第8話 悪魔の翼が開く時

 悪魔は、何時でも人間に絶望をもたらす。例え、人間が幸福の絶頂にいようとも、それを歪めて絶望のどん底に叩き落とすことができる。


「なん…だ…?こレ…?」


 悪魔は、何時でも最悪のタイミングで蘇る。「お前さえいなければ」という台詞を待望して、地獄のそこから腕を伸ばす。


「なん…デ…こン…な」


 悪魔は、何時でも狡猾に謀る。最高の瞬間に最低の味付けを加えて、最悪のひとときを演出するために。


 勇者の顔から血の気が引く。首からじんわりと滲む何かに手を添えて、凍てつく指をその目で確かめれば、深紅の液体が平常心を打ちのめした。


 勇者の首に突き刺さるのは黒い刃。首もとに噛みついた二本の双剣が鮮血を吸って、妖しく輝いた。


「これ…ハ…なんでッ…!!痛い…!!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いィーーーーーーッッ!!!ぎィあああああああああああああああああああああああああああああああいだいィーーーーーッッ!!!」


 赤く染まった掌が、恍惚とした意識に痛みの味を囁いた。脳に走るのは激しい電流。眼球の中身を鉄槌で叩かれているかのように、目の内側がガンガンと痛み、視界が血の色に染まる。


「うゥッッ!!!げぼォッッ!!!げほ…げほッッ!!!」


 喉にはげしい熱がほとばしり、苦い液体が奔流のように流れ出す。髪の毛が喉奥に絡みつき、身体の内側を撫でるような不快な感触と、釘でも飲み込んだかのような激痛。両者が併存していた。


「ぎィィッッ…!!!何で…!!何でこんなことにィッッ!!!」


 喉を押さえて涙目でのたうち回る勇者。彼の前には、大きな影があった。赤く染まった視界に揺らぐ得体の知れない闇。それが、彼を見つめていた。


「破壊魔法ごと、貴様の首を刃で切り払った…。俺が死んだと油断したなッ…!負けたのは貴様だッ…!!俺の死をハナから確信していた貴様の負けだッッ!!」


「ぎいィーーーッッ…!!骸骨ッッ!!お前ェーーーーッッ!!」


「貴様が今味わっているのは…絶望だ…。己の力をおごり、他者を貶め、欲望に肥えた豚みてェな人間だけが味わえる最高級の絶望の味だ…」


 勇者の眼前に立つ黒い影。それは彼が消し飛ばしたはずの骸骨アルダシールだった。


 アルダシールに傷はほとんど無い。破壊魔法を受けた時、少し走ったひびだけが、額に黒く刻まれているのみ。それ以外は、無傷に等しかった。


「お前ェェェェッッ!!!何故僕の前に立っているッッ!?何故生きているッ!?何故僕を見下ろしているんだァーーーーーーッッ!!!やめろッやめろクズがァッ!!!薄汚い魔族ごときが高貴な僕を見下すなァーーーーーーッッ!!…うッ…!げほッ!!げほげほォッ!!」


 怒号と共に、勇者は激しく吐血する。首に大きく刻まれた傷から、止めどなく血が流れ出ていく。


 勇者は混乱した。最強だと自負する魔法。それを真っ向から受けた一匹の矮小な魔族が、まだこの世に存在している。そして、自分を見下ろしている。


「貴様はもう終わりだ…。その出血…。転生勇者といえども体は人間…。貴様に耐えられる量ではない…。下等種族だと侮ったな…」


 アルダシールは勇者に背を向けた。もはや勝負はついた、もうおしまいだ、と、無防備な後ろ姿が語っていた。


「お前がァッッ…僕をこんな目にィッ…?」


 首に滲む激痛が、正常な思考を奪い去る。代わりに湧いてくるのは激しい怒りのみだった。


「お前みたいなクズの説教なんて聞きたくねェんだよッッ!!何が驕りだよッッ!!!力を誇って何が悪いッッ!?弱いゴミどもを軽蔑して何が悪いッッ!?僕は神なんだ…!全てに優先される存在だろうがァッッ!!勝利を確信して油断しただとォ…!?今のお前もそうだろうがッッ…!僕に背を向けて馬鹿みてェに歩いているお前ごときがッ…!ゴミ虫の死骸程の価値もねェ薄汚れた骸骨ごときが神をッッ…僕を舐めるなァーーーーーーッッ!!!」


 激昂した勇者が、不意に立ち上がり、流血も構わずアルダシールの後ろ姿に躍りかかった。血走った目で、あらん限りの憎悪を眼前の骸骨に投げ掛ける。


「僕はもう死ぬッッ!!だが…お前も一緒に消し飛ばしてやるッッ!!!お前が脳ミソもなければ学習能力も無い無能骸骨で助かったよォッッ!!!僕に背を向けてッッ!!!油断してッッ!!!糞程の価値も無ェてめェのプライドのために勝利宣言ッッ!!!クズがァ…お前が存在した証などッッ…!無価値な痕跡などッッ!!跡形もなくこの世界から拭いさってやるゥーーーーーーッッ!!!」


 勇者は両の掌をアルダシールに向け、己の魔力を全開放する。『クラッシュ』。道連れのための、呪詛にも似た詠唱。吐き捨てて、開放。

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