09. ガールズ・ビー・アンビシャス

「はい、終了。お疲れさま」

 チャムちゃんが掃除機のスイッチを切り、そのまま掌をひらりと返すと、掃除機は何処いずこかへと消え去った。同時に、弥々子ややこの手からも、用なしの雑巾が飛び出して、ひらりと何処かへ飛んでいった。


「ほら、ごらんなさいよ。キレイに片付いたじゃない」

「……」

 ふん、と弥々子はソッポを向いたが、確かに部屋中ピカピカで、キレイに片付いていた。とにかく早く終わらせたいと思っているうちに無心になっていたが、こうやって改めて見てみると自分で驚く。


「悪くないでしょう? サボってちゃ分からないことよね」

「……」

 弥々子は答えなかったが、それでもチャムちゃんは、ニヤリと勝者の笑みを見せていた。ただ、先ほどまでの小意地の悪さはナリを潜めた、勝ち気ながら愛らしい笑みだ。


「はい、どうぞ。上着と鞄ね。お帰りは玄関を出て、門の前で、ジャンプして。あ、扉はちゃんと閉めること。分かった?」


「……」

 黙って受け取って、出て行こうとした時、玄関でもう一度、弥々子は呼び止められて振り返った。


「あ、そうそう、やっこちゃん。悪くないと思うわよ、『チェコで修行して世界一の人形作家になる』だっけ? 元気と根性はあるみたいだし、案外、細かいところにこだわるし。あとはまあ、語学と経験よね? 頑張れー」


 玄関脇のニッチに飾られた木彫りの人形を手に取り、チャムちゃんは悪戯っぽい蠱惑的な笑みを浮かべた。


「な、何で、やっぱりそれ……!」


 明らかに、弥々子は動揺していた。

 チャムちゃんの掌でトコトコ動く人形を、弥々子が見間違えるはずがない。

 それは、日本人でありながら、単身、チェコで修行し、人形作家として近年では、老舗デパートのショーウィンドウを飾るまでになった女性作家の作品の一つ——弥々子の憧れ、そのものだ。


「展示会も、通い詰める程のファンだもんねえ?」

「うぅ……」

 真っ赤になった弥々子を、小さな木彫りの人形がトコトコ飛び跳ねながら、手を叩いて送り出す。

(くっそ、かわいいな……っ)

 声には出さなかったが、表情からダダ漏れだ。そんな弥々子の様子をニヤニヤ眺めながら、チャムちゃんは手を振った。

「じゃ、ばいばーい!」


「あんた、えっとチャムとか言ったよね。覚えてろよ!」


 言われっぱなしでたまるかと、何とか絞り出した悪態だが、チャムちゃんは亜麻色の髪をふんわりとさせて、小首を傾げただけだった。


「やっこちゃんの夢が、人形作家になるってことを?」


「——〜〜。もう、いい! あんた、やっぱりムカツク!」


 弥々子は結局、最後までカッカと沸騰しながら、わーっと叫んで出て行った。荒々しく閉められたドアが、痛そうにのを見ながら、チャムちゃんは掌の人形を見つめて呟いた。


「やれやれ。やっこちゃんは、まだまだコドモねぇ」


 チャムちゃんの掌で、木彫りの人形はトコトコと、可愛らしく飛び跳ねながら手を叩く。ニッチに戻すと、人形は再び元のように、お行儀良く座り直して静かになった。


「さて、っと」

 リビングに戻ったチャムちゃんは、そこらじゅうを漂っていた大量のマクラを、窓を開け放して放り出す。

 自分のマクラ以外は全て、魔法通り五時三十一分の『チャムちゃんのマイホーム』から解き放たれて元気に飛び出し、それぞれの家へと帰っていった。


 それを見届けると、チャムちゃんは三度みたび、しゅるしゅると幼く縮んだ。スペッタン、スペッタンと大きすぎる室内履きの間抜けな音を立てながら、ピカピカに磨かれたリビングのガラス格子の扉を開ける。


「ふー。やっぱ、この方が楽だに。今日は疲れたから、もう寝るに」

 新品同様に蘇った自分の大きなマクラを抱えて、チャムちゃんは、二階へと上がっていった。


 調度その頃、深呼吸をして「せーの」で時計回りにジャンプした弥々子は、無事、本物の我が家に帰り着いていた。

 表札も、ちゃんと『佐藤』で、父親から順に名前が続いている。どういう仕組みか、からくりかは分からない。とにかく帰宅できたから、ひとまずは良しとした。

「ただいま」

 ガチャリと扉を開けると、見慣れた光景が出迎えた。


 ごくありきたりな突板の下駄箱の上には、ごちゃごちゃと判子や自転車の鍵やらが、無造作にトレーの上で散らかり、少々くたびれた玄関マットが敷いてある。

 奥に見える化粧合板のリビングドアには、細いスリットガラスが嵌め込まれた、やはり、ありきたりな扉だった。

 そして、カレーの匂いが漂っている。


「遅かったじゃない、弥々子。どうしたの?」

 キッチンから、ひょっこりと母親が顔を出した。いつもの光景だ。


「うん。——担任に、呼び出された。進路希望のことで」

 不思議の世界に迷い込んでしまったことは、あえて伏せた。信じてもらえるはずもないし、自分自身も、未だに狐につままれたような心地なのだ。


「あのね、お母さん。そのことで、話があるんだけど」

 意を決して、そう告げると、母親は、じっと弥々子を見つめてから一度だけ頷いた。

「良いわよ。夕飯の時にする? お父さんにも話した方がいいでしょう?」

「——うん」

 そう答えるだけで、緊張で、喉の奥がキュッと締まった。


 父親の帰宅を待ち、少し遅れた夕飯の席で、弥々子はまるで断罪でも待つかのような面持ちだ。無性に泣きたいような気分で、拙いながら、何とか自分の希望を言葉にした後の食卓は、随分と重苦しい沈黙に包まれた。


 父親の吐いた溜息に、びくりと肩をすくませた弥々子が、俯いたまま黙っていると、続いた言葉には妙な感慨が滲んでいた。

「血は、争えんなあ」


「え……?」

 思ってもみなかった言葉に、顔を上げた弥々子が見たのは、怒っているわけでも落胆しているわけでもないが、どこか複雑な表情の両親だった。


「大伯母さんの影響かしらね。小さい頃から、日本に帰る度に可愛がってくださっていたから」


「ああ、豪快な人だからなあ」

 頭上に、大きな疑問符を掲げる弥々子の困惑顔を見て、母親が席を立ち、リビングボードをごそごそしたかと思うと、何かを手に戻ってきた。


「ほら、この人。覚えてない? 弥々子、小さい頃はよく懐いて、どこに行くにもついて回っていたのよ?」


「自由な人だからなあ。今は、西海岸にいるんだっけ?」


「いやだわ、あなた。半年前にオーストラリアに移住したって、葉書が届いていたじゃない」

 差し出された絵葉書には、外国ナイズされた妙にテンションの高いおしゃれな老婦人が、コアラを抱っこして写っている。

 そして弥々子は、びっくりしたまま呟いていた。


「え? 大伯母さん……? あたし、ずっとこの人が、おばあちゃんだと思ってた」


 おばあちゃん不幸な孫の発言に、父親が苦笑いを浮かべながら「さすがに、お袋が泣くぞ」と零したのだった。

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