第2章 僕の任命と先生の正体
第2話 先生の家に行こう!
9月下旬の日曜日。
まだ夏の暑さを残しているこの時期に、僕は自分のロッカーの中身から精一杯見繕った清潔感を保った服装(と言っても、薄めの上着と紺色のジーンズという無難な服装を用意するのが僕の限界だった)を着用して、初めて訪れたマンションの前に立ち止まっていた。
「……ここに、先生が住んでるんだ」
勝手な想像で、大ヒットを飛ばした
というか、到着したマンションの住所は、姉さんと一緒に住む僕のマンションから一駅分しか離れていない場所だったのだ。
なので、ここに来るまでに道に迷うこともなかったし、家から30分ほどで到着してしまった。
「まさか……先生がこんなご近所さんだったなんて……」
マンションの近くの公園では、日曜日ということもあって、子供連れのご両親たちが楽しそうにゴムボールを使って遊んでいた。
なんとも放歌的な状況に気が緩んでしまいそうになるが、流されそうになった日曜日の雰囲気を一蹴して、僕は気合を入れなおすために、自分の頬をパチンッと叩く。
「これから先生に会いに行くんだから……失礼のないようにしなきゃ……!」
今日という日が来るまで、僕は何度も先生と会うシミュレーションを頭の中でおこなっていた。
なんたって、相手はあの『ヴァンラキ』の作者の七色咲月先生だ。
あまり情報が開示されていないので、あくまで僕のイメージでしか話すことはできないが、なんとなく厳格なイメージが僕の中には存在していた。
それはきっと、『ヴァンラキ』のダークな世界観に、姉さんから教えてもらった「日常生活が不得手」という情報がリンクして、昔ながらの作家気質なのではないかと思ってしまったからだと思う。
はっきり言ってしまえば、ちょっと怖いイメージを持っている。
というのも、『ヴァンラキ』に出てくるキャラクターたちはみんな個性が強く、さらには映像化されると間違いなく規制がかかってしまうような描写が何度も出てくるので、一部では敬遠されてしまっている風潮もあったりするし、「作者は頭がおかしい」と何度も掲示板スレで見たことがある。
それでも、僕は先生の作品が好きだし、むしろ先生が1人で部屋に籠って作品を書き続けてくれる姿をこの目で見たい。
……まぁ、本当に先生がそんな人物だったとしても、もし仲良くなれるのなら、僕は先生から『ヴァンラキ』のことについていっぱい話してみたい。
そんな期待を胸に抱きながら、僕はマンションのエントランスへと足を向けた。
担いでいるリュックサックには、利用する掃除道具などの他に、もしもの時の為にこっそりとサイン色紙が入っている。
昨日の晩に悩みに悩んだ結果、自然な流れでサインをお願いできる状況になったら、先生に頼んでみようという結論に至った。
こればかりは公私混合だとお怒りを受けるかもしれないけれど、姉さんに相談した結果「別にいいんじゃね?」という、面倒くさそうな返事を頂けたので、そのご意見に甘えることにしたというわけだ。
しかし、どういうタイミングでお願いすればいいのかは、完全に無計画だった。できれば先生も快く引き受けてくれるようなタイミングでお願いしたいところなんだけれど……。
僕は頭の中で色々と計画していたところで、あっという間にマンションのエントランスまで到着してしまう。
マンションはオートロックになっており、扉を開けてもらう為には、こちらから呼び出してロックを解除してもらわなくてはいけない。
今時オートロックなんて珍しくもなんともないのだが、部屋番号を押す僕の手は小刻みに震えてしまっていた。
「え、えっと……0716……でいいんだよね?」
姉さんから教えてもらった先生の部屋番号を何度も確認する。
既にモニターには、その4ケタの数字が表示されており、あとはコールボタンを押せば先生の部屋へと繋がってしまう。
「……よし、いくぞ!」
僕は呼吸を整えて、思いっきり目を瞑りながら、コールボタンの上にのせた人差し指に力を込めた。
すると、ピンポンピンポン~、と、軽やかなメロディーが流れ出す。
ああ、もうすぐ先生と話すことになってしまう!
緊張が最高潮に増した僕の心臓は、ドクドクと早鐘を打ちながら鼓動を大きくさせる。
そんな状況が、10秒ほど続いたわけなのだが……。
「…………あれ?」
一向に呼び出し音が鳴りやむ気配はなく、軽快なメロディーが延々と流れ続けていた。
それから、念のためしばらく待っては見たものの、結果は同じであった。
「……もしかして、留守なのかな?」
念のため、もう一度呼び出してみたのだが、相手が出てくれる気配はない。
困った僕は、とりあえず姉さんに電話で連絡を入れてみることにした。
『……ふあぁ。んだよ、津久志。道にでも迷ったか?』
すると、あくびをかみ殺したような姉さんの声がすぐに聞こえてきた。
休日で惰眠を貪っていた姉さんを起こしてしまったことは忍びないが、僕は今の状況を簡潔に話してみた。
『……なるほどな。ま、あたしみたいに寝ちまってんだろな』
ふあぁ、と、もう一度あくびをする姉さん。
なるほど、確かに作家さんは昼夜逆転して仕事をしている人も多いと聞いたことがある。つまり、七色先生もその類の作家さんだということか。
『は? 仕事なんてしてねえよ。だからお前を呼んだってこと忘れんじゃねえぞ』
寝起きながらも、担当の作家さんには厳しい姉さんだった。
「でも姉さん。僕、どうしたらいいかな? 一度出直したほうがいいんだったら……」
『あ~、んな気遣いしなくてもいいって。それに、こんなこともあろうかとちゃんと準備してたからよ』
「準備?」
『おう。お前のバックの中のポケット見てみな』
僕は首を傾げながらも、姉さんの言われた通り背負っていたリュックサックのポケットを確認する。
「あれ? これって……」
すると、そこには見慣れない鍵が1つ入っていた。
『その鍵、あいつの家のやつだから、それで部屋入ってくれ』
おお、さすが姉さんだ。どんな問題が起こっても臨機応変に対応できるように準備してくれていたのか。
『んじゃ、あたしは二度寝すっから、あとは宜しく~』
「了解。それじゃあ、あとは僕に任せて……って、言えるわけないでしょ!!」
『うわっ、びっくりしたぁ、なんだよ、津久志。ノリツッコミなんてらしくないぞ』
「なんだよ、はこっちの台詞だよ! 勝手に部屋に入るなんて、そんなのできるわけないじゃないか!!」
色々と問題はあるが、百歩譲って姉さんが担当している作家さんの家の合鍵を持っていて、万が一の為に僕に預けておいたのは良しとしよう。
だが、だからといって、初対面である僕が部屋に入るのは、どう考えても非常識だし、なんなら不法侵入という違法行為だ。
『いいじゃん。あたしが許可してんだから』
「よくないよ」
さすがに姉さんの判断が法律を無効にしてくれることはない。
それに、僕としては法律云々よりもっと重要な問題があるのだ。
「あのさ、姉さん……七色咲月先生って……女性の人……なんだよね?」
そう、これが最も重要な問題点なのだが、七色咲月先生は女性のライトノベル作家と公表されている。
僕も勢いで返事をしてしまったものの、女性の家に男性の僕がお邪魔するのはいかがなものかと危惧していたけれど、姉さんも先生にはちゃんと僕の性別も教えて許可を貰っているだろうし、僕が気にしても仕方がないと思っていた。
けど、さすがに許可なく侵入するのは絶対にマズい。
しかし、姉さんには僕の心境など全く伝わってないようで、面倒くさそうな口調を変えずに僕を説得にかかってきた。
『いいか、津久志。姉ちゃんはな、男だの女だの、そういうのは些細な問題だと思うわけよ。それにあいつは勝手に部屋に入られたからって怒る奴じゃねえし、大丈夫だって』
「いや……でも……」
『姉ちゃんを信じろ。あー、でも、もしかしたら部屋の中で何かあったのかもしれねえし、様子も見てやってくれ。じゃあ、あとは宜しくな~』
「あっ、ちょっと姉さん!!」
僕の必死の呼びかけも空しく、スマホからは通話が切れてしまった音が聞こえてきた。
「ど、どうしよ……」
念のため、このあともう一度、部屋番号を押して呼び出してみたけど応答はなし。
そして、姉さんが不意に発した「もしかしたら部屋の中で何かあったかもしれねえし――」という言葉が、少し胸の中に引っ掛かってしまっていた。
間違いなく咄嗟に姉さんが繕った理由なのだろうが、可能性がゼロとは言えないのも確かで、特に作家のような仕事中でも部屋に籠ったりして誰にも会わない職業の人は、自宅で倒れてしまうというケースが多いと聞いたことがある。
「……行くしか、ないよね」
しばらく黙考した結果、僕は姉さんから預けられた鍵を使うことを決断した。
オートロックを解除して、エントランスを抜けてエレベーターで7階を目指す。
階が上がるにつれて、僕の心臓音もどんどん大きくなっていく。
そして、ついに先生の部屋である『0716』号室の前まで到着してしまった。
僕は、最後の望みで玄関のインターフォンを押してみたが、やはり反応は何も返ってこなかった。
「…………」
もう、こうなったら腹を括るしかない。
まるで今から空き巣に入るような心持ちになってしまっているが、僕は決して不法侵入するわけではない。先生の安否を確認するために部屋に入るのだ。
僕は震える手を抑えつつ、玄関ドアの施錠に鍵を差し込み、ロックを解除する……はずだったのだが、鍵を捻っても、感覚もなければ「カチャ」という開錠した音も聞こえなかった。
「……あれ?」
僕は違和感を覚えてドアノブに手を掛けたのだが、なんと、そのまま扉が開いてしまったのだった。
「……もしかして、鍵、掛けてなかったのかな?」
なんて感想を抱きながら、僕はつい家の中を覗いてしまったのだが、
「……えっ!?」
そこには、衝撃的な光景が広がっていた。
まず、玄関ドアの前には大量の段ボール箱が山積みされていた。
ピザの斜塔のように絶妙なバランスで形を保っていたその建造物は、残念ながら僕がドアを開けた軽い衝撃によって、雪崩のように崩れ去ってしまったようだ。
しかし、そんなことが気にならないほど、玄関先から続く廊下には大量の物で溢れかえってしまっていた。
確認できるだけでも、タオルや服、空になったお菓子の箱にペットボトル、挙句の果てには箪笥の引き出しが転がっていた。
まさに『混沌』と書いて『カオス』と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
「な、な、なに、これ……!」
他人の家だということを忘れて絶叫しそうになったのを、なんとか堪えることができた。
というのも、ここでもやはり、姉さんからの言葉が頭の中で再生されたからだ。
――もしかしたら、部屋の中で何かあったのかもしれない。
姉さんは十中八九、冗談で言った台詞なのだろうが、もし、それが現実で起こっていたのだとしたら……。
――何度呼び出しても反応しないインターフォン。
――鍵の掛かってない玄関の扉。
――そして、荒らされたような散らかった部屋。
ミステリー小説なら、明らかに何かが起こってしまったことを暗示させる舞台装置。
「せっ、先生ッ!!」
気が付くと、僕は玄関で靴を抜いで、そのまま物で埋もれた廊下を一目散に駆け抜けていた。
もし、僕の嫌な予感が的中し、七色先生のこの家が強盗の手に侵されてしまっていたのだとしたら、今までのことや、この荒れに荒れた現状の全てに説明がつく。
同時に、先生の身に危険が及んでしまっていたとしたら!?
もう、僕の中に「勝手に人の家に上がってはいけない」という倫理観は排除され、玄関から駆け出した勢いそのままに、リビングと思われる場所の扉を開いた。
「!?」
そして、またしても僕は目の前の光景に衝撃を受ける。
何故なら、リビングすらも玄関前の比ではない程の散らかり具合だったからだ。
主に散らかっている原因は空になった段ボールの箱。
それに加えて大量の漫画や雑誌が放置されている。
なかには可愛らしいクッション人形もあったのだが、それらも埋もれてしまって、まさに荒れた犯行現場という言葉がぴったりな状況になってしまっていた。
勢いで踏み込んではみたものの、あまりに凄惨な現場に狼狽えていた僕の耳に「んんっ……」とわずかに人の唸り声のようなものが聞こえてきた。
その声がする方へと視線を向けると、リビングの奥で唯一、まだ物の散乱がマシなサークルエリアであった。
僕は一応、散らかった物品を踏まないようにそろりと足を運んだ。
これじゃあ、まるで僕が泥棒みたいではないか、と自分で突っ込む余裕もなく、おそるおそる声が聞こえたほうへと向かう。
「……えっ」
一体、僕は今日で何度、目を見開くことになってしまったのだろうか?
だが、今回だけは僕の驚きの方向性は全く違うものだった。
――天使だ。
真っ先に僕の頭に浮かんだのは、そんな非常識な感想だった。
赤いパジャマ姿に、身体を丸めて目を閉じている女の子。
白い肌にほんのりと赤みがかかった頬っぺたは、とても柔らかそうな印象を受ける。
髪の毛は、ところどころ寝癖で跳ねてしまっているが、それがまた小動物のような愛らしさを演出している。
そして、彼女の口から洩れる呼吸は「すぅすぅ」と、とても心地よい風の音を連想させた。
ベランダから差し込む光の中心にいた彼女は、まさに天からの光に身を包んだ天使の姿そのものだったのだ。
「……もしかして、この人が……七色咲月先生?」
姉さんから聞いた、先生が一人暮らしであるという情報と照らし合わせると、そういうことになる。
でも、こんなに綺麗な人が、僕の大好きな七色咲月先生だったなんて……。
その事実に、しばらく言葉を失ってしまった。
一体、いつまでそんな時間が続いたのか、僕には全く分かっていなかった。
「……ん? んんっ?」
だが、瞼を擦りながらモゾモゾと身体を動かす彼女の反応によって、僕は現実へと引き戻される。
「…………うわぁ。もう朝かぁ。ねむたぁい」
彼女の声は、とても甘美なもので、聞いているとリラックス効果があるんじゃないかと思わせるようなものだった。
「むにゃあ、ということで、おやすみなさ…………」
そう言って、彼女が二度寝をしようとした瞬間、すぐ傍で立ち尽くしている僕と目が合ってしまった。
再び訪れる、静寂の時間。
その間も、ポカンと首を傾げるその仕草は、大変可愛らしいものであったのだが、僕はというと、冷や汗がダラダラと全身に流れ始めていた。
さて、ここでクエスチョン。
もし彼女の立場になって、この状況を考えてみたらどうなるか。
自分の家で目が覚めると、知らない男が近くで立ち尽くしていました。
さて、その後の行動はどういったものが予想されるでしょうか?
うん、即警察に電話するレベルの出来事だよね。
となると、僕が犯罪者というレッテルを貼られてしまうのは時間の問題だよね。
……って、冷静に言ってる場合か!
「あっ! あのっ!! これは、違うんですっ!! け、決して怪しいものでは!!」
僕は必死で誤解を解こうとするが、むしろ怪しさが増しているような言い訳しか出てこなかった。
その間も、彼女はぼぉーと蕩けたような瞳をこちらに向けていた。
「え、えっと……僕はその……ね、姉さんに言われまして、その……っ!」
ちゃんと僕の話を聞いてくれているかは微妙なところだったが、彼女を驚かさないように、必死の弁明を続けた。
今はとにかく、最善の策を尽くして……。
「えいっ!」
「うわあっ!」
だが、僕の必死の弁明は、可愛らしい彼女の掛け声と共に遮られてしまった。
なんと、彼女は僕に向かって、思いっきり両手を広げて飛び込んできたのだ。
いくら女性の力とはいっても、こちらも身構えていなかったこともあり、僕は彼女の身体を受け止めきれず、その勢いのまま思いっきり後ろに倒れこんでしまった。
幸い、後ろには大量のクッションが放置されており、それが衝撃を緩和してくれたおかげで僕に大したダメージを与えることはなかった。
ただ、彼女に押し倒された結果、僕たちはまるで抱き合うような態勢になってしまった。
頬と頬がくっつきそうな距離に、髪の毛からは甘い花の蜜のような香りがしてくすぐったい。
しかし、そんな悠長なことを言っている場合ではない。
これは、もしや彼女なりの僕への攻撃だったのではないだろうか?
というか、今の状況を考えるなら、それが一番妥当なような気がする。
ならば、ますます誤解を解かねばと、僕は必死で起き上がろうとしたのだが……。
「うわぁ、男の子だぁ~♪」
……僕の身体の上に乗った彼女は、そんな気の抜けるような声を出して、僕をぎゅっと抱きしめたのだった。
「な、なななななっ!」
僕を敵視するどころか、まるで甘えてくるような行動に、どうしていいのかも分からず、僕はただ動揺を隠さないまま、固まることしかできなかった。
「ん~。ウリウリ~。ぎゅ~!」
しかも、彼女はその後も、離れることなく自分の顔を僕の胸に押し付けたり、足を絡めてきたりと、とんでもない行動を繰り返していた。
僕はこのとき、人生で初めて抱き枕の気分を味わうことになり、それが数十秒続いたのち、
「……あれ? ところで、きみ、誰?」
そんな言葉が、彼女の口からやっと零れる。
しかし、そんな質問を彼女が口にしたときには、僕は恥ずかしさのあまり、上手く呼吸ができずに酸欠寸前になっていたのだった。
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