恋愛の36 さよなら
「女王様。僕は、もうこの世界に長くいられません。見てください。今も手が、こうして徐々に存在を失っているのです」
彼女から離れて、突き出した手のひら越しに目を合わせた。今までとは比べ物にならない程の、強烈なサインだ。
「……知っていたよ。だから、ずっとそうならない方法を考えていた。プリモネやカテリーナ、他の魔人たちを呼んで、何とか方法を探していた」
彼が来たのは、そう言う理由だったのか。
「でも、ダメなんだ。もう、どれだけ探したって、運命に抗う方法は見つからない。神を超越する事は、人には出来ない。私はまた、失うと分かっていて何も出来ない……」
食いしばる歯は、軋む音が聞こえるくらいに強い。しかし。
「……なぁ、トモエ」
「なんでしょうか、女王様」
訊くと、ハッとしたように僕を見上げて、閃いたかのように言った。
「もし、私がここで立ち止まれば、お前はずっとそばに居てくれるのか?」
どうして、彼女はその答えに行きついたのだろうか。プリモネ様は、崩壊の危機を自分しか知らないと言っていた。ならば、僕がこの世界に来た理由だって話してなどいない筈だ。
……そうか。彼女自身、停滞していた事に、ずっと気づいていたのか。
「そうだ、そうなのだろう?なぁ、お前には家族がいないと言うではないか。だったら、ずっと私の傍に居てくれないか?」
僕の手を握ると、彼女は両手で強く握った。
「先ほどと、言っている事が違うように思えますが」
「い、いいではないか!国民たちだって、きっとそれくらいなら許してくれる。いや、むしろお前が居なくなれば寂しい思いをするに違いない!ペーパームーン雑貨店だって、お前が居るから足を運んでいる者だって多いのだぞ!?」
「女王様……」
もし、僕がここで応えたとして、この国はどういった方向へ進んでいくだろうか。
……結論から言えば、僕だけがこの国に居る男の商人、などと言う状況はすぐに打破されてしまう。何故なら、もうビジネスモデルとして僕が存在してしまっていて、おまけに莫大な資産を蓄えてしまったからだ。
人の欲望とは、本当に恐ろしい。法が無ければ、ルールに乗っ取らないピラニアのような商人たちが市場を食い荒らし、瞬く間にクレオは衰退してしまうだろう。そうなれば、不信感はグリーンエメラルド・アベニューの女の商人たちへ繋がり、やはり男への不信感が募っていく。そんな事は、火を見るよりも明らかだ。
そして、僕にはそれを止める術など分からないし、だから政治家を雇う訳だけど、そうすれば僕の役目は終了して、この世界から消えてしまう。
しかし、何もしなくなった僕を、女王様は変わらず愛していてくれるだろうか。答えは、分からない。分からないけど、そんな未来を、僕は望まない。だから。
僕は、女王様に全てを捧げると誓ったのだ。
「ト、トモエ。お願いだよ。ずっと、私の傍に居てくれ。私を支えてくれ。私は、もうお前無しでは立っていられない」
笑う顔は、引き攣っいて、喋っていなければ泣き出してしまうのが、手に取るように分かった。僕の手を掴む指は、折れてしまいそうなくらいに力強く、押し付けられた胸からは、止めどない鼓動が伝わってくる。
「大丈夫です、女王様。僕の力など、もう無くたって……」
「嫌だ!どうして分かってくれないのだ?私には、もうお前しかいないのだぞ?男を信じさせようとするお前が、私の事を裏切るのか?そんな悲しい事を、あれだけ愛していると言いながら口にするのか!?」
その問いに、僕は黙って首を横に振った。
「だったら……。そうだ、私は王を辞める。王を辞めて、お前の妻になる。だから……」
言って、涙を流す彼女の姿は、何よりも儚くて。
「それは、本心ですか?本当に、王を辞めたいと思っているのですか?」
訊いても、それを肯定する事は出来なかった。
「笑ってください、女王様。僕は、あるべき場所へ戻るだけです。それに、例え両親はいなくても、仕事や近所に住む人たちとの繋がりがあります」
「……その方らが、私よりも大切だと言うのか?」
そう言われて、僕は無意識のうちに、女王様を抱きしめていた。
「そんな事は、口が裂けても言わないでください」
すると、女王様は泣き、小さく嗚咽を漏らして、うわ言のように「ごめん」と呟いた。
「それに元より、僕はあなたに納得してもらいたい訳じゃありません。あなたよりもこの別れに納得していないのは、他の誰でもないこの僕なのですから。なので、今生の別れを忍ぶくらいならば、今を輝きましょう。みっともなく、互いを惜しみましょう」
「……どうして、そんなに強くいられるのだ?」
「強くなんて、ありませんよ。ただ、失うあなたに後悔を残したくないのです。全てをあげたいのです。……あなたは、本当に素晴らしい女性だ。だから、忘れないで」
ここで、壊れてしまってもいいと、本気で思った。そして、これまでのどの瞬間よりも、僕は彼女の体を強く抱きしめた。
「愛しているよ、サロメ。それだけは、永遠だ」
本当に、ただそれだけ。僕の全てなんて、たったそれだけなんだ。
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