第1章 僕の秘密と姉さんの秘密

第1話 僕の秘密と憧れの先生が身近に存在していた件について

「……よし、今日は格安で卵のパックが2個も買えたぞ。せっかくだし、今日は姉さんが好きなオムライスを作ってあげようかな」


 放課後、制服のまま立ち寄ったスーパーからの帰り道。

 両手に買い物袋を下げながら、僕は上機嫌で帰路についていた。


 その理由は明白で、いつもは買えないタイムセールの品が今日はまだ奇跡的に残っていて購入できたからだ。


 僕、瀬和せわ津久志つくしは今年から蓬茨野ほうしの高校に通うことを皮切りに、学校の近くに住んでいた姉さんのマンションへと引っ越してきた。


 姉さんは僕とは違い、学生ではなく社会人なので、一緒に住むようになってからは僕が家事を担当することになったという経緯がある。


 元々、掃除だって嫌いではなかったし、料理も自分で作るようになってそれなりに上達していると思う。


 姉さんからは食費の限度は気にしなくていいと言われているが、お金の管理を任されている以上、そういう訳にもいかない。

 出来ることなら1円でも安く生活費を賄いたいし、何より僕自身が楽しんでやっていることだ。


 それに、今は姉さんにおんぶに抱っこの状態だけれど、高校生活が終われば僕も一人暮らしを始めるつもりなので、その為の予行演習にもなる。


 と言っても、高校1年生の2学期を迎えたばかりで、今後の進路先なども全く決まっていない今の段階では、まだまだ遠い未来の話かもしれない。


 とにかく、仕事を頑張っている姉さんに代わって、僕も弟としてそれなりに頑張りたいのだ。


 と、そんなことを考えているとあっという間にマンションの前へと到着してしまった。


「……あっ」


 すると、ちょうど僕と同じように学校から帰ってきた女の子と鉢合わせになり、彼女も僕の存在に気が付いて声をあげた。


 ただし、学校といっても僕が通う蓬茨野ほうしの高校の制服ではなく、この学区内にある鳴堂めいどう中学校の制服を着ている女の子だ。


「お、お兄ちゃん! こ、こんにちは」


 そう告げた彼女は、綺麗な姿勢のままぺこりと頭を下げて僕に挨拶をしてくれた。


 ただ、やっぱり年頃の女の子ということもあってか、僕の顔を直視せずに恥ずかしそうにしている。


「こんにちは、愛衣ちゃん。一緒の時間になったね」


 なので、彼女の緊張をほぐそうと、僕もちゃんと挨拶をする。

 そして、それが功を奏したのか、彼女も少し表情が柔らかくなって口を開く。


「こ、こんにちは。お兄ちゃん。お兄ちゃんは……お買い物に行ってたの?」

「うん。学校からの帰りにちょっとね。そうそう、今日はスーパーのタイムセールに間に合って卵が安く買えたんだ。いつもは売り切れてるんだけど、今日はたまたま残ってたみたいで――」


 彼女からの一の質問に対して、僕は倍以上の情報を口にするが、彼女は嫌な顔一つせずに歩きながら僕の話を聞いてくれた。


 彼女の名前は重井しげい愛衣あいちゃん。

 僕や姉さんの住むマンションの隣室に住む中学3年生の女の子だ。


 初めのうちは朝に顔を合わせる程度だったけど、以前、彼女が家の鍵を忘れて玄関前で途方にくれていたところを目撃し、一時的に僕の家(正確には姉さんの家だけど)で、彼女の母親が帰宅するまで一緒に時間を過ごすという出来事があった。


 よくよく考えれば、このご時世を考えるとそれは適切な処置ではなかったかもしれないけれど、泣きそうな顔をして呆然としていた愛衣ちゃんを放っておくことが僕にはどうしてもできなかったのだ。


 それに、愛衣ちゃんは元々姉さんとはそれなりに親しかったようで、その弟である僕なら信用できると思ってくれたらしい。


 結果として、その出来事をきっかけに、僕たちはこうして鉢合わせをすれば会話をするようになった。


 まさか、お兄ちゃんと呼ばれるまで懐かれてしまうとは思っていなかったけど、これはこれで悪い気がしないというのも、下の子がいない弟ならではの感想なのかもしれない。


 それに、愛衣ちゃんとは1つしか歳が離れていないけど、いつも付けている特徴的な赤いリボンが可愛らしく、僕もついつい妹のような接し方になってしまう。


 ただ、やっぱり思春期というものあるようで、それなりに距離は近づいたとはいえ、未だに顔を合わせてくれないことが多い。


「い……いいなぁ。お兄ちゃんの料理……愛衣もまた、食べたいなぁ」


 そして、僕が今日の献立についての話を終えると、彼女は下を見ながらそう呟いた。


 僕ばかりが喋ってしまったこともあってか、あっという間に僕たちの家がある5階の廊下まで到着してしまった。


「そんなの、愛衣ちゃんが良かったらいつでも作ってあげるよ。あっ、でも姉さんにはちゃんと言っとかないといけないな……」

「ほ、ほんと!」


 僕の発言に愛衣ちゃんは目を輝かせながら立ち止まって、ぐっ、と距離を近づいてきた。


「うん。愛衣ちゃんも学校の勉強頑張ってるってお母さんから聞いてるし、僕の料理なんかで良ければ、いくらでも振る舞うよ」

「や、約束だからねっ! お兄ちゃん!」


 愛衣ちゃんにしては珍しく、かなり口調が強めだったことには驚きつつも、僕は

「了解」と、はっきり返事をする。


 すると、愛衣ちゃんはまた可愛らしい笑顔を浮かべてほほ笑む。

 その笑顔が可愛くてついつい頭を撫でてしまいそうになるけれど、それは流石に子ども扱いしすぎだと思ったので自重することにした。


 そして、愛衣ちゃんが自分の家の前まで来たので別れの挨拶をしたのち、僕も隣の我が家の玄関の扉を開ける。


「ただいま~っと」


 誰のいないことは分かっていても、こうして挨拶をしてしまうのは誰もが経験している習慣ではないだろうか。

 今はまだ時計の針が5時を回ったくらいで、社会人としてバリバリ働いている姉さんが帰ってくるのは、いつも早くても9時を過ぎた頃なので晩御飯の支度をするには少し早い。


 かといって、買い物も済ませてしまったし、部屋の掃除も昨日やってしまった。

 学校からの課題も今日に限って何もないので、完全に手持無沙汰になってしまう。


「……となると、今のうちにアレでも見ておこうかな」


 そんな独り言を呟きながら、僕は買ってきた食材を冷蔵庫などに保管したのち、自分の部屋に戻ってノートパソコンを立ち上げる。


 こればっかりは、いくら姉弟といっても、見られたくないことだ。


 ブラウザが立ち上がる間も、喉がやけに乾くように感じて唾を飲み込む。

 こういう緊張感が生まれてしまうのも、僕がまだ子供だからかもしれないし、姉さんがいる前では決してできないことだからだと思う。


 そして、目的のページのリンクをクリックすると、大きく画面が表記された。



『~ライトノベルを書こう~』



 この題名の通り、ここは自作のライトノベル小説をアップロードして公開できる小説投稿サイトだ。


 僕のような学生から社会人の大人まで、老若男女問わず利用している。

 ユーザー数もここ数年で増加の一途をたどっており、中には掲載された作品が出版社から書籍として発売されることもあり、今や大ヒット作品を生み出す登竜門として、その影響力はすさまじいものがあった。


 そんな小説投稿サイトを、実は僕もユーザーとして利用している。

 しかも、それも読者ユーザーとしてではなく……投稿者ユーザーとして、だ。


 僕は緊張した面持ちのまま、マイページにログインした。


 すると、以前から投稿している自作小説のタイトルと、僕のペンネームが表示される。



 ファイア・バーニング 投稿者:十字架 キラ



 これが僕、瀬和津久志の誰にも話していない、もう1つの顔だった。


 高校生に進学してから、コツコツと毎日書き続けて、やっと形になった小説を何度も何度も推敲し、躊躇してしまう心に勇気を持たせて、この小説投稿サイトで公開することにした。


 結果、1ヶ月前から少しずつ公開されている僕の作品はというと……。


「……駄目だ。今日も誰も見てくれてない」


 全くと言っていいほど、ユーザーから見向きもされていなかった。


 最初の頃は新作ということで、本当に少ないPV数だったけど見てくれる人たちもいて、その数字が、たとえ1でも増えていくことが嬉しくて、ついつい睡眠時間も削って何度もPV数を確認してしてしまうほどだった。


 しかし、読んでくれる人がいたのは最初だけで、どんどんと読んでくれるユーザーもいなくなって、今では新しい話数を更新しても、PV数が0のままという悲惨な状態になってしまっている。


 もちろん、そんな状態ではランキングに入ることなどなく、作品は圏外と表示され、僕は誰も見てくれない小説をただただ更新するだけという空しい作業をしているだけという状況に陥っていた。


「…………やっぱり、面白くないのかな」


 ついつい弱音を吐きながらパソコンから目を逸らしてしまうと、僕は机の引き出しの中から1冊の本を取り出して、その表紙を眺めた。


「僕も……『ヴァンラキ』みたいな作品が書けたらいいのにな」


 表紙には、金色の髪で修道服を着る少女と、十字架のペンダントを付け、剣を構える碧眼の少年が描かれている。



『ヴァンパイア・ブラッド・キラー』



 通称『ヴァンラキ』と呼ばれるこの作品は、4年前にアテナ文庫から刊行され、その残酷な世界観かつ、予想のつかない怒涛のストーリー展開に、新人賞の作品としては異例の大ヒットを飛ばすことになった。


 そして、当時の帯には『16歳の鬼才、現る!』と書かれている。


「今の俺と同い年で『ヴァンラキ』を書いたんだよな……本当に凄いなぁ……七色先生って……」


 はぁっ、と、ため息交じりにそんな羨望にも似た独り言を呟いてしまう。


 七色なないろ咲月さつき先生は、僕にとって憧れの存在だ。


 もちろん、作品に対するリスペクトもあるのだが、約2ヶ月に1回という驚異的なスピードで刊行された『ヴァンラキ』の功績からも分かる通り、先生は『物語を書く』ということに対して非常にストイックな姿勢を見せている。


 それはデビュー作となった『ヴァンラキ』1巻のあとがきにも記されてある通り「私の拙い作品で、読者の皆様を楽しませることができるのならこれ以上の喜びはありません」という言葉からも、先生の人柄が如実に表れている。


 なので僕は、『ヴァンラキ』という作品に対してだけでなく、そういった先生の仕事に対する情熱に敬意を払わずにはいられないのだ。


 しかし、先生のプロフィールとして公開されているのは、年齢と、性別が女性であること以外は何も公開されておらず、そのミステリアスな存在であることもまた、『ヴァンラキ』の世界観と非常にマッチしている。


 何より、僕にとって『ヴァンラキ』は人生に大きく影響を与えた作品だ。



 ――もし、この作品に出会えなかったら、僕はずっと昔の自分のままだったかもしれない。



 だが、そんな『ヴァンラキ』は、2年前に発売された10巻を最後に、続刊が発売していない。

 その理由も未だ発表されておらず、続刊が出るのかさえもファンからは不安の声が上がっているのだ。


「……先生。もう『ヴァンラキ』を書いてくれないのかな」


 ネットの噂では、作者は勉学に専念するため執筆業を休んでいるだとか、出版社の過剰なノルマに辟易して出版契約を打ち切っただとか、様々な噂が飛び交っている。


 その中には、僕の心配をさせるような、「七色咲月は過労で病気になったらしいぜww10巻だけあとがきもなければ、発売日も延期になったのがその証拠」なんてものまでSNSでは呟かれていて、ソースのない情報だとは分かってはいるものの、先生は今の時代では珍しく、個人のSNSアカウントを作ったりしていないのでその真相は誰にも分からないというのが現状だ。


 だけど、僕は必ず、先生が書く『ヴァンラキ』の続きが読めると信じている。


「……僕も、頑張らなきゃ。いつか僕も『ヴァンラキ』みたいな作品が生み出せるように!」


 気合を入れる為に頬を手のひらで打ち付けたのち、僕はテキストファイルを開いて自作の『ファイア・バーニング』の続きを執筆しようと思った――そのときだった。



「へぇ~、津久志。あんたもラノベ書いてんだ」



 後ろから声が聞こえて来て、僕が咄嗟に振り向くと、そこにはカジュアルな黒いジャケットとパンツスーツ姿で、腕を組みながら壁にもたれかけている女性の姿があった。


 その様子は、さながらスパイ映画などで出てくる女性のエージェントの雰囲気を醸し出している。

 傍からみれば、今の僕は自分の犯行がバレて焦る三下のポジションに見えること間違いなしだ。


 だが、当たり前のことだが僕は犯罪者ではないし、目の前にいる彼女だって僕の部屋に不法侵入をしてきたわけじゃない。


「ねね、姉さん! いつからそこにいたの!?」


 そう問いかける僕に対して、姉さんは勿体ぶることなく、あっさりと答える。


「ん~、自分の弟がパソコンの前で自分の投稿した小説のPV数が少なすぎて嘆いている辺りからかな?」


「ほぼ最初から!?」


 いや……だとしたら、気付かなかった僕も僕なのだが……。

 しかし、姉さんに僕の秘密を知られるなんて思っていなかったので、どう切り返したらいいのか分からない。


「いやいや、別に隠すことなんてないだろ? 第一、世界中に発信してんじゃねえか? 今更あたしにバレたって恥ずかしくもなんともないだろ?」


 正論を僕にぶつけながら、こちらを見てくる姉さん。

 その竹を割ったような性格と見解は、まさに姉さんといった感じだ。


「あーあー、あたしは可愛い弟が、居候してる姉の家でやましいことでもしてんじゃねえかと思ってたのに、とんだ期待外れだよ」


 むしろ何を期待していたんですか? と、ツッコミたくなるが、そんなことをいう気迫すらも、今の僕には持ち合わせていない。


「な、なんで今日はそんなに帰りが早いの? いつもはもっと遅いのに……」

「んー? なんか今日は津久志があたしの好きな晩御飯を用意してくれてるような気がしたから、さっさと仕事終わらせて帰って来たんだよ」


 呆気らかんとそう話す姉さんだったが、まさに今日の献立は姉さんの大好物であるオムライスなので見事に当たっている。


 もしかして未来予知の能力者か何かなのだろうか?

 だとしたら、もう少しマシなものにその能力を使ったほうが世のため人の為である。


「ま、面白いことを知れたって意味では違いねえけどな」


 しかし、そんな僕の心境など全く知らない姉さんは、不敵な笑みを浮かべながら僕のところまでゆっくりと近づいてくる。


 てっきり、姉さんのことだからこのままパソコンを覗いて、僕の小説でも読みながら今夜の酒のつまみにでもするのかと思っていたのだが、


「お前、『ヴァンラキ』好きなの?」


 姉さんが興味を示したのは、机の上に置いたままの『ヴァンラキ』の文庫本だった。


「……えっ? 姉さん『ヴァンラキ』知ってるの!?」


 あまりの衝撃に、今の僕はきっと目が点になってしまっていることだろう。


 いくら大ヒット作品だからと言っても、一般人の認知度はまだそれほど高くはない作品だ。

 それに、姉さんがこういったサブカル系の文化に触れていることを一度も見たことがない。


 まさか、僕のようにずっと隠してきたのだろうか?


「あー、まぁ、知ってるも何も……って、その話は後でいいか。ちょっといいこと思いついたし」


 しかし、僕に明確な答えを提示しないまま、姉さんは僕のベッドに腰掛けたのち、その長い足を組んだ体勢を維持しながら僕に問いかけてきた。


「なあ、津久志。ちょっと姉ちゃんの仕事、手伝ってみる気ねえか?」

「仕事? 姉さんの?」

「そ、お前にぴったりの仕事があるんだなぁ、これが」


 口角を上げながら、何故か舌なめずりをする姉さんの姿は、どうしてか獲物を見つけた蛇の姿を連想させた。


 だが、僕は何がなんだか分からなくて黙っていると、どんどんと姉さんの眉間に皺が寄って、にらみつけるような顔つきになっていく。


「なんだよ? まだ内容も聞いてないのに不満そうな顔して。お姉ちゃんの頼みを聞けないってのか?」

「そうじゃなくて……手伝いって言われても……そもそも僕、姉さんが何の仕事をしてるのか知らないんだけど……」


 実は、僕が姉さんと再会したのは、去年の冬の出来事だったりする。


 これにはちょっと色々とややこしい事があるので話は割愛させてもらうけれど、姉さんは高校の卒業をきっかけに家から出て行ってしまって、それ以来、僕と姉さんは顔を合わせるどころか、連絡すら取りあっていなかったのだ。


 僕と姉さんは10歳も年が離れているので、当時はまだ8歳の小学生だった僕には、いつの間にか姉さんがいなくなってしまったという感覚だった。


 そういうこともあって、僕は姉さんがどのような人生を歩んできたのかを知らないままでいる。


 まさか、それが1年前の再会をきっかけに、こうして一緒に住むことになるとは思っていなかったし、その分、姉弟なのに僕は姉さんのことを理解している部分が少ないというのも事実だ。


 姉さんの職業を知らないというのは、なんとなく聞きづらかったというのもあるのだけれど、なんとなく姉さんが隠したがっているのを察して僕のほうから聞かないことにしていた。


 なぜなら姉さんは、家でも自分から仕事の話を一切したことがないのだ。


 そのことを話すと、姉さんは面倒くさそうにため息を吐いたのち答えた。


「あたしは仕事とプライベートを分けてんだよ。お前だって、楽しい食卓の場で社会人の愚痴なんて聞いたって楽しくもなんともないだろ? 大人が愚痴をこぼしていいのは、娘の前で朝の支度をする時間と、親友と深夜のバーで酒を飲む時だけだ」


 やけに具体的な例をあげてきたけれど、家で仕事の話をしなかったのは、どうやら姉さんなりの僕に対する配慮だったらしい(ちなみに、姉さんには娘なんていない。親友がいるかも怪しいところだ)。


 まぁ、僕としては、姉さんがどんな仕事をしているのか、というのはずっと気になっていたことなので、良い機会だったかもしれない。


「なら、話は早いな。まぁ、あたしの仕事ってのはな……」


 そして、姉さんはニヒルな笑みを浮かべて、こう告げたのだ。



「あたしは作家様に原稿を書かせる仕事をしてるんだ」



「…………はい?」


 一瞬、僕の頭が完全にフリーズしてしまう。


「だーかーらー。あたし、編集の仕事してんだよ」

「編集……って、あの編集?」

「ほかにどの編集があんだよ?」


 そんなの、質問した僕が聞きたいくらいだった。

 えっ、編集って、出版社で働いている人のことだよね?


「そうだって言ってんだろ? ったく、信用できないってんなら……ほれ!」

「わっ!」


 理解が乏しい僕に対して、姉さんは苛立った様子を見せながら自分のポケットを漁ったあと、取り出したものを僕に投げつけてきた。


 だが、それは決して姉さんが業を煮やして物理攻撃を決行したわけじゃなく、そのブツを受け取って確認をした僕は、姉さんがどうしてそんなことをしたのかすぐに理解できた。


 姉さんが僕に投げつけてきたのは、首にかける紐がついた社員証だった。


 そして、そこには、姉さんの特徴である鋭い目つきでこちらを睨んでいるような顔の写真が張り付けられており、会社名がきっちりと印字されていた。



 オリポス出版 アテナ文庫編集部 編集 瀬和せわ 霧子きりこ



「………………えええええええええええええええっ!!」


 思わず、僕は人生で一番じゃないかというくらいの衝撃を受けると共に、大声をあげてしまった。


 その名前を、僕が知らないわけがない。


「あ、あ、アテナ文庫ってことは! まさか姉さん……!!」

「そ、お前の大好きなラノベの編集してるとこ。しかも、お前の大好きな『ヴァンラキ』を刊行してる部署だぜ」


 そう。


 姉さんの言う通り、オリポス出版は僕が大好きな『ヴァンラキ』を刊行している出版社で、しかもアテナ文庫編集部ということは、ピンポイントで『ヴァンラキ』が刊行されているレーベルの編集部の名前である。


「なんで! なんで姉さんがラノベの編集してるの!?」

「なんでって言われてもなぁ……就職活動してたら、そこで働くことに決まったって感じだな」


 いや、そういう過程の話を僕は聞きたいんじゃなかったんだけど……。


「なんでもいいだろ? 働くのに理由なんているか? 労働は国民の義務だろうが」

「そんな身も蓋もないことを言われましても……」


 しかし、姉さんは面倒くさそうに頭をかきながら、結局僕の疑問に答えることなく話を先に進めてしまった。


「もうあたしの仕事は分かってくれたな? んじゃ、手伝い頼むわ」


 あまりの衝撃展開に、何も考えないまま「はい、分かりました」と首を縦に動かしてしまいそうになったけれど、ありがたいことに僕の思考判断能力はまだ正常に作用してくれた。


「いっ、いやいや! 手伝うって、編集の仕事を!? む、無理に決まってるじゃないか!?」


 話の流れからすると、そういうことなのだろう。


 確かに、僕は『ヴァンラキ』が好きだけど、ライトノベルに精通しているというわけではない。

 そんな僕が編集をしている姉さんの仕事を手伝うなんて……。


「はぁ? 素人にそんなことさせるわけねえだろ? 編集なめんな」


 今までとは違い、明らかに威圧を込めた口調に、恐怖のあまり謝罪の言葉を述べてしまいそうになってしまう。


 姉さんは怒らせると怖いという事実は、今も昔も変わっていない、僕の姉が姉であることを象徴する性格の1つだ。


 しかし、姉さんは一瞬だけ覗かせた阿修羅のような厳かな顔をひっこめたかと思うと、いつもの冷静な態度に戻って、話の続きを聞かせてくれた。


「いや、お前に頼みたいのはもっと別の話でな。お前、家事とか得意だろ?」

「えっ? う、うん……それなりには出来ると思うけど……」


 ん? なんだか急に話の舵が切り替わったような気もするが、姉さんの質問に素直に答えると、


「そんな謙遜しなくていいぞ。出来のいい弟がいて姉ちゃんも助かってる。いつもありがとな、津久志」


 急に僕に対して労いの言葉を投げかけてくれた。


 いきなりものすごいド直球に褒められ、どう反応していいのか困ったけれど、姉さんの屈託のない笑顔を見せられてはこちらも素直に飲み込まざるを得ない。


 そして、そんな人の心理を巧みに利用する姉さんの交渉術は、既に始まっていたのだった。


「で、だ。お前のその家事スキルを見込んで頼みがある。しばらくの間、姉ちゃんが担当してる作家の面倒をみてやってほしいんだよ」

「作家の面倒を……みる?」

「そ。いわゆるハウスキーパーってやつだな。家政夫って言ったほうが分かりやすいか? 最近流行ってるだろ、そういうの」


 編集者さんらしく、類義語もきっちり補足してくれる姉さんだった。

 だが、僕が知りたいのは単語の意味ではなく、その目的だ。


「目的? んなの、その作家に原稿書かせる為に決まってんだろ?」

「いや、全然分からないんだけど……」

「……はぁ。ったく、仕方ねえな」


 面倒くさいとばかりに顔を歪める姉さんだったが、最終的には説明責任があると判断したのか、僕に姉さんが今抱えている事情と業務内容の説明を始めた。


「その作家つうのがな、これがもうとんでもねえ手のかかる作家なんだよ。そりゃあ、作家なんて生き物は変人奇人の集まりではあるんだが、そいつは飛びぬけてんだ。こんなこと宣言するのは不本意極まりないが、このあたしにすらどうにもできねえっていうのが現状ってわけ」

「ね、姉さんでも、駄目なの……?」

「おう。こればっかりは参っちまってな。慣れねえ一人暮らしのせいで、今は原稿も書けねえとか言い出すし、こっちはもう八方塞がりなんだよな」


 はぁ~っと、僕が今までに見たことがないほど疲れ切った顔を見せる姉さん。

 まさか、姉さんをここまで困らせる人間がいるとは、驚きだ。


「そこで、津久志の力を借りたいんだよ。お前がその作家の生活環境をサポートしてやってくれねえか? そうすりゃ、原稿に集中できてあたしの仕事も無事完遂できるってわけだ。どうだ、悪くないだろ?」

「えっ? いや、でも……」


 パチンッ、と指を鳴らす姉さんの仕草はそりゃあ様になっていたけれど、指名を受けた僕はと言うと、未だに苦い顔を浮かべてしまっていた。


「大丈夫。お前なら出来るよ。なんたって、あたしの弟なんだから」


 しかし、姉さんは僕とは違い絶対的な自信を持ったような、力のある視線で僕を見つめていた。


 それは、僕に対して信頼を寄せてくれているという証左でもあったし、僕自身も、姉さんの期待に応えたいという気持ちが胸の中からどんどんと膨れ上がってくるから不思議だ。



 何年経っても変わらない、姉さんの特徴。


 それは、僕のことを信じてくれていることだ。



「わかった。僕、やってみるよ」


 そして、気づいたときにはもう、僕は姉さんに向かって首を縦に動かしていた。


「サンキュー津久志!」


 すると、姉さんは腰掛けていたベッドから立ち上がったかと思うと、急に僕のほうへと近づいてきて、思いっきり両手を広げて飛びついてきた。


「お姉ちゃんは嬉しいぞ~。流石あたしの弟だぜ~! うりうり~」


 独特の擬音を発しながら自分の頬を寄せてくる姉さんは、まるで酔っ払いのそれであったが、彼女からは当然お酒の匂いなんかはせず、代わりに甘い香水の香りが鼻をくすぐった。


「ね、姉さん! そ、そういうのはいいから!」


 ただ、僕としては、誰にも見られてないとはいえ恥ずかしいことこの上ないので、姉さんの肩を手で持って、適切な距離を保った。


「んだよ。ほっぺにチューくらいしてやろうと思ったのに。ま、それはいいか。んじゃ、詳しいことは晩御飯を食べながらにしようぜ」


 若干不貞腐れ気味だった姉さんではあったが、僕とのスキンシップはこれで満足したのか、部屋から出て行こうとする。


「あっ、待って姉さん!」

「ん? やっぱりチューして欲しくなったのか?」


 そう言って不敵な笑みを浮かべて振り返った姉さんだったけど、もちろん僕が姉さんを引き留めた理由はそんなことではなく、もっと重要なことを聞きたかったからだ。


「その、話は晩御飯のときでもいいんだけど、僕が身の回りの世話をする作家さんってどんな人なの?」


 こればかりは、今すぐにでも知りたいことだった。


「あー、それな」


 姉さんの反応から、特に勿体ぶるつもりはなく、すぐに僕に言ってくれるのかと思ったのだが、


「ん」


 と、五十音で最後に位置する言葉を発しながら僕を指さすという謎の行動を取った。


 なので僕が頭にクエスチョンマークを浮かべていると、それだけでは意図が読み取れなかった僕に対して、姉さんは補足の説明を付け加えた。


「だから、そいつだって」


 そいつ、と言われても、姉さんが指を差しているのは僕であって……。


 いや、違う。


 よく見れば、姉さんの指を差す場所は、僕自身ではなく――。



 机の上に置かれた『ヴァンラキ』の文庫本だった。



「……えっ? えっ!? まさか……!!」


 僕は自分がたどり着いてしまった解答が未だに信じられずパニック状態になっていると、僕とは正反対の実にあっさりとした声で、姉さんは僕に告げた。



「そ。お前が愛してやまない、七色なないろ咲月さつき大先生サマだよ」


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