同居人
心の扉
第1話 同居人という言葉が当てはまる
茹だる暑さだ。
頭皮から噴き出す汗がもみあげを伝って首筋へと流れて行く。
太陽は南のいちばん高い位置から少し西へと移動し始めた時間帯だ。
それでもこの季節の太陽は照りつける角度が高くて日陰が僅かな隙間しかない。
その僅かな日陰に身体の半分だけを避難し、少し残ったペットボトルの水を飲み干して電子タバコの加熱ボタンを押して安房(あわの)を待つ。
7月に入ったばかりで気温はさほど高くはない。しかし先日から暦に合わせて地面から這い出てきた蝉たちが一斉に鳴き始めたせいで余計に暑く感じてしまう。
コンビニの植木、周りの街路樹など、目に映るすべての木々を縄張りにしている蝉たちは生命尽きるまで鳴き続けているようだ。
数本目のタバコを吸い終えると、程なくして1台の〈わ〉ナンバーの白い軽トラックがコンビニの駐車場に入ってきた。
停車した軽トラックから世界的に有名な鼠のキャラクターがプリントされた白いTシャツに七分丈のジーンズを履いた若い女性が降りてきた。
「門ちゃん、お疲れ様です。」
安房だ。予定時刻より20分ほど遅れての到着だった。
「ああ、お疲れ様。待っているだけで暑くてアスファルトごと足元から溶けそうだったわ。」
彼女と会う時にはいつも語りかけるような軽い皮肉を交えて挨拶を交わす。
「ごめんなさい。荷物がなかなか固定できなくて時間がかかっちゃって。」
ぺこりと軽く頭を下げた彼女は急いでいたのか少し息づかいが荒く、額が汗ばんでいた。
「冗談だよ。いつも通りの挨拶だと思っててよ。」
そう言いながら彼女が苦戦しながら結んだであろう荷台のロープに手をかけてみた。素人目で見てもだいぶ撓んでいるのが分かる。
なるほど、これを固定するのに時間がかかったというわけか。それにしても僅か数百メートルの距離とはいえ、よく荷崩れせずにここまで来たものだ。
少し熱のこもったロープを一旦解いて、荷造り用の玉掛けをしてしっかりと補強してあげた。
「ところで、荷物はこれだけ?」
「はい、これでも多いかなって。服が納まるタンスさえあれば充分ですよ。」
彼女の荷物は軽トラックの荷台でも充分に詰める程度のものだった。
「あ、何か飲みますか?買ってきますよ。」
「いいよ、さっきまで水飲んでたから。ここにいても何だし、すぐに出発しようか。」
手で風を仰ぐような仕草を見せて、汗で張り付いたTシャツを少し引っ張った。
「そうですね。じゃあ助手席に乗ってください。」
軽トラックなので少し狭くは感じたが、空調が効いていたので快適だ。身体中に滲んだ汗が一気に冷える。
『ガクンッ』
バックをしていた彼女がブレーキを踏むと凄いノッキングがした。
そして、ギヤをドライブに切り替えて車道へと向かうも『ガクンッ』と急発進で再びノッキングする。
「運転慣れていなさそうだね。俺と代わろうか?」
停車するたびにノッキングされてはたまらない。社宅まで辿り着けるのかも凄く不安だ。あの程度のロープの固定にこの運転、よく荷崩れもせずに数百メートルの距離を走ってこれたものだ、と心の中で皮肉を込めた。
「ごめんなさい。滅多に運転しないから車に慣れてないんです。」
少しあわわと口を開けた安房が頷きながら返事をする。
車道に出る手前で私と運転を代わり、この場所から数十km離れた目的地へと向かう。
ゆっくりと走り出した軽トラックの社内からはラジオのFMから聴いたこともない洋楽が流れている。
その程よいボリュームとリズムがごみごみとした街の雑音をかき消してくれている。
おかげで蝉の声もすっかり気にならなくなった。
軽トラックはやがて交通量の多い産業道路を抜けて南北を貫くバイパスへと乗り込む。
決して追いつけない太陽を追いかけるように軽トラックは南下していく。
助手席に座る安房にほんの少し目を配り、その窓の向こうに視界を向けた。
遠くに見えた東の山々の向こう側には入道雲が広がる。
学生の頃に積乱雲と入道雲の違いが判らなかった事を思い出しながら、再び視界を前方に戻す。
一気に気温の上がった7月初旬の土曜日。夏の始まりを合図に待ちわびて行楽地へと急ぐ若者の車列が追越車線を颯爽と駆けて行く。
軽トラックもその若者たちに負けじと小さなエンジンを唸らせながら後に続く。
車内は快適な温度で過ごせている。次々と流れてくる音楽に無意識で適当に鼻唄を合わせる。
スピードを上げるとエンジン音にラジオがかき消されてしまう。左手でボリュームをつまみラジオの音量を上げる。
再び安房に目を向けると、助手席の安房はドアに手をかけて退屈そうに東の空を見ていた。
「ちょっとタバコ吸っていい?」
出発してからの数十分の沈黙が解けた。
「じゃあ、わたしも吸う。」
安房がそう返すと、まるで示し合わせたかのようにお互いの窓についているレグレーターハンドルを3回転ほど回して窓を開けた。
スピードに乗った軽トラックの空いた窓は頼りなさそうに風を受けて大きくビビッていた。
少しスピードを緩めて電子タバコのスイッチを入れた。
そうして少し吸い始めた時に安房が口を開いた。
「門ちゃんが手伝いに来てくれなかったから、荷物降ろすのに時間がかかったんですよね。」
こちらに目を向ける事なく煙とともに言葉を吐いた安房が呟く。
「それは...事前に約束した事だろ?手伝いに行くとバツが悪いから近くのコンビニで待ってるって。」
安房に目を向けたが、彼女は前を向いたままだ。
「あ~あ、お母さんと女手二人でタンスをマンションから降ろすの大変だったなぁ。」
待ち合わせた時に自分が安房に皮肉を言ってしまったからなのか、今度は彼女が皮肉で返す。
「彼氏が手伝える日に合わせた方がよかったんじゃないの?」
「それも考えたんですけどね。でも彼は先月に仕事辞めたあとにしばらく貯めたお金であちこち旅したいって言いだしたんです。今は北の方にいる筈ですが、いつ帰って来るのか本人も決めてないから予定すら合わせられないんです。」
安房はふうっとため息の様に煙を吐く。
「付いて行きたいとかは思わなかったの?」
「わたしたち金銭的に余裕があるわけでもないので、そんな道楽に合わせるつもりはないです。」
「それに彼は仕事を辞めるまでは酷く疲れていたんです。だから、しばらく自由にさせてあげたくて。」
彼女は助手席の窓に顔を向けた。きっとどこかで旅をしている彼を想っているのだろう。
「寂しさもあり、思いやりもあって何かいい話だな。」
そう呟いて半月前に安房と交わした時の話を思い返していた。
「少し足が張っているみたい。明日は筋肉痛ね。せっかくの連休なのに今日は重労働、明日はきっと寝込んでいるのね。」
こちらの言葉に返事をするつもりもなく、彼女はジーンズの先から伸びるふくらはぎを睨みながら手で摘まんでいる。
せっかくの休日...それはこっちの台詞だろうが、と喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「わかったよ。社宅に着いたら真っ先にこっちで寝具を放り込むから、しばらく休んでろよ。」
その言葉に対しても安房は返事を返す事なく、ふくらはぎを摘まんだまま口角を少し上げて窓の方を向き直した。
軽トラックはやがてバイパスの側道に入り、社宅のある市道に差し掛かった。
ラジオからは交通情報が流れている。海に近いところでは事故による渋滞が発生しているみたいだ。とりあえず、この情報は今の自分たちにとっては無縁な情報だった。
再びヒットチャートが流れ始めた頃、軽トラックは淡いベージュの壁とオズの魔法使いを思わせるような鮮やかなエメラルドグリーンに覆われた屋根の社宅へと到着する。
太陽光が反射するその屋根の向こうに目を向けると、すぐにでも荷物を降ろさなければと思った。
海がある西の空からも入道雲が立ち込めてきた。
まずは荷台のロープをほどいて寝具を取り出す。安房に玄関のドアを開放してもらい、寝具を抱えて玄関に入りそのまま階段を駆け上がって彼女が使用する部屋へと置いた。昨日までこの布団で寝ていたのか、ほんのりと女性特有の安房のであろう甘い香りが漂った。
その匂いを嗅いだと同時に半年前に安房と交わした約束を思い出して、自分の頭を軽く小突いた。『約束したからな』と自分に言い聞かせる。
「安房、あとは俺が運ぶから部屋で休んでなよ。」
そう伝えると、無言で玄関のドアから手を離した彼女は、玄関先で丁寧に靴を揃えてから小躍りをするように階段を昇って行った。
あとの荷物も何とか一人で抱えて運べそうな空のタンスと2人がけのソファ、そして衣装ケースが4つと何が入っているのかよくわからない段ボールが2つ。これくらいで筋肉痛になるのが不思議なくらいの少ない荷物を彼女の部屋へと運び上げる。
さすがに階段を何往復もすると身体中から汗が噴き出してきた。
社宅は玄関に入ると階段があり、フロア自体はすべて2Fになるタイプのメゾネット。
外とつながる玄関が遠い位置にあるので個人的には住みやすい造りではあるが、このように荷物を運ぶには面倒に感じる時もある。
荷物を運び終えると自分の部屋でTシャツを着替えて、隣の部屋の冷蔵庫に入れていたペットボトルのお茶を一気に飲み干した。
そうした後、空になった軽トラックを社宅の空いている駐車スペースへと一旦逃がす。ロープを束ねているタイミングで大きな雨粒が頭上に落ちてきた。タッチの差で荷物運びを終えた自分に安堵する。
ほんの数秒だけ雨に打たれ再び社宅に入る。
「部屋入るよ。」
と言いながら開けっ放しの安房の部屋に入る。彼女はタンスとソファだけは定位置に陣取ったものの、衣装ケースなどは適当に置いたままにしている。そして安房はソファに寝転がってスマホをいじっていた。
「整理はしないのか?」
「待って。お母さんと彼氏にメールを送っているんです。」
すっかり自分の部屋みたいな振る舞いでくつろいでいた。こちらの方を見向きもしせずにスマホと睨めっこをしている。
「軽トラックの鍵は玄関にかけてるから。」
安房はこちらを向いて軽くおじぎをした。
「ところで車はいつ返すの?」
その言葉に安房の手は止まり、目を大きく見開いた。
触っていたスマホを伏せて身を乗り出した。
「まったく考えていませんでした。」
ほぇ?と声にならない驚きの声が喉から漏れた。
「そういえば今日中に返す予定にはしていました。だけど持って行って返すなんて全く考えていませんでした。困りましたね。」
本人にとっては真面目な返答なのだろうが、何となくどこかわざとらしさも見える。
「え~っと...この距離を走るとなると安房が運転するのもアレだし、俺が返しに走った方が良さそうだな。」
何だか安房が書いた台本を読まされている気分だ。少々面倒くさそうに安房に伝える。確かに返した後は電車移動となるので面倒くさい。
「だから君はそれまでに部屋を整理してりゃいい。」
その言葉に彼女はさらに目を見開く。
「返しに行ってくれるのですか?ありがとうございます。」
彼女は深々と頭を下げた。どこかわざとらしい。
「軽トラックは駅前のレンタカー屋さんで借りました。ガソリン代は後で返します。」
ここまでが安房が用意した台本みたいだ。それでも憎さを感じないのは安房の人柄なのかも知れない。
軽く一服をしてから少し夕立が止んだタイミングで軽トラックを返しに行く事にした。
玄関から出る際に大きな声で部屋に居る安房に向けて声をかけた。
「合鍵は用意したから、玄関にかけとく。買い物とか出るんなら戸締りをちゃんとするように。」
「はぁ~い。」
遠く小さな声で安房が返事を返した。まるで父親と娘との会話みたいだ。
すっかり夕方に差し掛かっているはずだが、夏の夕方は明るい。雨雲が通り過ぎた向こう側には晴れ間が見える。
今度は来た道をひとりで走る事となる。さっきまでは安房とそれなりに会話を交わしながらの時間を過ごしていたが、ひとりとなるとやけに寂しさを感じる。
むしろ、昨日までの仕事以外の時間ではひとりで過ごす時間がほとんどだった。
それが寂しく思うのは、今日という日に自分が数時間で順応したからなのだろう。
バイパスを北上するころには夕立もすっかり上がっていて、車両もまばらだったので快適に走れた。昼間に走っていた若者たちはまだ海で泳いでいるのだろうか。
話す相手もいない車内は酷く退屈ではあったが、行きと同様にラジオから流れる洋楽がそれを紛らわしてくれていた。
途中のスタンドでガソリンを満タンにしてレンタカー屋に軽トラックを返却する。
すっかり日が暮れてしまった駅前に着くと、その光景は昼間に見たそれとは違って見えた。
この辺りも夕立にあったようで雨の匂いと生ぬるい風がこの身を纏う。
まだ渇ききっていない駅前のネオンは幻想的で滲んだ光を描いている。
高架に位置するホームから見える閑静な住宅街は安房が学生の頃まで住んでいたあたりなのかな。その街並みはどこか懐かしくて好きな風景だった。
まだ時間に余裕がありそうなので電車を数本遅らせるまで眺めていた。
帰りの電車の中では安房に対する今後の事を考えていたが、深く考えてもそのほとんどが結論には至らず、暇潰しの禅問答みたいなものにしか過ぎなかった。
唯一結論に至ったことは、安房は同居人と呼ぶのがふさわしいという事だけだった。
期限は設けていないが、しばらくは安房と一緒に過ごす事となる。
しかし私にとって彼女は恋人同士ではないから同棲とは言えない。だから同居人という言葉が当てはまるのだろう。
そう考えているうちに無意識に彼女の布団の香りが鼻の奥から漂ってきた。
その香りを頼りに安房が社宅に越してくる先月の事を思い返した。
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少し蒸し暑い梅雨入りのした季節。雨の日は半袖のシャツが少し肌寒く感じた。
仕事が一区切りついたので、いつものように喫煙所へと向かった。
他部署の連中たちが休憩を終えてからの入れ替わりで喫煙所に入る。
先ほどの連中たちが座っていたまだ生暖かいベンチに腰掛けて、ポケットの中にしまっていた電子タバコを取り出す。
そうすると、ほどなくして喫煙所に安房が入ってきた。
彼女もポーチから同じ電子タバコを取り出した。
寄り目がちに加熱中ランプを見つめたあと、こちらの方を向いて安房が切り出した。
「門ちゃん、あのね。わたしの彼氏、今月いっぱいで仕事辞めるんです。」
(門ちゃん)
そう言えば、安房が入社した初日に初めて会った際、首からぶら下げているネームプレートを見て、私の苗字である天門(あまど)を『てんもん』と呼んだ。
なるほど読みづらい苗字なので間違えるのは仕方がない。だけど安房は負けず嫌いな性分なのか、訂正をして呼び直すわけでもなく、口を尖らして少し頬を赤らめてネームプレートを睨みつけていた。
それ以来、彼女とは主に喫煙所を通じて会話を重ねるようになり、いつの間にやら門ちゃん(もんちゃん)と親しみを込めて呼ばれるようになった。
最初は『今どきの子の特色なのかな』と戸惑いはしたものの、このひと回り以上離れた大人相手に『ちゃん』付けで呼ぶ人も珍しいな、と思い、悪い気はしなかった。
「それで今一緒に住んでいる部屋が彼の社宅なので、今月末で追い出されるのです。」
と、こちらがうわの空でいるのを余所に安房が話を続けた。
2年くらい付き合っている彼氏がいる、その彼氏と同棲をしているという程度の事はしばらく前に安房から聞いていた情報である。
「それは災難だね。早く次の部屋を見つけないと住む場所がなくなるって事だよね?」
おおよそ当たり障りのない返答をする。
「それもそうですけど。彼、しばらくは実家に帰るって決めているみたいです。」
そういうと彼女は煙を吐いて軽いため息をつく。
「すぐに転職をするつもりはなくて、多少ゆっくりできる時間が欲しいらしくて。」
安房の彼氏が何歳なのかは知らないが、何年も働き詰めだったらしばらく休む選択肢も悪くない。あまり時間が空くと今度は退屈が待っているかも知れない。私は転職の経験がないからまともなアドバイスはできないけど、きっと同じ思いになると思う。
「それがあるから、わたしともしばらく同棲はしないつもりなのです。」
その言葉は彼に対する寂しさが読み取れた気がした。
「だったら安房も安房の実家に帰ってそこから通う。それか、早く不動産屋で次の場所見つけて一人暮らしを始めるかだよな。」
いつもの会話のように相槌を打つ。安房はその言葉にかぶりを振って返した。
「わたし怖がりだから一人暮らしをした事がないのです。学生の頃も実家から2時間近く電車に乗って大学に通っていたのです。でも今の職場で実家通いとなると、電車の乗り継ぎを考えると2時間以上かかるので、さすがに遠いですね。」
言わずとも彼女なりに様々なシチュエーションを想像していたみたいだ。
「だったらわたしも仕事を辞めて実家の近所で新しく仕事を探そうかな、って考えたりもしています。」
ここで初めて彼女の口から『辞める』という言葉が飛び出した。
突然の一言はいつも不意を突かれる。ほんの少しだけ沈黙が生じたが、脳内で言葉を選びながら安房に語りかける。
「辞める事に関しては俺が止める権利はないけどね。でも、せっかく経験積んだのに勿体ない気がする。」
離職を考えている人にはいつもこの言葉をかけている。それとなく仲が良くなった人が去るのは心惜しいが、結局は本人が決める事なので無理に引き留める事はしないようにしている。
「実家の近くに拠点があるので転勤ができたら続けられますよね。」
「でも、それが難しいって事は安房が一番分かっている事だろ?」
彼女の言葉を遮るように現実的な意見を言った。
「はい、派遣社員ですから。」
安房はそれ以上何も重ねずに口を紡いだ。今度は長い沈黙が生まれた。
彼女は2年前の12月に派遣社員として入社してきた。年の瀬の繁忙期だったにも関わらず、呑み込みがよく、仕事が早くて部署関係なく難しいこともこなしてくれていた。
誰とでも隔たりなく話のできる人柄もあって誰からも重宝されていた。
2年目に入るともうすっかり正社員のような扱いだったが、彼女はあくまでも派遣社員。
てきぱきとこなしてくれていたので、私たちも違う部署ながら彼女に依存していた仕事もあったのだが、直属の課長から言われた言葉として、予め決めておいた実務以外をするとなれば派遣法に触れる可能性があるのでお願いしない様に、と釘をさされた。
もともとは手を持て余していた安房の方からこちらの仕事を手伝ってくれていたわけだが、組織としてのルールに従わなくてはならない事が心惜しかった。
我が部署にも新たに別の派遣社員が投入された事もあって、ここ最近はほとんど安房に手伝ってもらう事もなく、会話をする機会と言えば、この喫煙所での時間くらいになってしまっていた。
その割には安房と同じ時間帯で休憩をする事が多く、不思議と別の誰かと安房を交えて居る事もなくなったようだ。
意図的なのか偶然なのかはわからない。
いつも同じ時間帯に喫煙所に居るからっていつも話をしているわけでもない。
イヤホンを耳にさして音楽を聴きながら少し摺り足気味に歩いて来て、まるでこちらに気づいてないように何も言わず、喫煙が終わると背を向けて戻っていく事もある。
かと思えば、急に『門ちゃん、見て見て』と彼女が公開しているSNSを見せびらかしてきたり、休日に友達や彼氏と食べに行ったお店の紹介をしてくれたりと、マイペースな振る舞いを見せる。
休憩時など普段の彼女が話す口調は穏やかに力の抜けたような声で話をしているが、いざ机に座るとそれまでの倍の口調で客との電話に応対しているのを見るとオンオフの使い分けの上手い人である。
その安房が辞めるとなると、彼女の居るチームの負担は大きくなるだろう。
チームは違えど彼女の仕事ぶりを知っている自分の立場としても、また個人的な理由としても喫煙所で気兼ねなく話をしてくれる人がいなくなるのは淋しい気持ちでもある。
彼女が口を紡いでから数秒なのか数分なのかは分からないが、改めて安房という人柄の棚卸ができたくらいの沈黙の時間を過ごした。
その沈黙を振り払いたくて、無理に口火を切った。
「もし辞めずに続けるつもりなら、この会社の近所でルームシェアをしてくれる人を探すしかないのかな?」
何とか策を、と無い脳味噌をフル稼働して導き出した台詞は、ひどくアドリブに乏しい一言だった。情けない。
「友達はこの辺りに住んでいないから難しいかも。」
声のトーンで彼女が白けているのがよく伝わった。本当に情けない。
「それに、友達とルームシェアって意外と難しいんですよ。彼氏には我慢できても友達同士だったら遠慮なく言ってしまう事もあるから大抵は喧嘩別れして出ていくのがオチですよね。」
彼女が矢継ぎ早に言葉を重ねてきた。
「門ちゃんの口からルームシェアって出てくるのは意外ですね。自分じゃ絶対にしなさそうな事を人に提案するのって何も考えてないのかしら、って少し笑えました。」
ひと回り以上の年下に馬鹿にされているような言葉を投げられると少し気分が悪い。それに図星なのが悔しい。確かに腐れ縁のような友人たちとルームシェアなんて考えたら毎日喧嘩でもしてると思う。
「ルームシェアはした事がないけど、俺も同棲は妻と結婚する前にしてたんだ。」
「恋人同士ってというよりも、異性と暮らす事ってお互いに踏み入れない事情みたいなのがあるからかしら。何となく上手く過ごせますよね。」
話は脱線気味だが、彼女に笑顔が戻ったようだ。引っ越しをしなきゃならないだとか、仕事が続けられないから辞めるだとか、現実はそう簡単な状況ではないが、とりあえず今はネガティブな事を忘れて穏やかに笑えていればいい。それが安房らしさでもあるのだから。
ふと、再びアドリブのない下らない事を思い付いた。
それを口に出そうか躊躇はしたが、いつもの冗談で済む程度の事だろうと安易に思い付いたまま提案してみた。
「それだったらいっその事、俺の社宅に空き部屋があるからそこに住んだら?」
吸い終えた電子タバコを充電器に刺しながら思いついた言葉のままに冗談を言ってみた。
その言葉に目を丸くした安房は少し顔を下げた。何か突っ込みどころを考えているのだろう。そして間もなく閃いたように顔を上げた。
「あ、そっか。それもありですね。」
いつもの流れなら、冗談はやめてください、と言ったような返答をされるはずが、目を丸くしたままの安房からは意外な返事が返ってきた。
いや、それも何か面白可笑しくオチに結び付けるための振りなのかもしれない。
様々な因果関係を考えたら一番現実味のない話だ。
少し妙な空気を感じたので、もう1本吸おうとしたのをやめてタバコをポケットにしまい込んで、喫煙所を後にしようとした。
こちらが安房に背を向けた際に、彼女が口を開いた。
「その話、明日まで考えさせてもらっても大丈夫ですか?」
どこまで冗談を引っ張るつもりなのか。それとも割と真剣に考えているのだろうか。少し安房の方を向いたが、その表情からは真意を汲むことが出来ない。
仕方なく冗談をもう少し合わせる事にした。
「うん、返答はいつでもいい。社宅は無駄に広く提供されているから空き部屋に住むには十分は広さだけど、俺も妻子がいるし、君も彼氏がいるだろ?とてもじゃないけど、現実的じゃないから話半分程度でいいよ。」
と、バツが悪そうに頭を掻きながらそのまま安房の反応を確認する事もなく喫煙所を出て行った。
家族以外の誰かと住むのは苦手だ。けど安房が言ったように異性と暮らすのは友人と暮らすよりかは幾分ましな気がする。勿論、下心を除いての話ではあるが。
昼間との安房の会話が頭から離れず、その日は何をするにも集中力がなかったので早めに退社して日課としている妻にメールするのも忘れて眠りについた。
翌朝、朝礼を済ませた後にデスクに戻ろうとすると、安房が近づいてきて小さな声で自分を呼んだ。
「天門さん、あとで喫煙所に行きませんか?」
安房は周りに人がいる場合は私の事を絶対に門ちゃんとは言わない。そりゃそうだ。歳の離れた恋人でもない男女があだ名で呼ぶと変な噂が広まる。
学生を卒業して社会人として5年目くらいとなれば、彼女もそこの分別はしっかりとできているようだ。
少し立て込んでいたため、遅れて喫煙所に向かった。すでに待っていた安房は退屈そうに座っていた。
「昨日の話なのですが、わたし決めました。」
「会社辞めるの?」
とっさに思い付いた言葉を考えるまでもなく口に出してしまっていた。一旦飲み込んでから話す事のできない自分の悪い癖だ。
「いえ、会社は辞めずに続けることにします。だから門ちゃんの社宅にお世話になります。」
ご丁寧に膝に手を当ててお辞儀をする彼女。まだ冗談である事を楽しんでいるのか。
「どこまでが冗談なの?」
もうコントは終わりにしよう。もう自分にはこれ以上アドリブが効かない。
「本気ですよ。」
タバコを咥えようとしたものの開いた口が塞がらなかった。
「今の仕事結構好きなので続けたいのです。」
彼女が言い分を重ねてきた。別々の部屋とはいえ、恋人同士でもなく、ましてや妻子持ちの男と彼氏持ちの女が、それに同じ会社の同僚に過ぎない男女が同棲を始めるのには何かと弊害が生じてしまうリスクの方が高い。
そもそも社宅がひと部屋余計にあるのは、単身赴任者として家族が泊まりに来た際に用意してくれていたためのものであり、実際に誰かと同棲をしている事がバレると会社からも面倒なことになりそうだ。
安房からの唐突な返答に戸惑っていると、彼女は更に言葉を重ねた。
「7月からでもいいですか?」
昨晩こっちは悶々と過ごしていた傍らで彼女は彼女なりにひとつの結論を出していたようだ。私を信頼しているのだろうか。それとも仕事はできても常識範囲で何かずれている性質の持ち主なのか。本気で考えたのであれば色々と問いただしたい。
「もう半月くらい先の話じゃないの?それに彼氏には何て説明するつもりでいるの?昨日は冗談のつもりで言ったけど俺と住むことになるんだよ?」
やたらとクエスチョンの多い質問で安房に問いかける。それに対して彼女はひとつずつ丁寧に返していく。
「昨日も話しましたけど、6月いっぱいで今の彼氏の社宅から出ていかなくちゃならないのです。わたしの都合ですが早めがいいのです。彼には同じ会社の人が住んでいるマンションの一室を間借りするって昨日伝えました。もちろん男の人とは言ってないし、まさかそうは思わないでしょう。」
彼女の中ではすでにシナリオが出来上がっているようだ。しかし一番気になる質問の回答が出てこなかった。
「俺と住むことになるんだよ?」
もう一度同じ質問を口に出した。
「問題ありますか?」
そのまま質問が言葉のブーメランとなって返ってきた。
こちらとしても妻に会社の女の子にひと部屋を貸すなんて口が裂けても言えない。
しばらく安房の方を見ずにタバコを吸いながら考えてみた。
「わたし料理は得意なので晩ご飯なら作ります。お掃除もなるべくわたしがします。洗濯は下着以外ならします。社宅なので家賃があるのかは分かりませんが、光熱費も含めて幾分かわたしもお支払いしますよ。」
こちらが考えている最中にも、まるで安房自身を商品としてプレゼンするかのように彼女の言葉のジャブが次々と飛んで来た。
数年に及ぶ単身赴任生活に飽きた頃合いでもある。そんな普通じゃ起こり得ないシチュエーションがあっても楽しいのかも知れない。安房がどれだけ料理ができるのかは想像もつかないし、お昼のお弁当も見た限りでは冷凍物の総菜を詰め込んでいた印象でしかない。
けれど家事をある程度してもらえるのは有難い。むしろ下着も洗濯して欲しいが。
普段は外食かコンビニ弁当しか食べていない分、晩ご飯が提供されるのであれば家賃の負担などむしろ気にかけてもらう必要もない。
しかし、まだ頭の中の整理がつかなくて口を紡いだまま足元を見つめ、答えを探していた。
「その沈黙は決まりって事ですね。誰かに見つかる事を考えるのは取り越し苦労です。だって誰もわたしたちが一緒に住むなんて誰も想像なんてしないですよ。」
安房が勝手に結論を出した。
確かに誰かにバレなければ成立する話だ。彼女は何か言葉を発しているようだったが、耳には入らず冷静に現状を思い返した。
幸い当社の社宅制度は単身赴任者向けに設けられていて、単身赴任者同士が同じマンションで寮のように過ごすのではなく、会社が契約をしている不動産屋から特定のマンションから空きのある部屋を選ぶ仕組みとなる。なので同じマンションに住む会社の人間はほとんどいなく、今も自分の社宅にも同じ会社の人間はいない。
それに加えて、今の社宅は家族のためにとひと部屋多く設けられてはいるが、今の拠点自体が都心部から随分と離れた郊外にある。そのため昨年は妻たちが2度旅行がてらこちらへと訪れて来たものの、観光地の利便性を考慮して社宅を利用することなく都心部のホテルに滞在していた。だから社宅のひと部屋は本当の意味で空き部屋でしかない。
要は誰にもバレなければ成立する話なのだが。無言で頷き勝算が見えてきた。
「もちろん男女関係もありませんからね。わたしからも。門ちゃんからも。」
ちょうど同じタイミングで頭によぎっていた事を安房が切り出した。
安房は社内一の美人というわけではないが、愛嬌があって誰それ構わず接するタイプなので男性陣、特に年配からの人気は高い。また同性からも彼女の事を悪く言う人はいないので万人受けするタイプなのだろう。
しかもそれなりにスタイルがいいので喫煙所で前屈みになる度に目線を彼女の胸元に向けては目の保養にしている。もちろん安房に見つからない程度に。
そんな安房といざ同じ社宅に住むとなると、ひょんなきっかけて何かが起こってしまうのかも知れない。でも、これまでも社内で安房と誰か、もちろん自分とも何らかの噂が立ったことがないし、安房自身も男女関係はなしと明言したのだから心配はないだろう。
たぶん。
とは言え、妻に内緒にしなければならない話を作ってしまうのは申し訳がない。
「疚しくなくても墓場まで持っていく秘密もあると思いますよ。わたしも彼氏に言うつもりはないし、だから門ちゃんも共犯ですよ。」
しかめっ面だったのか、心の内を見透かされたような言葉が安房から注ぎ込まれた。
電子タバコを吸い終えたタイミングで切り出した。
「よし、わかった。安房が来るまでに部屋を綺麗にしとくよ。」
「決まりね。」
そう言うと、安房は両手を頭の上で二度拍手をした。
安房が社宅に住む事が決まってからの予定を立てた。
まず彼女は近日中に今のマンションを解約して、彼氏とともにお互いの荷物を一旦自宅に戻す。7月の最初の土曜日に社宅へと越して来るので、それまで10日間程度は実家から彼女は会社に通うこととなる。引っ越しの当日も彼女の親に不審に思われるといけないので、引っ越しには立ち会わずに安房の実家の近くのコンビニで待ち合わせをして、荷物をレンタカーに積んだ彼女と合流をする。
こうして予定が早々に決まり、最後にお互いのひとつ目の約束を立てた。
『誰にもバレないように過ごす』
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そのフレーズを思い出した頃、時刻はすでに22時を回っていた。
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