第32話 霧散

 剣の柄が急所に食い込む。仮面の男メレノは、蛙のような声をあげて地面に膝を突いた。


 ギルバートはよろめきながら立ち上がり、仮面の男の首に刃を突きつけている、もう一人の男を見た。


(この男が…勇者…!)


 勇者。魔族の宿敵。永遠の仇。この男が、今、俺の目の前に立つこの男が。


 ギルバートの身体は無意識にうち震えていた。圧倒的な強者が放つ空気。殺気のような、下卑た雰囲気では決してない。対峙する者を孤立した一つの空間に放り込み、自ずからその戦意を喪失させる。そんな巨大な意識。


「……」


 ひしゃげた鼻から止めどなく流れ出る血を押さえながら、ギルバートは勇者を見ている。黒い指に掴まれて挫いた足が疼く。勇者は、ただ黙っている。


「ぐぅえほッッ!!げほッ…げほッッ!!」


 鳩尾を押さえて頭を垂れるメレノ。喉奥から沸き上がる血液の味は、彼を苛立たせた。


「メレノ・アステリアス。王の民を煽動し、何をするつもりだった?ゴブリンの殲滅は陽動に過ぎないのだろう。エルメェルと何を謀っていたのか…吐いてもらおう」


 勇者は刃の先鋒をメレノの首筋に当てた。


 メレノは口を歪ませた。だが、その口元は、屈辱にまみれたために歪んだのではない。奇妙な微笑み。それが、メレノの口元に張り付いていた。


「どうもこうも無いなァ…!!勇者サン…!!今さらこんなことやってももう遅いんだよ!!歯車はもう動き始めた…!!多少油を除こうが…もう止まらないんだよ…!!アンタの時代はオシマイなんだ…『勇者』が絶対の時代は今日で終わりなんだよォ!!」


 刹那。勇者の剣が横に払われようと動いたその間隙を縫って、メレノの背中からあの、黒い怪物が飛び出した。


「この身体は快適だった…が…もうお別れだ…!!しかし…しかししかししかししかしィッッ!!僕は蘇る…!!新たな肉体を得て…貴様を超越して蘇るのさ…!!新時代の到来を…何も出来ずに見ていればいい…『旧世代』の勇者よ…!!」


 黒い怪物は空中で反転し、メレノに飲み込まれるようにして、その口内に潜り込んだ。


 メレノの身体が次々と隆起する。骨を突き破り肉を切り裂いて、黒い槍のような突起が彼の身体を突き抜ける。


「また会おう…勇者ァ…」


 メレノが笑みを浮かべると同時に、その身体が破裂する。


 メレノの体を喰い破って、中から獣のような何かが現れた。


 蜘蛛のような足で四つん這いになったそれは躍動し、突っ立っていたギルバートに襲いかかった。


「うわァッッ!!」


 ギルバートに飛びかかった黒い獣は、彼に向かってどす黒い何かを吐き出した。


「え…?」


 次の瞬間。その塊は鋭いやじりのような形になった。


 直撃を避けようとしたギルバートの右腕にどす黒い鏃が突き刺さる。


「あ…」


 黒い牙は、ギルバートの右腕を侵食していった。指の先から肩の辺りまで、黒い斑模様が一瞬にして現れる。


 そこから、一瞬だった。


 彼の腕は風に吹かれた灰のように、虚しく、儚く、空間に溶け込むようにして





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