第千百八十六話・隠居
Side:斎藤道三
元日のこの日、新九郎を筆頭に一族が揃った新年の挨拶で隠居をすると告げた。織田に臣従して以降は和やかな正月であったが、この時ばかりは静まり返っておる。
一族の皆の顔を見ると、かつて疑心に満ちておった頃を思い出してしまう。
「家督は新九郎。そなたに継がす」
「ははっ」
すでに皆には内々に根回しをしてある。斎藤家の下を離れた美濃の国人衆らにもな。唯一異を唱えたのは目の前にて頭を下げる新九郎であったな。己はまだわしに及ばぬと言い、また美濃にはわしが必要であるとも言うてのけた。
「わしの隠居をもって、過ぎたることはすべて忘れよ。守護代家であったことも土岐家を潰したこともな。所領はすべて大殿に献上する。新九郎、そなたは斎藤家の禄を継げ」
「父上……」
隠居を止めた新九郎の言葉で、わしは今こそ隠居するべきだと確信した。未だ及ばぬところもあるが、それは当主として家を背負い学ぶべきこと。新九郎はようやく斎藤の家を背負うに値する男となったのだと知り嬉しく思うた。
「世は変わる。いや、変えねばならぬ。わしのような不忠者を二度と出さぬようにな。皆のおかげで最後に面目が立った。礼を申すぞ」
長年座っておった上座を離れ、皆の前にて深々と頭を下げる己に心底安堵する。
「殿……」
暗殺されるか、謀叛で討たれるか。己のしてきたことがいずれ己に降りかかる覚悟はあった。それだけに、こうして皆の前で自ら隠居を決めて家を継がせられる喜びを感じずにはおられぬ。
「では父上には隠居した先代として上座に座っていただく。これからも働いてもらわねばならぬのでな。久遠殿からはくれぐれも政から離れた安楽な暮らしだけはさせぬようにと頼まれておるのでな」
「フフフ……」
「ハハハ……」
込み上げてくるものを吹き飛ばしたのは新九郎の言葉であった。驚いた顔をしておったであろうわしの様子を見て、一族の者が皆笑うてしもうた。
新たに当主として家督を継いで最初の一言がそれか。己が家を背負う覚悟ではなく、わしを立てることで皆と共に歩むのだと示す。
新九郎は、わしとは違う武士となったのだと改めて実感する。
「確かに、ご隠居様にはまだまだやっていただくべきことが多うございますな」
「然り。織田は安泰なれど、近隣との暮らしの違いは恐ろしいほどじゃ。久遠殿の申す通り今こそご隠居様のお力が必要じゃ」
皆も、理解しておるか。新たな国を。次の世を。
一族や臣下をまとめ、皆に世の流れや己の置かれた立場を理解させるのがいかに難しいか。わしには出来なんだことだ。
織田はそれが出来ておる。勝てぬはずだな。
「こら、少しは年寄りを労わらぬか」
「ハハハハハ!」
「苦しき時もございましたな。悔やむ時も。されど泥水を啜ってでも生きねば先はない。久遠殿は家臣に忠義は生きて尽くせと言うておられるとか。今ならその言葉がよう分かりまするな」
長きに亘り苦労を共にした者らは酒を酌み交わし、今までの歩みを思い返す。
無論、わしとて野心がなかったとは言わぬ。この手に美濃が欲しかった。己の力で国をまとめ、天下に名を轟かせるような立身出世を何度も夢見た。
されど……。
「天を束ねるは天が選ぶ者でなくばならぬ。我らの生きる道は天が決めておったのであろう」
大殿はいかなる正月を迎えておろうか。久遠殿は変わらぬであろうな。
わしは己の定めを見極めたのだ。天が示した道をな。
蝮と呼ばれる不忠者ですら仏の慈悲にて改心させた。そんな先例でよいのだ。
Side:氏家直元
今頃、稲葉山城ではいかがなっておろうな。山城守殿の隠居を聞いた時は、来るべき時が来たのだと思うた。
隣国とは難しきものだ。長年に亘り積み重ねた
それが今では美濃で織田を追い出そうとする者は皆無と言えよう。
真っ先に斎藤家から離反して織田に降ったわしが言えることではないが、山城守殿が良い形で隠居なさることが出来て正直安堵したわ。
「皆に言うておく。わしは所領をすべて織田の大殿に献上致す。斎藤山城守殿も隠居と共に所領を手放すそうだ。不破殿も安藤殿も稲葉殿も同じだ。美濃は織田の一員として新たな国を造るのだ」
昨年の師走に山城守殿から、隠居と所領を献上すると言われた時に驚きはなかった。遅かれ早かれそうなるのは理解しておったからな。
わしも西美濃の主立った者らと話し合い、皆で山城守殿と共にすべての所領を献上することに決めた。
今のままでもやっていける。そう思うところもあった。城と所領は先祖から受け継いだ、一族にとってなによりも守るべきものであるものに変わりはない。
されど……。
今までの治め方ではいかんのだ。親と子が兄と弟が血で血を洗う戦の世を終わらせるには、国人や土豪が領地というものを持たぬほうがいい。
無論、打算もある。織田ではいずれ領地をすべて召し上げる日が来るはずだ。その時までしがみついても多くの者らと一緒に扱われて終わりだ。率先して己から献上してこそ認めていただけるはずだ。
一族で異を唱える者はおらぬ。思うところがある者はおるようではあるが、これも時勢の流れだと理解しておろう。
かつては田畑を耕しておった皆も、今は文官や武官として勤める日々。中には警備兵として働く者もおる。
「今こそ忠義を示す時でございましょう」
すでに隠居しておる一族の長老が、皆の気持ちを代弁した。
領内にも紙芝居がきて、具合が悪うなると医師に診てもらえる。田仕事のない時期は賦役で働き、子らは寺で学問や武芸を習う。
すべて織田により与えられたものだ。
この冬には大根をいかに植えるか、教えに参ったのは久遠殿が育てておった孤児であった。元服したばかりの元孤児が、村々を回り熱心に教えておる姿に皆が驚き、久遠殿のなされておることを改めて理解した。
あの御仁ならまことに我ら皆の明日を守ってくれる。そう涙を流した者すらおったと聞き及んでおる。
「またいつか、久遠諸島に行ってみとうございますな」
「ああ、そうだな」
共に久遠諸島に行った者は、すべてが懐かしそうに笑みをこぼしている。
学問とは新しき知恵を見つけること。わしが久遠殿に教わったことだ。武芸と変わらぬ。日々の積み重ねが大事なのは同じなのだ。
ここで立ち止まるわけにはいかぬ。我らはもう古き日々に戻りとうない。
「北伊勢の愚か者らのようにはなりとうございませぬからな」
「ああ、まったくだ」
ここ美濃にも、北伊勢にて織田に逆らう者らが明け渡した無量寿院の末寺に入り、野盗の真似をしておるという知らせが届いておる。
高田派の坊主が怒っており、わしまでなだめる羽目になったからな。争うたところで得るものなど何もないというのに。
奴らは六角と北畠と組んで織田と戦うつもりだと聞くと呆れるほかないわ。北畠など宰相様がよく尾張に姿を見せておるくらいぞ。
まっこと知らぬというは愚かで罪なことだな。
◆◆
天文、二十三年。元日。
美濃守護代である斎藤家当主である利政が隠居をした。
美濃守護家であった土岐家がお家騒動で揺れる中、成り上がった者の隠居とは思えぬほど穏やかであったと記録が残っている。
前半生は謀叛人とも蝮とも呼ばれたという逸話が残っており、謀などを用いて成り上がったという記録や伝承もある。
ただ、織田家臣従後は謀叛の兆しはなく織田家家臣として美濃の改革と統治に腐心して、美濃のみならず近隣への抑えとしても活躍している。
隠居する際には惜しまれたと『織田統一記』に記されていて、久遠一馬の要請により隠居後も美濃代官を継続することになった。
久遠家による新たな治世の礎を築いたひとりであり、今もその評価は高い。
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