第千百四話・近江の変化
Side:雪村
「雪村様! 出来ました!!」
「ほう、よく描けたの」
まさか遥か尾張の地で、幼子らに絵を教えることになるとはの。己の絵を描くことばかり考えておったわしには思いもよらぬ日々となる。
未熟な絵もあれば、わしも驚くような構図で描く者などもおる。勝手気ままにのびのびと描けるように教えてほしいと少し難しいことを頼まれたが、やってみるとこれほど面白きことだとは思わなんだ。
皆の絵を見ておると、わしも描きたくなるのだ。
「やっぱり留吉は巧いね!」
別格なのは留吉殿か。南蛮の絵ばかりかと思うたが、水墨画も少し教えると才気がある絵を描いておる。すでに元服しておるが、絵を学ぶことは許されてこうして来ておるとのこと。
これが孤児の描く絵とはとても思えぬ。絵師としても十分やっていけるが、当人が久遠家への仕官を望んで学んでおる。すぐにでも仕官させてやればよいと思うたが、もう少しゆるりと学ばせたいらしい。
ここには物珍しきものが溢れておる。久遠殿が持ち込んだものだと聞くが、関東では手に入らぬような書物から雅なものまで様々なものがある。
驚くべきは、それらを皆に見せておることか。寺社が大切に隠し持つようなものもすべてな。
今は祭りを皆でやるのだと忙しく支度をする日々。信じられぬな。かような国があるとは夢にも思わなんだ。
ここには武士も寺社も民もない。傲り高ぶる者はおらず、己が家職として知恵や技を隠し立てする者もな。皆で学び研鑽を積み、学問を作り上げておる。
関東では、やれ関東管領だ。やれ古河公方だと戦ばかりしておるというのに。
東夷だ鄙の地だと言われて当然ということか。
Side:六角義賢
織田の真似をするだけで、これほど苦労するとはな。
北近江の仕置きは終わった。まとめて追放とすることにしたが、僅かばかりの俸禄でよいので一族を残らせてほしいと言うた者もおる。さらに追放されても行く当てもない者らは、帰農をと願い出た者もおったな。
俸禄と帰農は許したところもあれば、許さなんだところもある。宿老や家中から嘆願をされては、許さざるを得なかったところがあったというべきか。
織田の助言により、北近江三郡において検地と人の数を調べることにした。いかほどの人がいて、いかほどの収穫があるのか。それを知る必要があるという。もっともな意見だ。今まではそれすら出来なかったがな。
従わず蜂起する者もおるであろう。隠し田などもあろうからな。なんとも難しきことをせねばならんものだ。
この日は宿老と家臣らでひとつのことを話しておる。
織田から話があった件のことだ。荒れておる街道や田畑を整える銭や知恵を得る対価として、対価に値する年月の間は田畑の収穫物を税以外すべて織田に売るというものだ。
「受けるしかないか」
「はっ、いかなる手法を選んでも後塵を拝すのは仕方なきこと。無論、御屋形様が望まぬというのならば別の策を考えねばなりませぬが」
正直、理解出来ずに皆で幾度も話した。そのようなことをして織田にいかなる利があるのか分からぬ故、不気味だったのだ。
これの約を反故にすると、織田に攻める名分が与えられることは分かる。されど他国を豊かにする銭と知恵を出す対価としては、あまりに少ないように思えた。
幾ら考えても我らには分からぬので、蒲生下野守に教えを請うてくるように命じて戻ったのだが……。。
「銭と収穫物を握られる恐ろしさか」
「はっ、久遠殿はそう生易しいものではないと申しておりました」
素直に教えるのか疑念もあったが、こちらとすると分からぬのだ。致し方ない。織田方で教えてくれたのは久遠殿であったそうだ。
銭を握り、品物の流れを握ることの強み、収穫した品の値を織田が決められることの利を説かれて下野守は恐ろしゅうなったという。
「よかろう。北近江と甲賀でやってみるしかあるまい」
恐ろしい。なによりそのような己の利と策を他国に教えることが恐ろしい。されど久遠殿はこうも言うておったそうだ。
争わず共に生きるには必要なことです。いつまでも争っていれば世は乱れるばかりなのですから、とな。
国を富ませる。そのために苦労をするのは当然だ。少なくとも管領よりは信じることが出来る。
あの南蛮船の上で、父上に祈りを捧げてくれた男なのだ。
「申し上げます。織田より京極高吉様、飛騨に逃げ込んだと知らせが届いてございます」
皆と今後のことを話しておると、面倒な知らせが届いたな。下野守と顔を見合わせてため息が出そうになった。
「若狭に逃げ帰らなんだのか」
「姉小路と三木は斯波と織田に助けを求めたようでございます。公方様にご裁断を仰ぐとか……」
いかがと言われてもな。公方様にお任せするしかあるまい。こちらに送ってこられれば謀叛を扇動した罪で裁かねばならなくなる。だが、それではわしが恨まれるのみだ。
隠居させて高野山にでも送るか? 同族をそこまですると家中も揺れるであろうな。出来ればやりたくない。
にしても、京極め。よりによって織田の力の及ぶところに逃げるとは運がない。飛騨で騒動を起こしても先などないというのに。
Side:今井定清
代々仕えた京極家は北近江三郡での居場所を失うたな。
「だからお止めしたというのに」
公方様と管領様の争いに乗じて挙兵して旧領を取り戻す。悪い策とは思わぬが、今の北近江ではうまくいくとは思えなんだな。
管領様の
されど先年の織田との戦の傷も癒えぬ現状で、六角相手に立ちあがる者がいかほどいようか考えるまでもない。
管領様も、せめて千人でもいいので兵を寄越してくれれば違ったのだがな。
六角はこれを北近江の国人の謀叛として兵を挙げた。我ら国人はすでに六角に臣従する身だ。謀叛と言える。されど京極家は六角の家臣ではない。管領様の命を受けたという名分もある。
双方退けぬまま戦となった。終わってみるとようあることだったのであろう。
六角は京極家を無視した。京極を名乗る者がいたようだが、本物か偽者か確かめられなんだとしたのだ。同じ佐々木源氏の一族だ。せめてもの情けであろうな。
驚きはここからだ。
六角は、わしのようにいずれにも味方せぬ者からも所領を召し上げてしまった。わしの場合は六角のおかげで領地を取り戻したのだ。その恩を仇で返したと思われたのであろうな。
確かに京極様は我が城にきた。元は京極家の重臣であったからな。されど勝ち目がないと諭してお止めすると激怒して出ていかれただけなのだがな。
わしは城を明け渡して帰農することにした。人質として出しておった倅も戻り、貧しいながらもようやく落ち着いて暮らせる。
最早、京極も六角もいかようでもよい。いずれに味方しても、味方せぬほうから裏切り者呼ばわりされて攻められるのだからな。
もうたくさんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます