第45話 ある寒い日の冬の出来事③


 学校の授業が終わり、また一段と寒くなった下校道を歩いて叶実さんのマンションへと帰宅する。


 その間、どうやって叶実かなみさんと話をしようかと、あれこれ考えてみたけれど、自分がそんな器用な人間ではないことを悟って、結局行き当たりばったりで挑もうと思い、作戦を練ることを止めた。

 それに、小榎こえのさんの言ってくれたように、僕は自分の素直な気持ちを伝えればいい。


 きっと、それが正しいことなのだ。


 そうして、僕は鍵のかかった扉を開けた。


 もうすっかりと慣れたはずの玄関が、誰かの家のように感じてしまう。


 僕は、そんな妄想を振り切って、リビングへと向かう。

 そして、ある程度予想していたことだが、叶実かなみさんはいなかった。

 ソファの上に置かれた布団は、ぐちゃぐちゃになったまま放置されている。

 朝、僕が学校に行くときは、ちゃんと叶実さんが布団の中にいたことを確認していたので、僕が家から出たあとに起きたのだろう。

 ただ、それだけなら何も思わなかったかも知れないが、朝のうちに用意したお昼ご飯も、テーブルに置かれたまま、手を付けていない状態だった。

 僕の不安が、拍車をかける。


 ――カチ、カチカチ、カチカチカチカチ。


 そして、襖で遮られた和室からは、キーボードを叩く音が響く。

 僕は、今度は迷うことなく、その襖を開けた。


「……叶実さん。帰りました」


 叶実さんの背中に僕がそう呼びかけると、一瞬だけ、ピクリと身体が動いて、キーボードを叩く音が止まる。


「……おかえり、津久志つくしくん」


 氷のような、冷たい返事だった。

 一瞬、僕はその場を去ってしまいたいという衝動に駆られてしまうが、ぐっと足に力を込めて、その場に踏みとどまった。


「叶実さん……ご飯、まだ食べてないんですか?」

「うん、時間がなくて……あとでちゃんと食べるよ」


 そう言って、叶実さんは再び手を動かし始める。


 ――カチ、カチ、カチカチカチカチ。


 無機質なタイピング音が、規則的に鳴り響く。

 叶実さんからすれば、もうこれで話が終わったのだろう。

 昨日と同じように、そのままパソコンの画面と向き合っている。


「…………津久志くん?」


 だが、叶実さんも異変に気が付いたのだろう。

 一定のリズムを刻んでいたはずのタイピングを停止させる。

 そして、彼女はゆっくりと振り返って、僕を見てくれた。

 だが、それは同時に、僕も叶実さんと目を合わせるということで……彼女の姿を見て、思わず声を漏らしそうになった。


 いつもと変わらない、パジャマに寝癖のついた髪。

 1つだけ違うとすれば、彼女が眼鏡をかけているくらいのはずだ。


 だけど、それは些細な変化であって、僕が驚いてしまった理由は、その瞳だった。


 僕がずっと見てきたはずの、輝くような瞳は、暗く淀んだものになっていて、表情も同一人物だとは思えない程、生気が感じられなかった。


 まるで、少しでも触れてしまえば壊れてしまいそうなガラス細工のようで、僕は怖かった。


「……どうしたの、津久志くん?」


 今ならば、僕は何事もなかったかのように、この部屋を立ち去ることができたかもしれない。

 だが、僕が選択したのは、腰を下ろして、その場に正座になることだった。


「…………」


 叶実さんも、何故僕がこんなことをしたのか理解できないようで、少し戸惑っている様子だ。

 なので、僕は覚悟を決めて、叶実さんに尋ねる。


「叶実さん、原稿はちゃんと進んでいますか?」

「……ッ!」


 すると、叶実さんの喉から音が漏れる。

 しかし、それを悟られないようにしたかったのか、すぐに僕の質問に答える。


「……進んでるよ。今日も津久志くんが学校に行ったあと、書き始めたから」


 多分、それは本当なのだろう。

 それに、もしかしたら、僕が朝確認したとき、叶実さんは布団に入ってはいたものの、起きていたのではないだろうか?

 昨日の夜も、僕が自分の部屋に戻るまで、ずっとこの部屋で作業をしていた。

 そう考えてしまうと、この2日間だけでも、叶実さんの身体の負担はかなりのものになっているはずだ。

 その証拠に、眼鏡のふちで見えにくいものの、目の下には、うっすらと隈が出来ているし、どこか元気がないのも、体調が悪化してしまっている可能性がある。


「叶実さん……少し休みませんか? 今のまま仕事を続けたら――」

「どうして?」


 咄嗟に口にしてしまった僕の言葉に、叶実さんは反論する。


「本当に、どうしたの津久志くん? 今までは、わたしにちゃんと仕事しろって言ってたのに。わたし、もう身体は大丈夫だから、仕事もちゃんとするよ。だから、心配しないで」


 彼女は、わずかに唇を上げて、微笑む。

 だけど、それは僕が何回も見てみた、彼女の笑顔ではない。


「……駄目です」


 だから、僕は彼女に、そう伝えた。


「……えっ?」


 叶実さんも、まさか僕からそんな答えが返ってくるとは思わなかったのだろう、困惑した表情がありありと浮かんでしまっていた。


「だって、今の叶実さんは……とても苦しそうです」

「苦しい、って、別に、わたしは……」

「だったら……」


 ごくんっ、と自分が唾を飲み込む音が聞こえる。

 それでも、僕は彼女に伝えたかった。



「叶実さんは、そんなに苦しそうな顔で書いた『ヴァンラキ』を、本当の『ヴァンラキ』だって、胸を張って言えるんですか?」



 すると、彼女は一瞬、何を言われたのか分かっていないようだったが、段々と肩を震わせる。 


「本当の『ヴァンラキ』……って……!」


 そして、僕が今まで見たことがないような目を僕に向けながら告げる。


「そんなの! 津久志くんに言われたくないよっ! 胸を張れるかって? 当たり前じゃん! それとも、津久志くんも、わたしの書いた『ヴァンラキ』が気に入らなかったから、日輪ひのわさんと同じこと思ってるんでしょ!?」


 叶実さんは、大声で僕に反論した。

 そして、日輪さんの名前が出たことで、僕もパーティーでの一幕が頭の中でよぎる。

 実際、目の前の叶実さんは、あの時と同じように……いや、それ以上に怒りを露わにしていた。


「なんでみんな……わたしの好きにさせてくれないの……津久志くんも霧子きりこちゃんも……ファンのみんなだって……」


 そして、叶実さんの目から、大粒の涙が流れ始める。

 何度手で拭っても、その溢れ出てしまう涙を、止めることができていない。


「……違います。そうじゃないんです」


 だけど、その涙の理由は、きっと叶実さんが先ほど言ったことではない。

 そのヒントを、僕は既に貰っている。


 そして、先ほどの叶実さんの発言で、確信できた。

 彼女が苦しんでいる本当の理由は『ヴァンラキ』の展開に不満を持った読者たちの意見なんかじゃない。


 叶実さんが、本当に苦しんでいる理由は――。



「叶実さんは……嘘を吐いているんじゃないんですか?」



 そう告げた瞬間、彼女は目を見開いて、僕を見つめる。

 だが、僕は自分の考えが正しいと確信を得るために、確かめなければならないことがある。

 しかし、それはファンとしては禁忌といえるものだ。


「叶実さん……」


 それでも、僕は彼女に頭を下げて、お願いする。



「叶実さん。途中まででも構いません。今書いている『ヴァンラキ』の原稿を、僕に読ませてください」


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