第34話 強く烈しく

「矜……持」


 勇者は去る。静かに。その裏で鳴り響くのは黒い獣の鼓動。存在を『喰らう』獣の脈動。


 ギルバートの足は動かない。踏ん張って立つための腕も今や一つだけだ。


 だが、彼の胸中には何かが現れた。勇者の言葉。顔向けできるか、という問い。矜持の審問。


「お…れは…」


 ギルバートは後悔した。一度は決めた覚悟が、恐怖によって塗り替えられ、また振り出しに戻ったこと。ゴブリン殲滅の真相を知るまで死ねない、と心に誓ったのに。強者の庇護、安寧を求めて己の信念を裏返してしまった。


「何が…『助けて』…だ。勇者の言うとおりじゃないか…。俺は…俺は魔族…。何で俺は人間に…あまつさえ勇者に頭を下げた…?」


 黒い獣が短く唸る。大きく開かれた口から、存在を破壊する刃が覗く。


「俺に…生き残った最後のゴブリンとしての価値があるか…こんな醜態を晒して…!!俺は…保身に走って魂を売り渡した…!!」


 勇者の後ろ姿は遠く。燃える木々の中で残影が揺らめく。


「こんな俺が…今のままじゃ…こうやって這いつくばってるままじゃあ…死んでいったクルグや…故郷のゴブリンたちに…」


 ギルバートは勇者の背中を追うのを止めた。そして、一度は背を向けた怪物に向き直る。見るべきものは、目を向けるべきものは去っていく幻想じゃない。ここにある現実だ。


「顔向けなど出来やしねェだろうがよーーーーーーッッ!!」


 黒い怪物の口から、塊が放たれる。風を切り裂いて、それはギルバートの肉を喰らう牙へと姿を変える。


「うォおおおおおおーーーーーーッッ!!」


 挫かれた足。存在しない右腕。迫る死の弾丸。


 今度は立ち向かう。


 麻痺した足を引き摺り、大地に片膝を立てる。絶望的な状況でギルバートは身体を捻り、残った隻腕を、強く、烈しく目の前の空間に打ち出した。


「死にたくない…そんな願望は葬り去るッッ!!死にたくないんじゃないッッ!!俺は死ねないんだッッ!!同胞の亡骸は俺を見張っているッッ!!俺がゴブリンの遺志を背負うに足るか試しているんだッッ!!こんなところで死んでたまるかァッッ!!」


 空間を打つ拳。衝撃に揺れる風。


 たった一匹のゴブリン。矮小で醜く、卑しい魔族、ゴブリン。


 幾数の亡霊を乗せ、亡骸を背負い、放たれた魔族の拳は、空を貫いた。


「うァああああああーーーーーーッッ!!」


 拳から放たれた衝撃が伝播して空間を揺らす。


 鳴動。大気が唸り、蛇のようにうねる。


 ギルバートの拳を取り巻くように巻き起こった旋風が、怪物の放った弾丸に喰らいかかるように放たれる。


「ぎィッッ!!」


 唸る豪風が怪物の弾丸を切り裂いた。それだけでは飽きたらず、獣のように吼える風は、穿岩機ドリルのように回転し、怪物に襲いかかる。


「ぎィい…ッッ!!」


 異様な気配を感知した怪物は大きく跳躍して、風から距離をとろうとした。


 だが、逃れられない。


 回転する鋭い刃は、怪物の逃避を許さない。


 跳躍の寸前、力強く踏ん張った怪物の脚を風が貫く。


「ぎッッ…!!」


 四本の脚のうち、一本が吹っ飛ばされた。切断面からはどす黒い液体が止めどなく流れ出していた。


自身の拳から放たれた烈風の衝撃。ギルバートは左腕に甚大な痺れを感じつつ、驚愕した。


「なっ…何だ…?何かが…俺の拳から現れたッッ…!!」

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