第6話 獣
その夜のことである。ミルダの忠告が、現実のものとなったのは。
野営地では、騎士団側から夕食と酒が提供された。傭兵たちは集まってそれを食したが、酒を煽って叫ぶ大人たちの群れには、リディアは付き合いきれなかった。夕食を終えると、早々に傭兵の寝所となる天幕へ下がった。
天幕は、傭兵を雑魚寝させることを想定した大きなもので、三つ作られていた。リディアはそのうちのひとつ、明るいうちにゴドウィンと決めて、荷物を置いた天幕に入った。
星の明るい夜だったが、天幕の中まで光は届かず、明かりもないのでひどく暗かった。人の気配はなく、しん、と静まり返っていた。
ぶら下げられた燭台に灯りを、とリディアは考えたが、どうせ眠るだけだ、とその考えを捨てた。自分とゴドウィンが荷物を置いた位置はわかっている。暗くても大丈夫だ。そう思って、リディアは闇の中を進んだ。
ふっ、と酒の臭いを感じた。
誰もいない、と思っていたが、誰かいたのか。声こそ上げなかったが、リディアは肝を冷やした。
その次の瞬間だ。リディアは右手の手首を、大きな手に握られた。そのまま力任せに引っ張られ、半ば宙に浮くと、天幕の床代わりの固い敷物の上に叩き付けられた。
何が起こっているのかもわからず、頭を強く打って朦朧とする意識の中で、相手の大きな影がのし掛かり、分厚い手が、自分が纏った外套の中に滑り込んで来るのがわかった。ズボンを引き裂かんばかりの力で引っ張られたところで、リディアは反射的に腰の剣を抜いた。
だが、剣を抜いた左手を、大きな影が踏み潰して、身動きを奪う。獣のような荒い、酒臭い息が、リディアの顔に降り掛かった。
リディアはその一瞬で、二つのことを思った。ひとつは、ミルダの言葉だ。気を付けな、坊主。戦地での男色は傭兵の嗜み、みたいに考えてやがるやつもいる。そう言った元山賊頭の言葉の意味。
そしてもうひとつは、視線だ。リディアは自分を見ていた視線を思い出した。人とも思えぬ巨漢の男。あの男が浮かべていた気味の悪い笑み。その気味の悪さは、奇妙な熱っぽさがあった。
あの男だ。リディアは理解したが、両手を封じられ、自分の倍はある男にのし掛かられた状態では、成す術がなかった。男色は傭兵の嗜み。そう言ったミルダの言葉がもう一度浮かび、顔のすぐ近くまで、顔の醜い顔が近づいた。
ふざけるな。
これ以上『リディア』を汚すな。
リディアの中で、何かが音を立てて切れた。両手を封じられた状態で、リディアは上半身の反動だけで、迫った男の鼻柱に額を叩き付けた。ぶべ、という息の漏れ潰れる音がして、男が仰け反る。その一瞬、隙が出来たのは右足と、剣を持った左手だった。右足を振り上げ、のし掛かった男の股間に膝を打ち込む。男がさらに別の方向へ揺らいだ瞬間に、リディアは男の拘束を逃れると、左に持っていた剣を投げて右手に持ち変え、躊躇なく横薙ぎの一刀を見舞った。
闇の中、天幕の間から漏れる星灯りの下を、リディアの剣が走った。星灯りを反射させた銀色の光は、男の顔を捉えた。鼻先を抉るように斬り付けた。だが、手応えは浅い。
ふー、ふー、と男が興奮した息を吐く。その傷さえ、その血さえ、リディアの抵抗さえ、性の興奮だと言いたげな男が、血塗れの顔で、あの気味の悪い笑みを浮かべる。リディアは背筋に冷たいものを感じた。こいつは、異常だ。酒に酔っている。それもそうかもしれない。だが、それだけではない。こいつは元々、完全に理性の
男が再びリディアを拘束しようと飛び掛かってきたところで、リディアは絶叫した。何を叫んだか、それは覚えていない。とにかく、宵闇に落ちた騎士団の野営全体に響き、バカ騒ぎする傭兵たちにも聞こえるほど、それは大きな大きな、絶叫だったはずだ。
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