第39話 [番外編] イーサンのオランジェット
イーサン様にお渡しする絵を描いている。
修正を入れたくなるが、そうすると実物が見劣りすることになるので見たままを描いていく。
先月、初めてイーサン様とふたりで食事に行った。
ドゥモン侯爵家とノージ子爵家の顔合わせのため、イーサン様はご両親と共に王都に来て、しばらくテグペリ公爵邸に滞在していたのだ。
イーサン様とは、学院を卒業してから婚約するまで、一度も会っていなかった。
一時期─ジョルジュ殿下と男爵令嬢、そして私の噂が世間を騒がせていた頃─私はテグペリ領サンジュの領主館に滞在していたが、イーサン様はお仕事でテグペリ領内を回っていて、お会いすることはなかった。
休憩して、今日イーサン様から届いた手紙を読み返す。
内容は、今どこにいるとか、名物の何が美味しかったとか、たわいない事だ。
イーサン様らしい伸びやかな字。手紙を書くのは苦手だが頑張って書いている、というのが伝わって、温かい気持ちになる。
◇◇◇
学院の卒業パーティで、私はひとりだった。
殿下にエスコートのお願いはしなかったし、殿下が男爵令嬢と入場されるのを見ても、特に悲しいとも思わなかった。
…周りが私を気の毒そうに見るのが辛くはあったけれど。
私がひとりで卒業パーティに向かうことを知って、兄がエスコートを申し出てくれたが、兄まで同情の視線に晒したくなくて断った。
殿下に一番腹を立てたのは、意外なことに兄だった。
殿下に相手にされない私に嫌味を言うかと思っていた。自分が私を貶すのは良くても、他人が私を貶めるのは我慢ならないらしい。
兄は口の悪さを遺憾なく発揮し、殿下と男爵令嬢を扱き下ろした。冴え渡る悪口に笑ってしまったほどだ。オリビア様に聞かせてあげたかった。
笑う私を見て兄は「何笑ってるんだ!」と更に怒っていたが。
卒業パーティで殿下方と同じくらい視線を集めていたのが、トリスタン様とオリビア様、そしてアデル様だった。
アデル様はいつもの男装ではなく、光沢のあるベージュのドレスをお召しになっていた。
リボンもフリルも刺繍もないドレス。アクセサリーはアメジストのネックレスのみ。それでも、会場の誰よりも美しい。
イーサン様は、アデル様をエスコートしていた。
あんなに美しいアデル様を見慣れていたら私なんて、と思ったところで思考を止める。
何を馬鹿なことを。
在学中、イーサン様と話したのは五回だけだ。初めて絵を見せた時、その翌日、改めて雅号を付けてもらった時、トリスタン様の絵の進捗の連絡、その絵をお渡しした時。
毎回話した時間はそう長くなかったが、イーサン様は話しやすい方だった。自然に笑えた。
たまにイーサン様の姿が見られるので、学院に通うのが楽しくなった。イーサン様を見ることができた日は、幸運を喜んだ。
イーサン様がパーティ会場で友人達と笑っているのを遠くから眺め、目に焼き付ける。
卒業したら、もうイーサン様に会うことはないだろう。
この先修道院に行くことになっても、私は折に触れ何度もイーサン様を思い出すに違いない……。
◇◇◇
そう思っていたのだが。
殿下との婚約解消に、イーサン様を巻き込んでしまった。
大変申し訳ないと思うのに、イーサン様の婚約者になれたことが嬉しい。私は利己的な人間かもしれない。
全て私の妄想ではないかと心配になったこともあるが、現実に初めてふたりで食事をし、今、私の目の前でイーサン様が食後のお茶を飲んでいる。
幸せだ。この巡り合わせに感謝している。
「えーっと、自画像って描かねえの?」
「描きませんね」
自分の顔なんか描く気にならない。
「オリビアがトリスタンの絵を欲しがるのがわかったっていうか、俺も欲しいんだけど」
「トリスタン様の絵ですか?」
「トリスタンの絵なんかいらねえよ。クロエの絵だよ」
クロエ。初めて呼び捨てされた。
嬉しい…。
「地方にいることが多くて、あんまり会えないと思うし、その、クロエは絵が上手いから」
…イーサン様も、少しは私と同じ気持ちでいてくださると思っていいのだろうか?
「じゃあ、私もイーサン様の絵を描いて持っていてもいいですか?」
実はもう持っている。毎日見ている。気持ち悪いと思われたら嫌だから黙っていたが。
「もちろん」
イーサン様がわかりやすくご機嫌になった。
◇◇◇
鏡を見ながら自画像を描き、最後に『オランジェット』と雅号を入れる。
イーサン様は雅号を花の名前か詩歌からとろうとしたそうだが、どれがいいかさっぱりわからず、自分の一番好きなお菓子の名前にしたとのことだった。
私の焦げ茶色の髪と目がチョコレートみたいだからとイーサン様は言った。私は自分の髪と目が好きになった。
イーサン様といると、好きなものが増える気がする。一番は、きっとずっとイーサン様だけど。
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次話 [後日談] スイちゃんとラフさん
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