05. ここでは これが日常
マグカップは、二人の目の前でガタガタ震え続け、しまいには卓上に留まらず飛び跳ねて、そこら中にぶち当たり散らす。
「わっれ、ゴルァ! 今、何ぬかしよったんじゃ、このボケェがぁ——っ!」
マイルドなクリーム色だったはずのカップは、すっかりドスの効いたお怒り模様に変わってしまい、しかも、とてつもなく柄が悪い。
「な、なん……っ、え…… !? 」
「ほーらあ。早く謝るだに!」
チャムちゃんは、帽子を目深に被って飛散するお茶をガードしながら、硬直して青ざめる弥々子に言い募った。その間も、柄の悪いマグカップは、そこら中に当たり散らして喚き立てている。
「やんのか、ゴルァ! かかってこいやぁ、おおん !? 」
ガシャ、ガシャ、ドスン、ドスンと、品の欠片をとっ散らかして、とにかく、やかましいこと、この上ない。
「ご、ごめんなさい……」
その、あまりの柄の悪さに、口の悪いお年頃である
「な、何なの、これは……」
非常識と非現実が、ごちゃ混ぜになって目の前に溢れている。弥々子の心臓は、三倍速で爆動中だ。
「別に驚くことはないだに。ここでは、これが日常だに」
帽子を押し上げ、ふーっと息を吐いたチャムちゃんは、そのまま余裕
「まあまあ。冷める前に飲むだに。お茶に対する礼儀だに」
焦れる弥々子に、再度「短気は損気」と告げたチャムちゃんの、どうしたって変わらないマイペース加減に押し切られ、仕方なく弥々子は、半分ほど中身の減ったマグカップに口を付けた。
飲み干して、弥々子は「これで文句ないだろ」と言わんばかりに口を開く。
「それで、どういうことなの?」
ボトルが羽を生やして空を飛んだり、マグカップが罵ったり、挙げ句の果てに時間が番地で「魔法通り」ときた。まるで、わけが分からない。
弥々子にとって、突然、目の前に現れた異常な世界の住人であるチャムちゃんは、平然と言う。
「さっきも言ったとおりだに。ここでは、これが日常なんだに。まあ、時々いるんだに。普通に、魔法通りに入ってきちゃうヒト。理由も時期もバラバラだけど、たいてい来るヒトは、不幸どん底が多いだに」
テーブルに肘をついて、小さな両手を目の前に組んだチャムちゃんの、深い青色に茶褐色と緑が入り混じる
「え……」
つまり、チャムちゃんに言わせると、弥々子は不幸どん底だから「魔法通り」に紛れ込んだということだ。ミもフタも、遠慮のカケラもない無邪気な言葉が、この時ばかりは、ずっしりと弥々子の腹を抉った。
「それは……」
佐藤さん——と切り出す担任の言葉が、弥々子の脳内を無限に埋め尽くす。
「……」
先生、一緒に考えてあげるから。あなたは、やれば出来る子だって、先生ちゃんと分かっているから。ねえ、佐藤さん——。
「……っ」
過ぎた時間に、今更反論する気力もなく、ただ両手を膝の上で握り、俯く弥々子の肩に、小さな手が伸びてきて、軽くポンと叩く。
弱々しく顔を上げた弥々子の視線の先で、とんがり帽子をくいっと持ち上げたチャムちゃんが、フジ○のペコちゃんを彷彿とさせるキラリお目目と口元で、ぐっと親指をおっ立てていた。
「まあ、気楽にいこうや」
慰め方が、あまりにも雑だ。
「いけるか、ばかぁ——っ!」
虚を突かれた刹那、弥々子は怒りの咆哮を上げた。元凶である「不幸どん底」発言の主にだけは、言われたくないという憤りだ。
「えー? 無理かに?」
何で怒るか分からないと言わんばかりに、ぷーっと口を尖らせて、チャムちゃんは小器用に、片方だけ眉を
「あんたは! 『不幸どん底』って言われて、気楽にいけるの?」
そこら中に、怒りマークを散らしながら問う弥々子に、ようやくチャムちゃんは合点した様子だ。小さな両手をポンと打って、軽快に答える。
「うん、無理だに!」
(こいつ……っ)
あっさりと掌を返すチャムちゃんの、減塩甚だしいライトで薄味な反応に、弥々子は再び膝の上で拳を握る。いっそ、一思いに殴ってやろうかと思った直後、何かが、弥々子の後頭部を直撃した。
「な……っ !? 」
ぼっすんと、柔らかいながら結構な衝撃を食らい、反動で額をごっちんとテーブル天板に打ち付けた。
「何……、今の……?」
打ち付けた額が、ヒリヒリと熱を持つ。
「マクラだに」
チャムちゃんは、大き過ぎてずり落ちる帽子を都度、押し上げながら、さも当然とばかりに言い放つ。
「は……? マクラ……?」
「そう。マクラだに」
うんうん、と頷きながら答えるチャムちゃんは、先程と同じように大真面目だ。しかし、弥々子の常識では、そもそもマクラは飛んだりしない。
「あのねえ——」
からかうにしてはタチが悪い。
それでなくとも、今日は気分の落ち込みがひどい日なのだ——とうとう頭にきた弥々子が、小さなチャムちゃんを捕まえようと手を伸ばした時、今度は正面から、ぼっすんと重量感のある衝撃が飛んできた。
「なぁ……っ !? 」
顔面直撃で、弥々子が後ろにそっくり返った時、チャムちゃんは、マクラの端っこに飛びついて、そのまま床に押さえつけた。
「えっ、ええっ !? 」
鼻頭を押さえながら、体勢を立て直した弥々子が見たのは、チャムちゃんが、リビングの床でジタジタ暴れるマクラに馬乗りになり、やがてマクラが観念して大人しくなる——という一連の非常識極まりない光景だった。
マクラが、完全に大人しくなるまで見届けたチャムちゃんは、ようやく「ふーっ」と額を拭いながら嘆息する。
「やっこちゃん、大丈夫かに? ここでは、マクラは空を飛ぶんだに。だから、夜逃げられると大変なんだに」
マクラが空を飛ぶという非常識発言もさることながら、この時の弥々子に引っかかったのは、その前に呼ばれた名前の変化球の方であった。
「や、やっこちゃん? それってまさか、あたしのこと?」
「他に、誰がいるんだに」
柄の悪いマグカップに怒鳴り散らされ、ライナー性のマクラの当たりを顔面に受けたあと、今度は、いつの間にか、心の垣根の低いチャムちゃんに、おかしな愛称を付けられていた。
もう、お腹いっぱいだ。
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