第千百八十話・ひょんなことから縁が生まれる
Side:久遠一馬
長尾家一行がお土産を手に越後への帰途に就いた。
正直、景虎さんについては、よく分からなかったなというところが本音だ。信秀さんは変わった男だと言っていたけど。
冷静に考えると、ろくに関わりもない尾張で心を開くなんてありえないことだ。とはいえ誼を深めようとするわけでもなく、己を高く見せようともしない。
なにを考えている人なんだろうね。
酒好きなのは間違いないけど。旅の途中で泊まったところの話では、塩をあてにしてお酒を飲んでいたとか。体に悪いからやめたほうがいいと思うけど、それを指摘するほど親しくもないしね。
「姫様、お上手ですね」
「はい、父上にさしあげたいのです」
今日はお市ちゃんがウチの屋敷でお清ちゃんに編み物を教わっていた。ウチの女衆はほぼみんな編み物が出来るようになっている。最初はエルが始めたことだけど、お市ちゃんや信長さんが身に着けるようになって以降、尾張では超高級品として知られているんだ。
贈り物としても喜ばれる。そのため滝川家とか望月家の女衆も暇を見つけては編み物をしている。
そろそろ牧場で羊の飼育を検討してもいいかもしれないな。ただ、場所の選定とか機密を守るとか結構大変なんだよなぁ。
お市ちゃんに関しては、学校で学問や武芸も習っているけど、相変わらず興味を持ったものはエルたちに教わることが多い。
少し前には織田一族の女の子たちを連れて、シンディの下に出向いて紅茶の淹れ方と作法を習ったと聞いているくらいだ。
信秀さんが好きなようにさせているせいか、お市ちゃんは織田家で一番自由な暮らしをしているのかもしれない。以前はうつけと呼ばれるほど自由奔放だった信長さんが、今ではすっかり大人になって落ち着いちゃったからね。
清洲城に登城すると、三河の矢作新川の賦役について報告が上がっていた。知多半島の用水と共に織田家で一番力を入れている事業だけど、こちらの工事の進捗が想定以上に早い。
「思った以上ですね」
「士気が違いまするからな」
賦役は土務総奉行の氏家さんの管轄だけど、工事計画はほとんどエルたちが策定している。矢作新川の計画自体は現地の調査もした春たちが立案したものということもあって、定期的にオレにも報告が上がってくるんだ。
氏家さんとは立場としては対等なはずなんだけど。扱いが上司に近いのは仕方ないんだろうな。自然とオレが総奉行のとりまとめをするような役目になりつつあるんだよね。
「無理をさせていませんか?」
「はっ、そのあたりは厳命しております。されど働かねば申し訳が立たぬと考える者が多く、止めても働く者がおるほどにて」
情報は多角的に集める必要があるので、ウチでは別途忍び衆からの報告も受けているけど、そちらとの齟齬もほとんどない。
そもそも、この時代は労働環境がどうとか言えるレベルじゃないんだけどね。一日八時間くらいを基準にして、午前と午後とお昼に休憩を入れて働かせるように命じている。さらに、こちらの想定より早くても遅くても報告が上がるようにしていたんだ。
放っておくと畑仕事と同じように夜明けから日暮れまで休みなく働く。当たり前に食わせて働かせるだけで神様の如く感謝されるのは時代のせいだろうね。
正直、領民の忠誠が恐いほどだ。この調子だと矢作新川の造成は来年の夏には概ね完了するんじゃないかな。
「実のところ、働きすぎるなと言われて戸惑う者が未だにおるようでございますな」
「弓と同じと考えてください。常に張り続けていると切れてしまうように、人の体も怪我をしてしまいます。何事にも余裕があったほうがよいかと」
スコップ、ツルハシ、
あとはほんと何事も余裕を持たせてやらせたいね。今日明日のご飯が食べられない経験をしているこの時代の人はどうしても余裕がなさすぎるんだ。
Side:北畠具教
「相も変わらず細かな気遣いをするの」
尾張から無量寿院のことで朝廷に嘆願してほしいと文が届いた。父上はそれを見て少し呆れたように笑うた。
「気遣いにございまするか?」
「嘆願など己らで出来よう。とはいえ伊勢のことを我らの頭越しに嘆願しては我らの面目を潰して波風が立ちかねぬ。さすがの織田も寺社には苦労しておるようじゃしの」
言われてみればそのとおりだ。嘆願などわざわざ我らに頼む必要はあるまい。嘆願してくれるならば返礼として酒を贈るとある。すべては我らへの気遣いか。
それにしても坊主というのは困った者らだ。今では無量寿院と尾張高田派が争う様相を呈してきた。各々に主張があり大義がある。兵を用いず論ずるなら勝手にしろと言えるが、放っておけば力で解決しようとするからな。
「無量寿院へのあれは儲かっておるのか?」
「それはもう。ただ長くは続かぬと内匠助は申しておりますが」
「怖い男よな。寺社から銭を巻き上げ、その銭で隣国を富ませようとする。一番に民の暮らしを憂い、信義に反する者は寺社であっても容赦せぬか。まことに御仏の使いではあるまいな」
父上から見ると一馬は怖いのか。当人が知ればいかが思うであろうな。
「漬物ですら敵わぬというのは口惜しいの」
先日、一馬から届いた大根の漬物を口にして父上はそうこぼされた。いかなるわけか父上は大根の漬物を気に入られておる。白飯と大根の漬物があればよいとまで言うほどだ。
同じ大根の漬物ながら、一馬の漬物は城で漬けさせたものとでは味が違う。確かにそれすら敵わぬのは口惜しいと言えるか。
「長野も大人しゅうございます。大湊の水軍衆も忙しさから争う暇もないとか」
「武芸ばかりに現を抜かすそなたには困ったものだと思うたが、それが今の北畠を切り開くとはな。なにがどう転ぶか。世の中とは分からぬものよ」
長野は織田が安濃津で町と湊を整える賦役を始めると驚いておったな。恐ろしいほどの人を集め、うらやむほどの銭と米を湯水のごとく使う。さような家とは戦えぬと悟ったような顔をしていた。
大湊の水軍衆など久遠家の南蛮船を間近で見るからか、もっと従順だ。つまらぬことを考えるより大人しく働いたほうが暮らしは良くなる。
「気になるのは公方様か。随分と長く病に臥せっていると聞くがいかほど悪いのか。管領だけではあるまい。尾張がこれ以上の力を付けると面白うないのはな」
確かに織田は、尾張・美濃・三河・飛騨・近江・伊勢・志摩にまで勢力を伸ばし、いささか力を付けすぎておる。足利将軍家がそれを座して見過ごすとは思えぬ。今までも力を付けすぎた大名を潰そうとするのは、ようあったことだ。
「大きな争いとなりましょうか?」
「いずれなるであろうな。されど我らが思う戦はないのやもしれぬ。最早、この流れは天が止めねば止まるまい」
織田の治世は悪うない。それを理解する故に父上もこの先のことを案じておられる。
されど……。
「さりとて、この漬物が食えなくなるのは困るしの」
久遠の知恵と技の価値を父上もご理解されておられる。
「天が動けば地も動くやもしれませぬ」
「そうよな。織田と久遠に恩を感じる者らが黙っておるまい。わしも漬物の分くらいは働かねばなるまい」
大根の漬物ひとつで父上の御心を動かしたか。それが一馬の怖いところだ。
◆◆
北畠家の軍記である『北畠記』には、北畠晴具が織田家に味方することになるきっかけが記されている。
晴具は久遠家から贈られた大根の漬物を大いに気に入り、製法を教わり御所で作らせても同じ味にならないことを嘆いたとされる一文がある。
漬物を通して晴具は表に出ていない久遠の知恵の奥深さを理解し、それを守らねばならぬと考えるようになったとされる。
のちに三国同盟の一角を担い、久遠一馬に多くの知恵を授けたとされる晴具は、大根の漬物をきっかけとして時代に挑むことになった。
現在、『御所漬け』として知られている漬物の名称は、久遠より贈られた大根の漬物をこよなく愛した晴具の逸話からそう呼ばれるようになったとされる説が有力である。
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