恋愛の19 神様

 そして、三分後。



「お待たせしました。散らかっていますが、どうぞ」

「はい、それでは、お邪魔しますね」



 暗闇の中でも、彼女の優し気な笑顔が分かった。毎朝僕に勇気を与えてくれる、いつもと変わらない笑顔だ。……本当に?



 キッチンへ入ってすぐのテーブルに彼女を案内して、売り物とは違う、真っ白でシンプルなマグカップを差し出す。これは、お金が無かった時、裏の水道から手酌てじゃくで水を飲んでいるのを見られて、彼女が貸してくれたいくつかの食器の中の一つだ。



「流行のルーシー・ブレンドです。僕のお気に入りの、ホワイトダイヤですよ」

「ありがとう。なるほど、本当にいい香りですね」



 ……言って、一口すすってからほっと息をつくと、テレサさんは正面に座った僕の顔を見た。



「はは、テレサさんの真剣な顔は、少し緊張してしまいますね。僕、何かやりましたっけ」

「えぇ。巴は、この国の為にたくさんの事をしてくれています」

「そんな、僕はただ女王様の為を想って……」



 すると、彼女は横に首を振って、再び僕を見た。

 違和感。第六感を苛むその感覚がどうしても拭えなくて、自分の表情から笑顔が消え失せたのが分かった。



「あなたは、この世界の寿命を、少しだけ延ばしてくれました」

「……なんですって?」



 彼女が、何を言っているのかが分からなかった。僕は、あの時出会った少女以外の誰にも、僕がなぜ異世界に転移して来たのかを話していない。

 先ほどから覚えている違和感の正体。それを探る為の思考。巡らせ、唾を呑み、目線が泳ぐ。

 ……違う。そう否定したかった。彼女がそうであるなどと、考えたくも無かった。しかし、それを知っているという事実が、僕にたった一つの道だけを往く以外に答えを許さなかった。たった一つの事実が、他にあるはずの可能性を全て捨て去ってしまっていのだ。



 つまり。



「……テレサさん、あなた、神様なんですか?」

「違います。我は、テレサ・フィリアノートの体を借りているに過ぎません。本当の彼女は、眠っていますよ」



 吐き気を催すような過去を思い出し、反射的に嘔吐の感覚が僕を襲った。しかし、それを何とか飲み込むと、ようやく言葉を吐き出すことが出来た。



「……ふざけるな」



 思わず、拳を机に叩きつけてしまう。



「ふざけるなッ!あなたは、僕が一体どんな目に遭って来たと思ってるんだ!ここに来るまで、何度……ッ!」



 しかし、神様は僕の言葉など異に返さず、ただ自分の連絡だけを口にする。



「タイムリミットは、延長されたのです。あなたの存在によってサロメの、引いてはこの国の女に、少しだけ男が悪であると言う意識への猜疑心さいぎしんが生まれたのです。この調子であなたが活動を続ければ、世界の滅亡を止めることが出来るでしょう」

「僕の話を訊けよ!あなたには、答えてもらいたい事がたくさんあるんだ!なぜ僕をこの世界に呼んだ?何故今になって現れた?僕は、この世界の滅亡を止めたらどうなるんだ!?」

「いずれ、全て分かります。既に、その前兆はあなたの身にも現れている筈です」

「いずれじゃないッ!今ここで教えてくれ!僕は、一体どうなるんだよ!」



 言いながら、僕は女王様の前で、何の前触れもなく転んでしまったことを思い出し、言葉を止めてしまった。



「察しがよろしいですね。それでは、健闘を祈ります」

「待てよ!勝手に話を進めるなよ!あなたのせいで、僕は……、僕は……ッ!」



 しかし、神様は既にどこかへ行ってしまったようで、テレサさんの体はぐったりと頭を倒している。

 でも、僕は自分の言葉を止めることが出来なかった。



「もう、どうしようもないくらい、女王様を好きになってしまったのに……」



 過去を忘れたわけではない。ただ、それでも僕は、女王様を愛している。の代わりだなんて思っちゃいないけれど、だからこそ今の全てを捧げたいと思っているのだ。



 ……声に気が付いたのか、テレサさんは目を覚まして、僕を見ているのがわかった。



「この世界を救ったら、僕はどうなるんだ……。答えてくれ、頼む……」



 机に手をつき、俯いて呟く。今のテレサさんには、何を言っても伝わらないのに。それどころか、目をましたらおぼえもない場所に居て、目の前で訳の分からない事を呟きながらうなだれる僕を見て、狼狽うろたえて自分の状況を確認するのが当然だったのに。



「トモエさん、大丈夫ですか?」



 そう言って、テレサさんは僕の頭を撫でてくれて、だから思わず、溢れてしまった。



「……僕、この世界に来てずっと一人だったんです」

「知っていますよ。大変、でしたね」

「み、店を持つ前、買われたって、お金を払われなかった事も何度もありました。それに……」

「辛いでしょう?だから、その先は言わなくても大丈夫ですよ」



 今の言葉がなければ、きっとまた自分を嫌いになってしまっていたと思う。



「……女王様は、そんな僕の中に居てくれた、たった一つの道標みちしるべなんです。どんな形であっても、僕にはそれだけだったんです。なのに、ようやく生活を手に入れた今になって、なんで……っ」

「……わたくしは、トモエさんが本当によく頑張っているのを知っています。だから、今はゆっくり休んでください」



 テーブルの上に、ポタリと涙が落ちた。今までずっと押し殺していた恐怖と、あまりにも無謀だった苦難への挑戦と、それを認められて安心した事で、僕の感情は、とうとう臨界点を越えてしまったのだと思う。



「ありがとう、ございます……」



 机に手をつきながら、何度もそう呟いた。彼女の手があまりにも温かくて、他の感情が言葉にならなかったからだ。



「トモエさんの恋、応援していますよ」



 無償の愛とは、きっとこの事を言うのだろう。その夜、ただ頭を撫でてくれる彼女の優しさに、僕は身をゆだねていた。


―――――――――――――――――――――――――――――

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