第19話 血の木立

 地面が蠕動している。

 それが紅い刃が突き刺さった根元からの振動であることを、リディアは他人ごとのように感じた。意識が朦朧とし始めている。

 振動は次第に大きくなる。そして、その揺れに合わせて、リディアは感じていた。自分の内から、何かが競り上がってくる感覚。先ほど血を吐いた、その時に抱いた感覚とは明らかに異なる、液体でも個体でも気体ですらもない、何か。

 それは、あの日以降、自ら死を選んで、自らの身体を傷付け、死の縁に立つと、必ず訪れる感覚だった。


「……我は……魔剣……」


 ゆらり、とリディアは身を起こす。鼓動するように明滅を繰り返している紅い刃を、砦の石床から引き抜く。


「その力……汝が肉体に宿りて、全てを制さん」


 息を吐き出すように、リディアの口からごく自然に言葉が漏れ出した。だが、リディアはこんな言葉を知らなかったし、自身、言葉を紡いでいる感覚がなかった。


「我は『統制者』」


『統制者』

 それが、この剣の名。

 そして、いま、リディアの内から競り上がり、。 


「いま……」


 瞬間、視界が回った。

 自分では走り出そうなどとは思っていない。だが、リディアの身体は、これまでの数倍近い速さでシャーリンに迫り、跳躍し、その速さに追い付くことができずリディアを見失ったシャーリンの背後に、空中で逆立ちする形に移動した。


「実体とならん」


 その言葉を口が紡いだのと、リディアの意識とは別に、紅い刃が振るわれたのは、同時だった。紅い刃は慌てて振り向き、身を捻って避けようとしたシャーリンの左目を貫き、引き裂いた。

 シャーリンが獣の咆哮を上げ、跳ねるように床に倒れ込んだ。そのシャーリンに向かって、。当然、それはリディアの手にある紅い剣ではない。だが、それは全て、紅い剣によるものだった。

 リディアが足を着けている石床から、幾人もの血が混ざり合った紅い液体が、帯のように伸びていた。文字通り、血溜まりと化していた砦の床に、幾筋もの血の道が現れ、宙に浮き上がる。そしてそれらは全て、倒れたシャーリンに向かった。その先端は、鋭利な刃物の形をしていた。

 こうなっては、終わりだ。リディアの意識は、他人事のようにその常軌を逸した光景を見ていた。紅い魔剣『統制者』が目覚め、リディアの身体に憑依した。間も無くリディアの意識は消え、『統制者』は標的にした魔剣を破壊するまで止まらない。次にリディアが目を覚ました時には、全て終わっているはずだ。

 リディアはそれを確認して、意識を『統制者』に明け渡そうとした。目を瞑ろうとした、その時である。リディアの視界に、人影が映った。


「リディア!」


 ゴドウィンの姿だった。騎士の経験か、傭兵としての勘か、シャーリンの魔剣が生み出す冷気の場には踏み込まない位置にいたものの、その場からは退かず、シャーリンが打ち漏らしたイシス兵士を相手にしていた様子のゴドウィンが、リディアに向かって叫んでいた。

 早く退け。リグの騎士団と一瞬に逃げろ。リディアは完全に明け渡そうとしていた意識を、寸でのところで踏み留まった。父の逃げる時間を、少しでも稼ぐ。その為に、『統制者』に抗う必要があった。

 しかしその結果、倒れたシャーリンに向かって伸びていた紅い血の刃が、硬度を失って石床に落ち、液体に戻ると、再び血溜まりを広げた。シャーリンはその機を逃さず起き上がり、間合いを広く取った。左手で左目を押さえつけていたが、その指の間からは止めどなく血が溢れ出ている。


「くそ……くそっくそっくそっ!」


 シャーリンが吐き捨てる。叫びを上げたのと同時に右手の魔剣を振り上げたが、その手首を紅い触手が絡め取った。血溜まりの一部から伸びた血の帯は、シャーリンの手首を子どものそれのように、簡単にへし折った。

 シャーリンが絶叫し、魔剣を取り落とした。その瞬間、リディアの意識がぐらり、と揺らいだ。『統制者』の力が一気に吹き出し、抗うことが困難になる。それに合わせて床の上の血の池が変化し、無数の筋道を作る。同時にリディアの身体を宙に浮き、リディアを幹として枝葉を伸ばす血の木立が現れたかのように、砦の中に屹立した。

 まだだ……もう少し……!

 リディアはほとんど自由の利かない視界で、ゴドウィンの姿を改めて見た。先ほどよりは下がってくれていたが、まだ戦っていた。早く、早く退いてくれ。リディアがそう願う間に、血の木立が伸ばした先端の鋭利な枝葉が、ゴドウィンと対峙しているイシス兵士たちを次々と串刺しにした。他方、シャーリンが取り落とした魔剣に、血の枝葉が押し寄せて確保すると、中程から叩き割り、折り曲げ、単なる鉄塊に変えてしまう。

 早く、早く退け。頼むから……!

 リディアの意識が遠くなる。もう、抗うことはできない。その最後の一瞬にリディアが見たのは、『統制者』が生み出した血の枝葉が、ゴドウィンに向かって何本も伸びる光景であり、そのゴドウィンと枝葉の間に飛び込んで、ゴドウィンを庇い、無数の紅い刃に身体を貫かれた、ミルダの姿だった。

 リディアは、絶叫した。

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