第7話

 それから十年の月日が流れた。何もなく平和に続いていた毎日は、突然終わりを告げる。


 陛下への報告が終わり、夕暮れの中庭の廊下を歩いていた。

 黒の煌びやかなドレスに身を包み、黒いショールを羽織ったハッセン様が、前から歩いてきておられた。

 身長よりも長く、先端に大きな宝玉をつけた杖をついている。脇へ寄り、深く頭を下げる。すると僕の目の前で足が止まった。


「顔を上げなさい、キトラ」


 恐る恐る顔を上げる。張り付いたような笑顔が逆に気味が悪い。切れ長の目が僕を捕えると、口角をさらに吊り上げた。


「何か、僕にご用でしょうか」


「えぇ。少し私に時間をいただけませんこと?」


 渡り廊下を逆に戻り、僕は女王様の後ろを追った。いいえ、とは言えなかった。冷酷な瞳が、全身からあふれ出るどす黒い何かが、僕の体を動かしてしまった。


 着いたのはハッセン様の自室。どこからか漂う甘い匂いに、思わず顔をしかめた。

 広いお部屋にはたくさんの魔術書が所狭しと並び、夕刻の鮮やかなオレンジを遮るように、窓には布がかけられている。

 机の上には怪しげな薬品類が並んでいる。魔術具によって全てが見えて余計に不気味に見えた。


 ハッセンは蛇と林檎が豪華に彫られた椅子に腰かけ、その後ろに布がかけられた大きな何かが、風もないのにゆらりと揺れた。それを皮切りに、赤い唇から言葉が連なる。


「私は見ての通り魔術師です。自身の若さも自分で調整できる身。だからこそ、私は最近ある事実を突き付けられてしまったのです」


 座っている彼女と、立っている僕。ただそれだけなのに、その場に立って息をするだけの、玩具にされてしまったように動けずにいた。


「真実のみを告げる鏡は、毎日毎日私を美しいと告げました。しかし、ある日を境にその口で紡ぐ言葉を変えたのです。何といったかわかりますか」


 杖を握る拳の力が強くなった。爪が手の肉に食い込んでいるのがわかる。そして顔は憤怒に染められていた。

 塗りたくった顔を、どこかに落としてきてしまったのだろうか。

 後ろの布を徐に剥がして見せた。人間がすっぽり入ってしまうほど、大きな鏡がそこにあった。

 何か装飾が施されている訳ではない。ただここに存在しない誰かが、中央に写りこんでいるのがわかる。白い布をすっぽりかぶり、表情までは窺えない。


「鏡よ鏡。この世界で一番、美しいのはだあれ?」


「はい、それはテレジーナ様でございます」


 男とも女とも取れる声だった。はっきりと伝える事実。

 それだけで目の前でわなわなとふるえる彼女には、とても重い言葉となって突き刺さったのだろう。


「これが! これが真実! あぁ忌々しい。あの女を葬ってもまだ足りぬ。私が美しさの全てでないと受け入れぬ! あぁぁああぁ!」


 こいつは、魔女だ。僕の心はこの魔女に掴まれてしまったのだ。

 目の前で咆哮を上げる、醜き魔女。魔女は魔術師と違い、人の命を奪う。

 心を悪に引き渡した愚かな種族。顔の筋肉が強張り、目も背けられない。

 最初に顔を合わせた時、確かに感じたあの感情は、何も間違っていなかったのだ。


 この女はマルゼッタ様を葬り去り、国王陛下に開いた大きな穴に、まるで蛇のように入り込んだのだ。

 しかしながら、僕にはどうする事もできない。しがない猟師になにができよう。敵を取ろうと思える程、僕に覚悟も勇気もなかったのだ。


 一息つくと、瞬く間にハッセン様は元のお顔に戻られていた。廊下で会った時よりもさらに黒い物を纏って。


「キトラ。お前に一つ命令を下す。テレジーナの心臓を私に捧げなさい。そうすれば貴方には何もしません。家族にも、ね」


 背筋に毛虫が這い上がるような感覚を覚える。何もしていないのに息が上がる。冷や汗が浮いて止まらない。


「やってくれると信じていますよ。貴方の腕は、宮廷付きの猟師の誰よりも良いと聞きます。きっとそれは、二人の息子にも遺伝している事でしょうね」


 緊張は解かれない。蛇の目で笑う目の前の女性に、吐き出すように言葉を放った。


「仰せの、ままに」

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