恋愛の40 異世界転移
「サロメ!」
深呼吸をするよりも前に、僕は扉を開けてサロメの姿を探す。すると、彼女は壁に飾ってあるシャーロット様の絵画に跪いて、祈りを捧げていた。
「ごめん、待たせちゃって」
「……なぁ、トモエ」
隣に並んでしゃがみ込んで言葉を待つと、彼女は目を瞑ったまま僕の手を握った。
「やはり、お前が居ないと思うと緊張するな」
「緊張しない方が、どうかしているよ。だって、サロメは今から、この国の全てを背負って一世一代の大勝負に出ようとしているんだから」
言って、肩を抱いて頭を撫でる。体は、冷たく震えていた。
「せっかく決断したのに、いざとなるとこうなってしまうだなんて、実に情けない話だ」
「そんな事あるもんか。サロメは、不安を全て塗りつぶす為の努力をして来たじゃないか」
そうだ。決断なんて、誰にだって出来る。言うだけならば簡単だ。重要なのは、それを行動に移す事。その為にサロメが必死に頑張って来たのを、僕は誰よりも知っている。
ただ、それでも足がすくんでしまうのは、最後にほんの少しだけ、力ではどうする事も出来ない運の要素が生まれてしまうからなのだ。
「本当に、私に出来るだろうか」
「出来るよ。だって、みんながついてる」
「……しかし、そこにトモエはいない。私は、それが本当に恐ろしいのだ」
甘えるような声ではない。ただ、未来へ向かう為の責任を背負って、そのプレッシャーに必死で耐えている、か細くて壊れそうな声だった。
でも、ここまで来たら、後は勇気を出して踏み出すしかない。見えないモノに、手を伸ばして掴むしかない。だから、その震える背中を押すために、僕は懐から一枚の紙を取り出して、それを破った。
「大丈夫。自分を信じて」
紙は、ただ破れただけだった。何の反応も無く、それらしい反応だってない。
しかし、サロメの震えはゆっくりと治まっていき、やがて僕に落ち着いた表情を見せてくれた。開いた目は、真っ直ぐすぎるくらいに僕の事を見つめていている。
「トモエ……」
本当に、僕は魔法を使ったのだろうか。ひょっとして、一度きりの誘惑とは、この言葉を引き出すために、プリモネが僕に掛けた誘惑の魔法だったんじゃないだろうか。
「大丈夫。それに、サロメはいつだって僕を待っていてくれたじゃないか。いつも不安で仕方なかったけど、それを思うと頑張れたんだ。だから、今度は僕がサロメを待ってるよ」
「本当か?」
「本当だよ。だから、帰ってきたら、二人で結婚式を挙げよう」
「……わかった。約束だぞ」
「あぁ、約束だ」
小指を結んだ彼女の笑顔は、もうなんの迷いも見えなくて。シャーロット様の絵画に縋る姿は、どこにも見えなくて。
僕も彼女も、残された時間の事なんて忘れて、必ず結婚式を挙げて永遠を誓えると、本気でそう思っていた。
× × ×
次の瞬間、僕は気を失って、気がついた時にはもう、サロメは居なくなっていた。代わり、そこに居たのは。
「……お久しぶりですね、神様」
「久しぶりです。もう少し、狼狽えたりするモノだと思っていましたが、案外そうでもないようですね」
「……二度目、ですから」
そこは、真っ白で靄がかかった、僕と神様以外に何もない不思議な空間。僕が、あの世界へ転移する前にも訪れた、きっと宇宙の外側のどこかにある場所だ。
「お疲れさまでした。あなたのお蔭で、あの世界は救われました」
「そう、ですか」
「随分と、他人事のように言うのですね。流石、我に選ばれただけの事はあります」
その言葉に、僕は強い苛立ちを覚えた。誰かに対して怒るだなんて、自分の人生ではあり得ない事だと思っていたけど、僕は、今回の旅によってて人間臭さと言うヤツを手に入れたのかもしれない。
「口を開けば、きっと耐えられないでしょうから」
何を、とは言わなかったが、神様はそこまで聞く事は無かった。きっと、何の興味もないのだろう。
「まぁ、いいでしょう。どうせ、次に目を覚ませば、あなたは全て忘れているのですから」
「……それが、異世界を誰も知らない理由、ですか」
「そういう事です。あの世界の住人たちは、既に記憶を書き換えられています。物と関係には辻褄の合う理由を与えられて、これから先の時間を違和感なく生きていくのです」
「めちゃくちゃだ」
でも、僕はそれを、何となく分かっていたんだと思う。だって、異世界に転移した者がこの広い宇宙で僕だけだっただなんて思えないから。
「サロメは、幸せに生きていけるのでしょうか」
「終わった話が、そんなに気になりますか?」
言われ、僕は神様の胸倉を掴んでいた。持ち上げて顔を睨みつけたが、彼女はやはり無機質な表情のままで僕を見ている。
「終わってないです。僕は、彼女と永遠を誓いました。それくらい、教えてくれたっていいでしょう?」
「人の幸せなんて、相対的なモノですが。そうですね、あなたと比べれば、幾らか幸せな人生を歩むことになるんじゃないでしょうか」
「……そうですか」
手を離して、深いため息を吐く。そうか、サロメは幸せに生きていけるのか。
本当に、よかった。
「記憶、消しますよ」
「あの、それって絶対ですか?」
「いいえ、正確に言えば、あなたには記憶を残して生きていく道もあります。しかし、その場合一生喋る事が出来なくなります。文字を書く事は出来ますが、もちろん異世界の事を書いて伝える事は出来ません。今まで誰も選ばなかったので、端折っただけです」
「なら、残しておいてもらっていいですか」
聞いて、神様は初めて顔を歪めた。
「聞いていたのですか?口が利けなくなるのですよ?」
「構いません。僕は、永遠を誓ったのです」
「サロメは、あなたの事など覚えていないのですよ?」
「構わないと言ってるでしょう」
「……わかりました。そこまで言うのであれば、何も言いません。……さようなら」
言って、彼女は振り返った。意識が遠のいていく中で最後に見たのは、彼女が一瞬だけ僕に振り返って、何かを呟いた口の形だった。
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