第2話 100点満中の50点

『だいたいの到着時間が分かったら教えてください。それまでに晩ご飯の準備をします。』

『やっぱり外で食べて来てください。わたしもコンビニで何か買います。調理器具がほとんどなくてビックリしています!』


考え事をしていた電車の中で安房から2通のメールが届いた。

1通目の返信を打ち込んでいるうちに、2通目が最中に続けて入ってきた。

最寄り駅のひとつ手前の駅まで帰ってきた。

彼女は近くのコンビニで適当に済ますという事だったので、私も同じように帰り道のコンビニでお弁当を買って帰った。

社宅に戻るとテーブルのある部屋で安房がスマホを触りながら椅子の上で体育座りをして待っててくれていた。テーブルの上には食べ終わった後のお弁当の空の容器と安房が持ち込んだドライヤーが置かれていた。

髪の毛も若干濡れていたので、どうやら先にお風呂を済ませていたようだ。

普段から化粧は薄い方だが、ノーメイクの安房を見るのも初めてだ。無論、彼女はそんな自分の姿を少しも気に留めていないように振舞う。

「おかえりなさい。レンタカーを返しに行ってくれてありがとうございました。」

スマホを触る手を止めて彼女は深くお辞儀をした。

「そんな大した事じゃないから気にしなくていいよ。俺はこれから晩ご飯にする。だから先に寝てくれててもいいよ。」

コンビニ袋をテーブルの上に置いて彼女にそう促す。これまで1人で居た食卓だけに誰かが居るのは妙に変な気分だ。

「大丈夫です。ただ、わたしの話を聞いてください。」

彼女が前のめりになって切り出す。色気のない水色のパジャマから淡い暖色の下着が少し見えた。

「どうしたの?」

彼女の胸元に向けた視線を逸らし椅子に座った。

「門ちゃんが出て行った後に先ず自転車を買いに行きました。そして、その足でスーパーまで食材を買いに行ったんです。」

そう言ってから彼女は冷蔵庫を指差した。どのくらい買い込んだのかは分からない。

「帰って来てから調理器具がなくて何も料理ができない事に気づいたんです!」

彼女は口角を下げて語気を強めながら、次は台所のあたりを指差した。

「それで呆然としてて1時間ほど寝てしまいました。だからまだ寝れないのです。」

そのまま力なくテーブルに突っ伏した。言葉を放たなくてもジェスチャーでその想いが充分伝わるくらいオーバーリアクションだった。

確かにクッキングヒーターなどの備え付けや電子レンジ、オーブントースターといった簡単な家電はあるものの、フライパンや鍋などといった調理器具はいっさい用意していなかったし、頭にすらなかった。

元々料理が苦手だったので単身赴任の間はすべて外食かお弁当で賄っていたのだ。

「ああ、調理器具の件はすまなかった。今まで自炊はしなかったから電子レンジと湯沸しポットくらいしか揃えていないんだ。」

お弁当のシールを剥がしながら申し訳なく伝えた。

「わたしのは彼の実家に置いて行ったので何も持って来ていないんです。だから新しく買い揃えないといけないですね。」

顔を見上げて上目遣いでこちらを見た。

「ふむ、何が必要かなぁ。俺は料理した事ないから考えた事もない。」

むしろ弁当でもいいような気がした。

「門ちゃん、絶対面倒くさがってるでしょ?わたしの花嫁修業のためにも自炊は必要なのです!」

どうやら安房は人の表情を読み取るのが上手のようだ。

「その件については明日一緒に考えましょ。あ、わたしの事は気にせずにご飯済ませてください。」

そう言って再びテーブルに顔を突っ伏した。しばらく寝たように動かなくなっていたが、そのうちに起き上がってテーブルに置いたスマホを拾い上げて触りだした。

「とりあえず晩飯を片付けてから考えるよ。」

安房にすら聞こえないくらいの小さな声でそう言って割り箸を割った。

いつもなら一人で食べていた食卓の向かいに安房がいる。何とも不思議な光景だ。

少し安房の方に目を配りコンビニ弁当を食べていたが、彼女はその視線を感じることなくスマホに夢中になっている。まるでこの部屋全体をすっかり自分の所有物にしているようでやけに落ち着いている。

食事を終え、安房が置き去りにしている空の容器と一緒にゴミ箱に捨てた。

「門ちゃんって割と清潔にしているんですね。男の人の部屋ってもっと汚いって思っていました。」

その行動にありがとうを言わない代わりに彼女が訊いてきた。

「普段は想像通りの汚さだと思うよ。今日から共同で使用するんだからある程度綺麗にしておかないとって思ったから早朝から掃除しといただけだよ。」

「トイレットペーパーの三角折りも普段はしていないんですか?」

悪戯そうな口調で訊かれた。

「昔、キャバ嬢に教えてもらった折り方を思い出しただけだよ。」

「わたしに気を遣ってくれているんですね。何か嬉しい。」

安房の言葉で耳が妙にむず痒くなった。聞こえなかったふりをしてそのまま風呂場へと向かった。

まだ水気の残る浴室を見ると、すでに共同生活は始まっているのだと実感する。

湯船にお湯を溜める事なくシャワーだけを浴びた。


風呂場から戻ると食卓に安房の姿はすでにいなかった。

歯を磨いた後、寝る前に安房の部屋をノックする。

「明日はどうする?」

「できれば調理器具を幾つか買いたい。予定がなかったら連れてって行って欲しいんですけど。」

ドア越しから安房からの返答があった。

「わかった。起きたら支度して行こう。おやすみ。」

「おやすみなさ~い。」

力の抜けた安房の返事を聞いて自分の部屋に戻る。自分しか立ち入らないこの部屋の風景はいつも通りだ。まさか、私が不在の間にこの部屋まで見る事はなかっただろう。特に疚しい物は置いてはいないが。

部屋の窓を閉め切っていたせいか昼間の熱が居座ったままで下着が汗ばむくらいの暑さだ。

半分ほど窓を開けて扇風機を回して換気をする。そして部屋の電気を消した。

早朝から動き回ったせいか、ひどく眠気に襲われた。安房が隣の部屋で寝ている事も忘れて布団に横になると泥のような眠りについていた。


日差しが身体に少し触れた頃、蝉の大合唱とともに目が覚めた。時刻はまだ5時半。予定していた起床時間よりだいぶ早く起きた。まだ鳴る前の目覚ましを消してトイレを済ます。安房はまだ起きていないようだ。

散歩がてらコンビニまで歩いて自分と安房の分のパンとペットボトルのコーヒーを買いに行く。いつもよりも少し重い程度のコンビニ袋以外はいつもの通り道だ。

安房の部屋の前でまだ彼女が起きていない気配を確認すると食卓のある部屋の椅子に腰かけた。テレビを付けると同時にネットニュースを眺めながら時間を潰す。

買ってきたコーヒーを余所に、思いついたように台所の棚に直していた小さなコーヒーメーカーを取り出した。安物の豆の賞味期限が切れていないのを確認すると、ポットの湯を沸かして久しぶりにコーヒーを煎れた。

ペットボトルでは到底真似の出来ない豆の風味が部屋に漂う。優雅な朝だな、と思いながらコーヒーを一口含む。

こんなゆっくりとした日曜日の朝も久しぶりのような気がする。

普段は前日に缶のアルコールを数本注ぎながらネットサーフィンをして夜更かしをする。とりわけ趣味らしい趣味もないまま無駄に時間を費やす事が多く、その影響で日曜日は遅くまで寝ていた。

今朝は蝉の大音量ってのもあるが、やはり誰かと一緒に過ごしていると自堕落な自分を見せたくない自尊心でも働いているのかも知れない。

蝉の音量に邪魔されないように窓を閉め切ってエアコンのスイッチを入れた。スマホから音楽アプリを取り出して適当にJAZZを流す。音楽に乗ってコーヒーの風味が部屋の中を歩き回った。その心地よい時間を楽しんだ。

それでも時間を持て余してしまっていたので食卓周りを掃除する。そのタイミングで安房が起きて来た。時間はすっかり8時を回った頃だ。

「おはようございま~す。」

水色のパジャマ姿の眼鏡をかけた女性が突っ立ている。お世辞にもお姫様のような風貌ではなく、寝起きの髪のまばらな眠り姫は目の前に職場の同僚がいる事すら気にも留めず、まるで実家に住んでいるような佇まいだ。

「おはよう。朝食を買ってきたから朝食の準備をする。だから先に顔を洗っておいでよ。」

「はぁ~い。」

自分の声に従うまま彼女は洗面所へと歩いて行った。

しばらくして、ノーメイクの安房が食卓に座った。まばらな髪はゴムバンドで後ろに束ね、眼鏡はコンタクトレンズに移し替えたようだ。

買ってきたパンをかじり、コーヒーをグビッと口に含む。

おしとやかな素振りは何ひとつないが、それがやけに心地よい光景だった。

簡単な朝食を終えた後、10時には海岸沿いのホームセンターへと出発することになった。


社宅から遠いホームセンターを選んだので、そこまでは車でおよそ1時間かかる。

今日も夏の日差しは遠慮なくその熱波をこれでもかってくらいに浴びせてくる。

車内のエアコンを最大限にしててもハンドルを持つ手からは汗が滲んでくる。

カーステレオからは安房がスマホからBluetoothを飛ばした今どきの唄が流れ込んでくる。歳の差を感じる。

その彼女は助手席でメイクをしている。まったく出発までの時間は部屋の中で何をしていたのだろうか。

「ねぇ、もし職場の人と遭遇したら門ちゃんはどうします?」

「え?」

コンパクトミラーを眺めながら安房が唐突に問いかけてきた。

「だから、これから行くホームセンターに職場の人がいたら門ちゃんはどうするの?」

同じ質問を重ねてきた。

少し上の空で考えてみたが、何も思い浮かばない。

「そこまで想定していなかったな。」

単純な質問だが、意外に重要なことだ。信号待ちのタイミングでもう一度考えてみた。

「そうだな......。安房の一人暮らしの準備を手伝っているとか言って適当に誤魔化すかな?」

左手の指で少し鼻尖を撫でながら答える。

昔、誰かに指摘されたのだが、私は何かを誤魔化すときに鼻尖を触る癖があるみたいだ。

「わたしだったら、天門さんと同棲する、って答えるな。」

「はぁ?」

「だって、その方が嘘っぽいでしょ?」

悪戯そうな口ぶりでルージュを引きながらこちらを向いた。その仕草がさっきまでノーメイクだった安房に少し色気を演出する。

なるほど、つい2時間前まで眠っていた割に頭が冴えているな。

「それに...」

「それに?」

安房の言葉を重ねた。その言葉に声で反応する。

「門ちゃんって嘘がヘタだと思う、たぶん。きっと無理に誤魔化すように振舞うだろうから余計に怪しまれますよ。」

「そうかもな。」

ハンドルが少し乱れる。確信を突かれた。下手に誤魔化そうとすると余計な事を口走ってしまうのが自分の悪いところであると自覚している。さっきのように鼻尖を触るのも誤魔化す癖のひとつだ。そのため、妻に何をしても見透かされる気がするので浮気すらした事がない。

もとい、安房が同居人として居る事は2日目だって事もあるので、まだバレていないと思うが。


ホームセンターに着くと安房が希望する生活必需品を買い揃えた。とは言っても調理器具がほとんどで余計な物は買わなかった。いや、興味本位で珪藻土のバスマットを買ってしまった。他意はないが何となく試してみたかった。

もちろん、ホームセンターで誰にも会わなかった。

帰りの道中、国道沿いのファミレスで簡単な昼食を済ます。このように過ごす休日はしばらくぶりなので悪くない。たまに自宅に帰る時はその休日の間は自宅でのんびりとしている時間が多い気がする。子どもたちは友達と出かける事がほとんどで、家族で出かける事も少ない。スーパーまで妻の買い物に付き合う程度だ。

安房とは恋人関係ではないのでホームセンターの通路を一緒に歩いていても一定の距離を保ったまま。恋人でもましてや妻でもない関係。敢えて言うなら、自分に妹が居たらこんな感じなのかな。

昼食を終えた後の車中はエアコンの送風の音とカーステレオから唄が流れてくる程度で、お互い話をする事もなく静かな空間だ。彼女は何度か大きなあくびをして退屈そうに窓の外を眺めている。

「眠たくなったらシートを倒して寝てていいよ。」

車酔いするからかスマホも触れず、手持ち無沙汰な安房を気遣う。

「大丈夫です。こうして知らない風景を眺めるのも好きなのです。」

「ちょっと混んでいるけど、あと30分もすれば到着すると思うよ。」

その一言を最後に再び車中は沈黙となった。次の信号待ちのタイミングで彼女の方を向くと目を瞑っているのが伺えた。

安房が眠りについたのを確認すると、私のスマホのミュージックリストに切り替えて彼女を起こしてしまわないよう注意を払って社宅への帰路につく。


社宅近くまで戻ったものの、日差しはまだピークの時間帯であり、外は呼吸がしづらいくらいに暑い。目を覚ました安房が夕方まで買い物に行きたいとの事だったので、一旦駅に寄って彼女を送った。

一人で社宅に戻り、荷物を2Fまで上げる。フライパンなどの調理器具を取り出し、念のため一度水洗いをして使える状態にしておいた。

部屋中にエアコンを効かせてソファに寝転がって本を読んできるうちに自分にも睡魔が襲い掛かり、少し眠りについた。

蝉の大合唱が少し和らいだ夕方に安房からの着信で目が醒めた。

「門ちゃん、帰れません。駅からどう歩いたらいいのですか?」

電話越しに安房の困った声が聞こえる。よく考えたら自分の足で社宅に来たわけではないから無理もないか。

「んあ?すぐに迎えに行くから少し駅前のコンビニで待っててくれないか。」

そう言って電話を切り、寝汗をかいたTシャツを着替えて支度をする。

エアコンは付けたまま部屋を後にし、車に乗り込んだ。

信号に何度も捕まらなければ、車で数分の場所に駅がある。

駅前のコンビニに到着すると安房を探す。けれど、彼女の姿が見当たらない。

反対側の出口のコンビニだと思い、そちらに周るが安房を見つけることが出来ず、路肩に車を停めて彼女に電話を鳴らす。

「着きました?」

もしもしすら言わずに電話越しで安房がつぶやく。

「着いたけど、どこのコンビニに居る?」

「東口出てすぐの場所ですよ。」

東口?嫌な予感がするので彼女に問いかけた。

「どこの駅で降りた?」

「東和田駅ですけど。」

予感が的中した。違う路線の駅だ。

「俺がさっき降ろしたのは私鉄の和田駅だよ。安房が乗って帰ってきたのはJRの方だな。」

「あれれ?そうでしたっけ?」

特に困った様子もない返事が返ってきた。東和田駅だと、ここから30分くらいの距離にある。慣れない土地だと仕方ないか。

「俺は安房の居る所から30分くらい離れた和田駅に居るから。これからそっちまで迎えに行くから待ってて。」

そう言って電話を切り、駅のロータリーを回って彼女の居る駅へと急いだ。

社宅は郊外と言えどそれなりの街なので東西それぞれにJRと私鉄が走っている。若干私鉄の方が社宅に近く、歩くには少し面倒な距離にJRの駅がある。

大きな国道を跨いで駅へと着いたが、休日の夕方は交通量が多く、予定よりも大幅に遅れて安房と合流した。

「ごめん、道が混んでて遅くなった。」

私にはまったく非はないのだが、安房に会うなりとりあえず運転席の窓越しで申し訳なく謝ってみせた。

「こちらの方こそごめんなさい。わたしが前住んでいたのがJR側だったから、ついそっちに乗っちゃいました。」

彼女は手荷物を片手に助手席に乗り込みながら頭を下げた。

「慣れない土地だから仕方ないよ。」

そう言って彼女がシートベルトをかけるのを確認すると、車を走らせた。

沈みゆく太陽を見送るかたちで社宅へと向かう。

国道に出る右折帯で足止めをくらったタイミングで切り出した。

「お腹空いてる?」

「そうですね。ちょうどいいくらいです。」

「この辺で晩飯でも済ますか?」

その言葉に安房は首を横に振った。

「大丈夫です。今日こそは晩ご飯を作るって決めてるんです。だから、門ちゃんも味見してください。」

「ああ、そうだった。俺はいつでも食べれるくらいだから、社宅で安房の手料理を楽しみにするよ。」

ようやく始まった同居生活だ。家主は自分が該当するのだが、せっかく安房が自炊を頑張ると言ったのだからその気持ちを優先させてあげよう。花嫁修業だ。

次の信号で停車すると、スマホを覗いていた安房が写真をこちらに見せてきた。

「これ、彼から届きました。」

彼女のスマホの画像からは場所の特定できない居酒屋らしき店内でカメラ目線でピースサインを送る男性の姿が。日焼けして肌は褐色で笑っている白い歯が浮き立っていた。無精髭が目立つ。きっと旅とやらに出てから髭を剃っていないのだろう。そして両脇には化粧の濃い女性2人がその男性を囲い、彼女たちも笑顔でピースサインを送っている。

「真ん中のは彼氏だよね?両脇の女性は知り合い?」

信号とスマホに交互に目線を移しながら彼女に尋ねた。

「はい、彼です。けど、この女の人たちは誰だかわかりません。」

少し不満げに安房は答える。

「俺だったらこんな写真が届いたら気分良くないなあ。」

彼女の表情に合わせたような返事をする。すると突然、安房が私に近づきスマホをフロントミラーのあたりにかざしてシャッター音を切った。

「わたしたちも撮ったので、これを彼に返信します。」

彼女の予想外な行動に慌てた。そして信号が青に変わる。

「いやいや、それはやめておこう。何か俺がトラブルに巻き込まれそうだ。」

車を発進させながら慌てて彼女に伝えた。その様を見た安房は少し笑みを浮かべた。

「冗談ですよ。門ちゃんならきっとそう言うと思いました。けど、この彼の写真はわざと女性と撮っているので疚しい事はないよ、のサインだと捉えています。だから別に怒っていません。」

彼女の感情は読み取りにくい。私が安房の彼と同じような写真を妻に送ると激怒されるのが目に見えている。それが出来る彼女たちはそれなりの信頼関係にあるのだろう。今の若いカップルの在り方なのかな、とも感じた。

「やっぱり気分は良くないなあ。でも、わたしもいま男性と車の中で過ごしているからイーブンですね。」

安房がぼそっと呟いていたが聞こえないふりをした。そうしているうちに社宅の屋根が見えてきた。

社宅の前で先に安房を降ろして鍵を渡す。そして車庫入れをした後に部屋へと入った。

エアコンを付けっ放しにしていたので室温がちょうど心地よい。

安房は冷蔵庫を開けて昨日買っておいた食材を取り出して料理の支度を始めた。

自分は彼女の邪魔にならないように部屋を後にした。

「出来上がったら教えて。それまで先に風呂でも入ってるから。」

「わかりました。」

少し真剣そうな声で彼女が返事をする。その声を見届けて浴室へと向かう。


洗面台で髪にドライヤーを当てているタイミングで安房が出来ました、と呼んできた。

その声で慌てて部屋着を着用して食卓へと向かう。

安房がこの部屋で最初に作った手料理はミートパスタとサラダ。テーブルに2人分が添えられている。これといった飾りはないものの、出来上がりのパスタからはトマトとバジルの香ばしい香りが漂う。

「100点満点中、50点くらいだけど食べてください。」

「ああ、いただきます。」

手を合わせてフォークでパスタを絡めとる。そして口に運ぶ。

自己採点の50点は過小評価しすぎで味はすこぶる美味しく、若い人の手料理って気がした。

妻が私に対して初めての手料理もミートパスタだった事を思い出した。しかもケチャップを買い忘れた妻はマンションの下の自販機でトマトジュースを代用していたため、ひどく味の薄いミートパスタだった。そんな思いでもすでに笑い話となり、たまに自宅で妻と思い出しては声をあげて笑っていた。

パスタを一口、そしてもう一口と口へ運びながら自分の昔話を懐かしんだ。

ドレッシングで丁寧に味付けのされたサラダを口いっぱいに頬張り、食事を終えた。

「ご馳走様でした。50点と言ってた割にとても美味しかった。合格点だよ。」

素直な気持ちでの評価だった。席を立ち、お皿をシンクのところへと持って行く。

「嬉しいです。いつも彼に作っているパスタですが、違う人に作ると何だか恥ずかしいですね。」

「彼氏に50点の料理を出しているの?」

少し皮肉って返した。

「彼にとっては100点だと思っていますが、恥ずかしいので50点って言ってみただけ!」

まだ食べ終わっていない彼女はパスタを頬張りながら言い返してきた。

「だろうね。遠慮がちなのは安房らしくないよ。」

「あ、お皿置いててください。食べ終わったらわたしが洗いますから。」

私の言葉を聞こえていないのか、照れ隠しなのか彼女は洗い物をしようとする私の行動を制した。

「洗い物くらいはするよ。自宅では俺が洗い物の当番なんだ。だから安房が食べた皿とかも一緒に洗うからシンクの脇に置いてていいよ。」

「ありがとうございます。」

しばらくして彼女は食べ終わった皿をシンクの脇まで運んできた。

「男の人が洗い物をしてる姿、初めて見ました。不思議な光景ですね。」

「彼はやらないの?」

「家事全般はすべてわたしが担当していました。」

さも当たり前のように言い返してきた。

「あ、でも俺も妻と同棲している間は何もしかなったよ。結婚してから子どもができたくらいから手伝うようになったからね。」

「わたし、別に彼に手伝うとかは期待してませんけど、いつかはそうなるのかな?」

私の横に立って遠い目をする安房がいた。さっき見せてもらった無精髭の彼と将来の事を考えているのだろうか。

「どうだろう。夫婦ってパートナーだから、きっと結婚すればそうなると思うけどね。」

その言葉に対して彼女は答えることなく、お風呂使います、と言って浴室へと向かって行った。当たり前なのだが初めてこの社宅で皿洗いをしていたので、安房の言葉を借りるとそんな自分が不思議な光景に思えた。


しばらくしてから寝る準備の出来た安房とテーブルを挟んで、これからの事について話し合った。約束は主に3つ。

先ず、喫煙所で最初に約束した事の繰り返しとなるが、やはりバレないように過ごす事。それぞれの身内にはもちろん、会社の中においても絶対にバレてはいけない。疚しさがなくてもいい話に発展するはずがない。ましてや、社宅という会社から与えられた空間である以上、私もすでに会社のルールを守れていない事になるが、バレてしまうと自分以上に安房も会社に居れなくなるだろう。

そのついでに伝えたのが、バレないためにはこの社宅に誰も連れ込まない事を約束した。もし安房が彼氏を連れてきたら、と思うときっと自分に危害が及ぶだろう。その逆も然りだ。

次に、家事全般は安房が担う。その代わり、食費や光熱費など出費に関しては私がすべて支払うことにした。外食するよりも全然安くつくので、定期的に彼女に1万円を渡して買物代として使ってもらう事にした。レシートとかはいちいち確認するつもりはないので、そこは単に信用しているつもり。

最後は、お互いのプライベート空間には立ち入らない事。恋人でない二人はあくまでも他人同士。食卓のあるリビング、風呂場とトイレのある浴室以外はそれぞれが立ち入り禁止とした。勿論、どちらかが浴室に居る場合は立ち入らない約束をしたので、実際にお互いが自由に出入りできる部屋はリビングのみとなる。これは特に厳守。

ひと通り3つの約束を安房と交わした。彼女はそれについて妙に嬉しそうな表情をしていた。その表情に敢えて彼女に問う事はなかった。

浮気でも不倫でもない只の同居生活なのだが、そこにはスリルが伴う。しかもポジティブなスリル。失敗すれば色んな物を失うのだろうが、成功し続ける限り、退屈な日常から逃れられるような日々が過ごせそうだ。

それがきっと安房の表情の答えだと思っている。


真夜中を回る前にそれぞれの部屋に戻り、朝を迎えた。時間は早朝の5時。

夏の夜明けは早く、窓から差し込む陽と蝉の大合唱で布団から追い出された。

トイレを済ませて顔を洗っていると洗濯機がすでに回っていることに気づいた。夕べのうちに安房がタイマーでもかけていたんだろう。

昨日は何も考えずに風呂に入る前に服をすべて洗濯槽に投げ込んだのだが、ちゃんと私の下着もまとめて洗ってくれているようだ。気にする必要はないとは思うが、彼女が私の分まで洗濯物を干す仕草を想像すると何だかムズ痒い。

そんな事を考えているうちに安房が起きてきた。昨日とは違い自分と大差のない、早いお目覚めだ。

「おはよう。」

猫背気味でトイレに入ろうとする安房に声をかけた。

「おはようございまぁす。」

彼女は頼りない応答でそのままトイレに入った。鍵もかけずに。

何だか悪い気がしたので、浴室を後にして朝食の準備を行う。ほどなくして浴室の方からシャワーの音が聞こえてきた。朝食を食べ終えたら彼女と入れ替えでシャワーでも浴びよう。

早々と朝食を終え、安房の分の食パンを皿に乗せてコーヒーを飲みながら彼女が出てくるのを待つ。しばらくして、さっきよりかは目の醒めたような表情をした彼女が入ってきた。安房の食べる食パンをオーブンに移して、入れ替わりで浴室へと向かう。

自分自身、安房が近くでウロウロしている意外はいつも通りの平日の朝だ。仕事前の慌しさもなく、それにお互いが特に気を遣う事もなくスムーズに距離感を保っているような行動がやけに可笑しい。まるで何年も前から一緒に住んでいた関係のようだ。

お互いのテンポが合うから同居生活が成り立っているのか、それとも安房も彼女なりにこちらの動きに合わせていてくれているのか。シャワーを浴びながらつい先ほどまでの数分の事を思い返していた。

風呂から上がり、下着だけ身に着けてドライヤーで髪を乾かしながら頭をセットする。そのタイミングでノックと共に安房が浴室に入ってきた。すでに洗い終わりの洗濯物を取り込みに来たようだが、私が下着だけの姿である事に目もくれず、淡々と自分の役割をこなす。

「食べ終わった皿の洗い物は俺がやっとくよ。」

一旦、ドライヤーを止めて安房に伝える。

「あ、ついでにやっときましたよ。」

「お、ありがとう。」

そのまま洗濯カゴを持ち上げてベランダの方へと行ってしまった。いつも出社してくるタイミングはギリギリだから朝が弱いのかな、と思っていたけど、この決して広くもない社宅の中をテキパキと歩き回る彼女の動きを見ているとそうでもないようだ。

きっと彼氏と住んでいた頃からの彼女の習慣なんだろう。

その分、自分が毎朝していた雑務がなくなってしまったので出社までの時間、掃除機をかけて時間を潰す。けれど自宅にいる時はそんな事すらしなかったので、何となく新鮮な気持ちになる。

それでもまだ出社まで時間は余っているが早めに出る事にした。社宅を出る前に安房の部屋をノックしてドア越しで彼女に声をかけた。

「安房、先に出社するから。合鍵は玄関の棚の上に置いておくよ。」

「わかりましたぁ。」

「安房はどうするの?」

「わたしは、もうしばらくゴロゴロしてから自転車で行きますぅ。」

「会社まで場所は大丈夫?」

「はい、たぶん大丈夫ですぅ。たぶん。行ってらっしゃいませぇ。」

力の抜けた返事をする彼女と簡単に会話を済ませ、階段を下りて玄関を出た。玄関の真上が安房が同居している部屋だが、玄関から上を見上げても中の様子は分からない。まだ社宅にもう一人いる事は一旦気に留めない様にして車を走らせた。


いつも通りの道、いつも通りの交差点を数回潜り抜けて会社にたどり着く。

大体は私が一番手の出社なので、カードをかざしてセキュリティを解錠する。真っ暗な事務所の電気を付けて自分の机に向かいパソコンを立ち上げる。

その合間にコーヒーメーカーを沸かし、一旦外に出て喫煙所で電子タバコを吸う。

いつも通りの喫煙所から見える景色。ここまでが毎日のルーティンである。ただ今朝からこれまでの朝と違っていたのは安房とともに朝の支度をしていた事。何も代わり映えしない景色を見ていると何だか夢見心地な気分だ。

タバコを吸い終えて事務所に戻ってからようやく誰かしら出社してくる。

おはようの挨拶と共にパソコンと睨めっこをしながら先ほど沸かしておいたコーヒーを口に含む。朝礼までのいつも通りのルーティンだ。

周りがガヤガヤし出したタイミングで遠くの方で安房の声が聞こえた。どうやら自転車で迷わずに会社まで辿り着いたようだ。

始業時間とともに所長の席の周りにぞろぞろと集まって朝礼を行う。意識しているわけではないが、対面に居る安房を見ないようにした。


そして、朝以外はいつも通りの日常が過ぎていった。

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