、考えたらラジオ体操も前半はあるからパパの予定に合わせる。子どもたちにもそう伝えておくから、よろしくね』

『追伸。お酒飲みすぎたり不摂生して体調崩さないように』

最後の一言で背筋が凍った。監視カメラで監視されている気分になった。そもそも監視カメラが備え付けられていれば安房との同居生活もバレてしまうので、その心配はいらない。

しかしそんな呑気な事を考えている場合ではない。結局は子どもたちが来る前にこの状況を何とかしなければならないのだ。子どもたちが来るまでにおよそ1ヶ月もあるのだから、安房を追い出せばすぐに解決する。それは簡単ではあるが、せっかく彼女が馴染んできた環境を奪ってしまうのは少々心苦しい。勝手に決めずに安房が帰ってきた時に相談してみよう。

結局、この日は明け方まで来月の事で頭がいっぱいとなり、寝れなかった。それに加えて日曜日はクーラーの効いた部屋でほぼ一日中ゴロゴロと寝たきりの休日を過ごした。風邪は引かなかったものの、不摂生極まりない自分が居た。


次の月曜日、彼氏と過ごしたであろう安房はギリギリの時間に出社してきた。彼女はこれから旅にでも出るようなボストンバッグを肩にかけていた。この日は喫煙所で安房に会う事なく日常を過ごす。仕事中に思わず子どもたちの話をしてしまうと、お互いに仕事に支障をきたしそうだったので、あえて会わないようにした。

その夜、いつもよりも早く退社して社宅へと急いだ。私よりも先に退社した筈の安房はまだ帰って来ていなかった。買い物でも済ましているのか、それとも朝もっていたボストンバッグは実は新たな寝床が見つかって、その場所で引っ越し準備でもしているのだろうか。後者であれば今の私には都合がいいが、そうなれば少々淋しい気もする。

しかし、現実的には後者の方がお互いのためでもある。

中身も分からないボストンバッグに妄想を重ね、その妄想を汗とともに流すつもりでシャワーを浴びる事にした。

すっかり忘れていたが、下着は別々に洗うと同居前に言われていたが実のところはそのまま彼女の洗濯物と一緒に洗ってくれている。なかなか物怖じしない人だと思った。

シャワーから上がったタイミングで安房が帰ってきた。すごい勢いで階段を昇ってきたと思うと、浴室のドアを叩いた。

「トイレぇ~!!」

引き戸を少し開くと、買い物袋をその場で下ろして彼女はトイレに駆け込んだ。浴室あがりのバスタオルを腰に巻いただけの私の姿には目もくれずに。

私は彼女がトイレで用を足している間に慌てて着替えた。

「すっきりしたぁ。お騒がせしました。」

そう言いながら、満面の笑みで安房がトイレから出てきた。急いで帰ってきたせいか、額に汗が滲んでいた。

「あ、門ちゃん。このままわたしもお風呂使っていいですか?」

「ああ、いいよ。」

私が返事をすると安房はその場でブラウスのボタンを外しだした。よく見るとズボンのチャックもトイレから出て開けたままだ。とりあえず居たたまれなくなったので、ドライヤーを持ち出して自分の部屋で髪を乾かす事にした。どうやら同居人としての遠慮が失せて来たみたいだ。あのままだと私の隣で裸になり兼ねない。彼女がそれでいいのであれば私は構わないが、20代の大胆な行動はこの中年には少々刺激が強い。

髪を乾かした後で浴室の前に置いてある買い物袋をリビングに運んであげる事にした。肉など傷みやすそうなものは冷蔵庫に押し込んだ。酒を取り出す時ですら冷蔵庫をじっくり見る事はないが、よくよく見て見ると様々な食材が並んでいた。無駄に私よりも背の高い冷蔵庫も安房に使われた方が責務を全うできそうだ。

そういえば、あのボストンバッグは?と思い出したが、玄関から入ったすぐの場所に仕事で使用している鞄と一緒に無造作に置かれていた。それらも安房の部屋の前に運んであげた。中身は見ていないがやたらと重かった。

リビングの椅子に腰かけて少し待つと安房が風呂から出てきた。風呂上り直後の彼女の姿を見るのは初めてかも知れない。少し頬が淡いピンクに染まっている。普段から化粧は濃くないので、眉毛が若干薄い以外はいつも通りの安房だった。リビングで髪を乾かし始めた安房の姿を横目で見ていた。

彼女はさほど美人ではないが、いつも愛嬌があって可愛く見える。仕事中においてもネガティブな表情はいっさい見せない。私と大違いだ。

そんなニコニコとした安房が同居してくれているおかげで、この数日は私も機嫌がいい。自分も口角を上げる努力をしようと思うほどである。

髪を乾かし終わった彼女は、その髪をヘアゴムで低めのお団子に束ねた。露わになったうなじが健康的でセクシーさを感じる。

そして壁にかけていたエプロンをまとい、料理の準備に入った。その一連の動きのスムーズさに私は肩肘をついて見とれてしまった。

「今日は簡単に焼うどんにしますね。」

安房のその一言に現実に戻された。私は平然を装い、リビングの窓を閉めてエアコンのスイッチを入れようとしたが、部屋中にフライパンで炒められた野菜の香りが部屋中に漂ってきたので、やはり窓を開ける事にした。無駄に安房の周りをうろついている自分が居る。

「門ちゃん、何だか落ち着きがないですね。」

安房は落ち着きのない小さな子どもを見るような目で私を見て不思議そうに呟く。

「あ...、何か手伝う事ないかなって思って。」

「普段、ご自宅ではどうしているの?」

「料理ができるまで、大人しく椅子に座ってる。」

「だったら、そうしててください。」

そう言って彼女はクスッと鼻で笑った。夏休みにこちらに来る子どもたちの件もそうだが、彼女が無防備にこの社宅で動き回っている姿に見とれてしまっていた事を誤魔化しているようで、確かに心が全く落ち着いてないのを感じる。

安房の言う通り大人しく座っていると料理が食卓に並べられた。そして、いつものようにビールも置かれていた。

二人分のお皿に焼うどんが湯気を立てている。その湯気から立ち込めるソースの香りが蒸し暑い真夏のくたびれた胃袋を刺激してくれる。二人で同時に手を合わせ、さっそく音を立ててうどんを啜った。

かき込むように食べ終わると同時にビールを喉に一気に流し込んだ。食道を伝う爽快感がブルーマンデーだった気持ちを一気に吹き飛ばしてくれた。

「ご馳走様でした。簡単だとか言いながらも、しっかりと味付けがされていて美味しかったよ。」

「丁寧な食レポありがとうございます。喜んでいただき光栄でございます。」

口をもごもごしながらも、安房が返事を返す。次の一言を投げかけたかったが、彼女が食べ終わるまで待つ事にした。

「ご馳走様でした。」

安房が食べ終わると、自分と安房の皿を拾い上げてシンクに運んだ。洗い物をしながら安房に話しかけた。

「この2週間でだいぶリラックスした安房が見れた気がする。」

「そうかしら?普段通りのつもりですけどね。」

私の言葉に少し首をかしげて安房は返事をする。

「喫煙所では気の抜けた安房をよく見ていたけど、職場の中だと他の同世代の女性たちよりも少し遠慮がちに振る舞ってように見えるかな。でもこの社宅に住むようになってからは、俺の前では喫煙所にいる時よりもずっと自然体に見えるかな。」

「うん、それはありますね。門ちゃんがだいぶ年上の割に子どもじみた部分もあるから、わたしも気軽に過ごせるのだと思います。」

安房の言葉に思わず鼻頭をかいた。子どもを持つ私が子ども見たいって言われたのは初めてだ。いや、妻によく子どもたちとまとめて叱られる事もあるから、そうでもないかもだけど。

「そう思っていただけるとこっちも安心するよ。けど、根が明るいのだから普段から気楽に仕事してた方が疲れないんじゃないかな。」

「そうねぇ。でも、それはお互い様だと思いますよ。門ちゃんも社内ではいつも眉間にしわを寄せてパソコンと睨めっこしているイメージしかないですよ。デスクに座っている門ちゃんは今のような筋肉のない表情はしていないですからね。」

今度は自然と手が眉間に向いた。

「それにわたしはビジネスライクを徹底しているので疲れてはいませんよ。」

「ビジネスライク?...仕事が好きって事?」

「違う!事務的って事ですよ。やたら八方美人に振る舞うと同性からは嫌われるし、男性からも変に付きまとわれる怖さもあるのでなるべく目立たないようにしてるんです。」

元々愛嬌がいいのは彼女の性分なんだろう。他の女性と比べると控えめではあるが、よく喫煙所で同席していた私から見ればそこまで抑えているようには見えない。相手を選んでくれているのかな。そうだとすれば私は彼女にとっては変な存在でないのか。それに私の場合は安房の方から付いて来てくれているように思える。あくまでも同居人としての彼女の立ち位置だが。

「なるほど。俺も安房のような立ち振る舞いを見習わないといけないかな。」

「そうですよ。せめて口角を上げる練習をしないと変なあだ名が付いちゃいますよ。いかついおっさんとか。」

安房の言葉が図星すぎて思わず触る部位すら思いつかなかった。

「誰がおっさんやねん。子どもじみてるってさっき言ったやん。」

「へへっ。わたしの前では下手な関西弁も使える気さくなおじさんなのにね。その雰囲気を社内で出してたらいいと思いますよ。それもビジネスライクのひとつです。」

ビジネスライクか。それにしても横文字は苦手だ。それ以上に愛想笑いも苦手だ。

洗い物を終えた私はしばらく換気扇の奥の方をぼうっと眺めていた。

そのうちに安房は立ち上がって黙ってリビングを出ていこうとした。そうだ、もっと大事な話をしなければならない。部屋から出ていこうとする彼女を呼び止めた。

「安房、ごめん。もうひとつ大事な話があるんだ。」

「じゃあ、彼にメールして部屋に置いてるタバコを取ってきてから戻って来てもいいですか?」

「ああ、俺も一服して待ってる。」

換気扇を回して流し台の脇に置いていた電子タバコの加熱ボタンを押して安房を待つ。

調理した匂いもすっかり抜けたようなので、タバコを吸い終えたあとで窓を閉めてエアコンのスイッチを入れた。


10分くらいして安房がリビングに入ってきて椅子に座った。さっきまでしていたお団子をほどいた肩くらいまでの髪がエアコンの送風になびいている。

「で、ご主人様、お話とやらは何でございましょうか?」

肩を竦め、私の真似事のように眉間にしわを寄せて安房が切り出した。

「役者だな、安房は。そんなに...いや、少し難しい話なんだけど。」

「何なにナニ?わたし追い出されるのですか?」

少し食い気味に安房が私に対して睨むような目をする。この程度の仕草はまだ彼女の冗談の範疇だと思う。

「そんなんじゃないんだ。」

「だったら大抵の事なら応じれそうですね。」

そんなに追い出されるのが嫌なのか?だったら、あのボストンバッグは一体?

「そういえば、今日持ってたボストンバッグに何が入ってるの?」

思わず心の声が飛び出た。話を逸らしてしまった。

「ああ、あれは漫画の本です。彼の自宅で長らく隔離されてて可哀想だったので回収してきました。」

彼女も予想外な質問に戸惑ったのか、少しびっくりしたような目で答えてくれた。本題はそれじゃないのに。

「あ、そう。」

拍子抜けだった。漫画を読むためのくつろぎやすい空間が今の私の社宅ってわけだ。

相変わらず安房はマイペースだ。

「でも、こんな事を訊くためにわたしを呼んだつもりはないでしょ?」

マイペースな割に鋭い。でも何故か安心した。彼女ならきっと私よりもいい答えを出してくれそうな気がした。

「ごめんな、話が逸れた。実は昨日、妻から連絡があって来月のお盆前に子どもたちが社宅に泊まりに来たいって言ってたんだ。でも断る理由がなくて了承したんだけど、そうは言っても今のこの状況はよくないよな?」

私が本題を切り出すと、安房は無表情を浮かべてこちらを見た。少し口角が上がっているようにも見える。

「いつかはそんな日が来るって思っていましたよ。」

今度は得意げな表情でこちらを見た。そして彼女が続けて言った。

「わたしも小学生の時に単身赴任してたお父さんの住んでいたマンションに妹と2人で遊びに行った事があるんです。その出発の朝にお母さんがわたしに言ったんです。お父さんが浮気していないか怪しい物がないかよく調べてね、って。」

安房の言葉に私は宙を見た。自分も妻にそう思われている気がした。

「お父さんのマンションに入った時、最初はわたしも妹と探偵気分で部屋中を漁りましたよ。でも部屋に置いてあるのはお酒と字の本と漫画の本ばかりで、それに何が怪しいのかもわからなかったし。それ以上にわたしたちはお父さんに久々に会える事のの方が楽しみだったから、お母さんの言葉なんでどうでもよくなった。子どもの考える事なんてその程度ですよ。」

安房の言葉に何だか胸が切なくなった。確かに私もゴールデンウィーク以来、子どもたちと会っていない。きっと子どもたちも同じ気持ちなんだろうな。そんな事を思うと胸が切ない。

「だからわたしが門ちゃんの社宅に居たって子どもたちは気にならないと思います。」

安房のその一言は妙に説得力があった。そうだよな、まずは子どもたちの気持ちになって考えりゃよかったんだ。

そりゃあ安房が居たって不自然じゃ......じゃ......ないわけないだろう!

「いやいや!思わず納得しそうになったけど、気にならないわけないだろ!」

「そうですか?気にならないと思うけどなぁ。」

安房は急にとぼけた口調になった。本当に私を納得させてこの話をないがしろにしようとしてたみたいだ。

「話を戻そう。つまり来月に子どもが来てる間はこの状況を何とかしなきゃならないって事なんだ。」

「せっかく漫画の本持ってきたのに、わたし追い出されるのですかぁ?」

本人はどうもあまり危機感は感じていないようだ。しかし安房のペースに合わせていると何の解決にもならない気がした。

「それも考えたけど...。そうしてしまうと今は実家に戻るしかなさそうだから、仕事も続けられないだろ?だからその期間だけ荷物をどこかに預けて、くらいしか思いつかないかな。」

「うわ、面倒くさそう。」

安房がテーブルに突っ伏して本音のように呟いた。

そう言えば、さっき安房はいつか来ると思ってたと言ってた。だったら何か考えてそうだ。それを訊いてみた方がよさそうだ。

「安房はいつか来るって分かってたんなら、何か考えてたの?」

「もちろんですよ。」

待ってましたと言わんばかりに彼女が顔を起こした。

「わたしもその期間は休みを取って実家に戻ります。だけど荷物を片すのは面倒くさいです!」

まるで答えになっていない事を得意げに彼女は叫んだ。私は思わず突っ込みを入れた。

「でも、お前の部屋をそのままにしてて子どもたちが入ったら怪しいものだらけじゃないか?」

「ドアノブを外しときましょう!」

「はい?」

今度は奇天烈な事を言い始めた。

「ドアノブを外してたら部屋に入れないでしょ?それだけで充分ですよ。」

「はぁ...」

正直、彼女の言っている意味が理解できなかった。

「門ちゃん、プラスドライバー持ってます?」

安房にそう促されて私の部屋の工具箱からドライバーを持って来て安房に渡した。彼女は早速それを持って自分の部屋のドアノブを外し始めた。

「これをこうして、こう。」

楽しそうに手際よくドアノブだけを取り外している安房。悪い事を企んでいる表情なんだろう。私はその一部始終を唖然と見守るだけだった。

「ほら外れた。」

得意げに外れたドアノブを持つ彼女。

「これならドアを開けれないでしょ?でもここを触ったら簡単に開くから穴は塞いどかないと駄目ですけどね。」

本当だ。シンプルだが簡単に入れなくできている。穴はテープか何かで塞いで、更にドア周りを安いカーテンみたいな布で画鋲で留めるなりして覆ってしまえば何とかなるかも知れない。あとは子どもたちに適当に開かずの間があるから家賃を安くしてもらえたか何かを言っておけば、入ろうともしないだろう。いや、余計に探究心を煽ってしまいそうだから、違う事を言う必要があるか。

私は、しばらくドアノブのあった穴を眺めてぶつぶつと独り言を言っていた。

「余計な事を何も言わずに普通に100円ショップで売っているようなカーテンで覆ってるだけで気にしないと思いますよ。」

私の独り言に安房が助言を添えた。

「そうかもね、いいアイデアだ。さすが安房だな。」

「へへっ。」

少しはにかんでドヤ顔を見せてきた。そして今度は外したドアノブを直そうとしていた。

「ところで、こんな事って以前もやっていたの?」

背中越しに安房に問いかけた。

「前に彼と一緒に住んでた時に寝る前に大喧嘩したんです。それで翌朝、わたしの方が先に起きたのですけど、夕べの喧嘩の事でまだ気持ちがもやもやしてたから彼が起きる前にこっそりドアノブを外して出かけたのです。」

とんでもない彼女だな、と思うと自分の背筋が冷たく感じた。

「そのうち起きてきた彼から何度も電話がありました。電話を無視してたら今度は『部屋から出れない』ってメールが何通も入ってきました。『漏れる!助けて!』ってメールを見て、わたしは大笑いしながら『玄関鍵かけてないからベランダから出て入ったら?』て返事したら、ぎりぎり間に合ったみたい。しばらくして、『ごめんなさい』ってメールが返ってきました。」

安房の昔話に私も笑ってしまった。彼女は怒らせると怖いタイプのようである。

「でもね、ドアノブを外した穴はそのままだから、普通にさっきの場所を押したら開くのですが、彼は寝ぼけてて分からなかったみたい。わたしもそれを予想してたのですけどね。」

「俺にはしないでくれよな。」

「門ちゃんがわたしを怒らせる事をしない限りはしませんよぉ。」

安房は悪戯な口ぶりを見せた。その口元を見て彼女が怒るような事をふと考えてみたけど、やっぱりすぐに考えるのをやめた。きっと今の距離感だとそこまで踏み込んだ関係にはならないだろうから考える必要はなかった。

ともあれ、来月の問題は何とかなりそうな気がした。ほんの僅かな時間考えてみて分かった事は彼女がここに居ると私にとって退屈しない時間が過ぎていく事。

ドアノブを直した安房は何事もなかったかのように部屋に戻った。

私も洗面所で歯を磨き、部屋に戻って妻にメールを打った。

眠りに着く頃、昨日までの2日間、安房が居ない退屈さが今日という一日で埋められた事を考えていた。

私はよくどうでもいい事を考える節がある。その創造だか妄想だかが脳内を埋め尽くす頃、深い眠りに着いた。

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