第11話「お楽しみ」
翔が桜花と蛍の部屋を訪れると、その部屋の中には当然のことだが、桜花がいた。翔の存在を知った桜花はまぁ、と驚きの表情を見せた後、こちらへどうぞ、とばかりに手招きしてきたので、翔はそれに甘えるようにして遠慮なく上がらせてもらう。
今の翔の部屋であったところにはもう翔の居場所はなく、翔は桜花が嫌がってもこの部屋で一晩を過ごすしかなかったわけであるのだが、そうはならないようで内心少しほっとしていた。
「本当に来てくれたのですね」
「まぁ、カルマ達が約束をしていたようだし、僕も桜花に会いたかったから」
「今日一日ずっと一緒だったのに、ですか?」
「......でも桜花とずっと話せていたわけじゃないし」
翔がぼそりとそう小さく反論すると、桜花はくすっ、と笑みを浮かべ、翔の頭をよしよしと撫でた。なぜ頭を撫でられているのかはわからなかったものの、翔の何かに微笑ましいことを感じたのだろう。そういうことは最近になってようやくわかるようになってきたのだ。
翔は撫でられているままにしながらもちらっと桜花を見た。
桜花はどうやらお風呂上がりのようで、髪は湿っていて身体もどこか上気しているように見受けられる。髪の短い蛍からはあまりそうは感じなかったものの、髪の長い桜花からは風呂上がり、ということが十分に伝わってきて、見慣れているはずなのにどうにも直視しづらかった。
いや、そうではないのか。いつもに比べて直視しにくいのはその服装に原因があるのかもしれない。
旅館ということもあって、風呂上がりの服は旅館側が用意してくれた和の服装になっている。和服というのには少し簡素で浴衣というには少し地味だ。しかし、それも桜花が着れば立派に映える。
翔が見惚れていると、桜花はいつの間にか頭を撫でるのをやめていて、目の前でひらひらと手を振っていた。
「あ、ごめん。気づかなかった」
「大丈夫ですか?心、ここにあらず、というような感じでしたが」
「大丈夫だよ。桜花に見惚れていただけだ」
そう言ってしまってから、しまったと後悔した。そういうことを何も考えずに口走ってしまうからいけないのだ、と何度学んでも治せない。
桜花はその美しい瞳をぱちくり、と瞬かせた後、急にあたふたし始めた。
「あ、ちょっと私は髪を乾かしてきますね。翔くんは自由にしていてください」
「あ、うん」
脱兎の如く、というのはこのことをいうのだろうな、と翔は一人でしみじみそう思った。程なくしてドライヤーの機械音が聞こえてくる。男子の脱衣所にもドライヤーはあったので女子の方にないわけがない。しかしそれを使わなかったのは使う人が多いので遠慮したから、と蛍がショートカットのおかげで髪を乾かすという過程が必要なく、その蛍に流されるようにして、部屋にまで帰ってきてしまったのだろう。
桜花が旅行に行く前に念のため、と言ってドライヤーを持ってきていることは知っていたので、翔はそれが終わるのを退屈ながらもぼーっと天井を見つめたり、部屋の窓から見える景色を見つめたりして待った。
しかし、そうそう穏便に時は過ぎないのが人生であり、修学旅行である。
突然、ドライヤーの音が鳴り終わったかと思うと、扉から桜花がひょっこりと顔を出して、こちらにこい、と手招きしてくる。
「どうした?」
「そろそろ先生の見回りの時間です。なので翔くんはここで物音ひとつ立てずにじっとしていてくださいね」
「桜花は?」
「先生の猛攻に対応してきます」
そう言い残して、桜花はドライヤーと翔を残して居間へと戻った。すると桜花が座ったその瞬間にこんこん、とノック音がして桜花がどうぞ、という前にガチャ、という音とともに先生が入ってきた。
「寝る前の確認に来たぞ。双葉はいるな。......綾瀬は?」
「飲み物を買ってくる、と」
「そうか、蒼羽に会いに行っているわけじゃないんだな?」
「えぇ、おそらく」
「双葉も会っているわけじゃないんだな?」
「えぇ。私はずっとここにいますけど」
「なら、洗面台の電気は切っとけよ」
「わかりました」
その桜花の言葉への返答はなく、返ってきたのはドアを閉める音だけだった。
翔は男子でも怖い、と評判の女教師が見回りにやってきていて今にも死ぬかと思うほどに呼吸音さえ押し殺していた。特に洗面台の電気のことに触れられた時は確認されるのではないか、と冷や冷やした。
「翔くん、もう出てきていいですよ」
「ふぅ。何とか誤魔化せたかな」
「いえ、たぶんバレてしまいました」
「えっ」
桜花が指さすのは翔が脱ぎっぱなしにしていたスリッパ。桜花がいうには蛍は飲み物を買いに行っているはずなので、ここにスリッパはないはず。しかし、ここにあるのは謎に一つだけ多い、スリッパ。
翔は先程かいた冷や汗がまた蘇ってくるのを感じた。
「これは......怒られるかな」
「いえ、大丈夫だと思いますよ」
「え?どうして?」
「あの先生は見つけた段階で注意をする人ですからね。それにスリッパだけでは翔くんかどうかまではわからないはずです。限りなく疑いは濃くなったでしょうが」
「なる......ほど」
「あの先生は修学旅行ぐらいは、と大目に見てくれる先生のようです」
ふわり、と笑う桜花に翔は焦っていた心が急に落ち着いて行くのを感じた。何はともあれ、大事にならないのならばそれに越したことはない。それに怒られないのならばもっといい。
翔と桜花は二人で顔を見合わせて、ふふっ、と笑い合った。
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