第千九十六話・止まらぬ流れと止まれぬ者
Side:久遠一馬
北近江の反乱が終わった。京極高吉は密かに逃亡したようで行方不明だ。
「見逃したのであろうな。捕らえたところで追放するしかあるまい」
庭で遊ぶロボ一家と吉法師君たちを見ながら、信秀さんはそうこぼした。
忍び衆の報告では、六角は積極的に京極高吉を追っていないとしか思えない。取り立てて重要でもないので虫型偵察機など使っておらず、オレたちにも真相は分からないが、六角家で裁くと恨まれるし逃げてくれたほうがいいということだろう。
「六角からはなにか言ってきましたか?」
「いや、まだ来ておらん。されど手助けせねばなるまいな」
秋の収穫を前に戦を終わらせたことは好材料だが、刈田で荒らされた田んぼも多いとのことで後始末が大変そうなんだよね。
六角家からは大内義隆さんの葬儀のあとに、新しい治め方などを教えてほしいと頼まれたことがある。それ以来、畿内の情勢などの情報交換もしている。
あとは伊勢で北畠家が始めたプランテーションも説明と提案したんだけど、そっちはまだ具体的に話は進んでいない。新しいことをするには相応に考える時間や根回しする時間が必要だからね。こんなものだろう。
北近江三郡に関しては、周辺の誰もが混乱を望んでいないんだよね。朝倉も都や尾張への街道として北近江を利用しているし、近江には琵琶湖の湖賊と比叡山延暦寺がある。六角で安定するなら、現状ではそれで十分だというのが織田の方針だ。
「東も揺れていますしね」
こちらは西ばかり見ていられない。東三河も揺れている。織田に従う欠点は領地を召し上げられることだろう。それを考慮しても今川から離脱したい国人や土豪が増えている。
理由は遠江攻めの噂が未だに消えないことと、織田に従った者たちを見て、それでも生きていけると理解したからだと思う。
領内の物価は出来る範囲でこちらがコントロールしているので、東三河だと品物によって値がまったく違うという異様な事態が起きていることも理由だ。いくら流通が未熟なこの時代とはいえ、それこそ子供でも分かる暮らしの違いは脅威でしかない。
塩、玄米、雑穀なんかについては、特に値が上がらないようにしているからな。
正直、遠江駿河はそこまで景気がいいわけでもなく、食べていくので精いっぱいな地域も多い。そこに今川による甲斐信濃攻めの負担が大きい。
信濃では今川優勢だが、もともとそこまで裕福な地域ではなく、所領を得たわけでもないので戦費に見合う褒美があるわけでもない。戦なんて金食い虫なんだ。数年に一度でも負担が大きいのに、毎年のように攻めている今川領は苦しい状態だ。
そもそも今川の三河統治は大義名分が弱い。従えていた松平宗家も今はなく、守護や国司だというわけでもない。血縁で実効支配しているだけなので、血縁がないところは今川に義理立てする以外の理由があまりない。
結果として領地を失う損失はあるものの、家の存続や大義名分などを考えると今川を見限るところが出始めている。
「今までのやり方では駄目だ。それでは乱世は終わらぬ。地図を見ると狭いが、それでも日ノ本は広いのだ。押さえた地に五年も十年もかけられぬ」
子供たちが遊ぶ姿を見ながら信秀さんはそう決意するように語った。
そう、統一という目標を明確にしたことで見えてくるものもある。統一して終わりではないのだ。それを理解しているんだろう。
「ケイキなど、いかがでございましょう」
しばらくするとエルと千代女さんが侍女さんたちとケーキと紅茶を運んできた。吉法師君たちもおやつの時間だと喜び、手を洗って屋敷に入ってくる。
今日はシフォンケーキか。
「ほう、これは今までのと違うな。なかなかよいものだ」
ケーキにしては甘さも控えめで軽いシフォンケーキに信秀さんは驚きつつ、気に入ってくれたようだ。午後の紅茶のお供にはいいかもしれない。
ほのかに感じる甘みが心地いい。素材の味を生かすという意味では、この時代の人の味覚に合うのかもしれないな。
「頃合いを見計らい、上様と話したほうがよいかもしれぬな」
エルと千代女さんを交えておやつタイムにするが、シフォンケーキを食べながら信秀さんはなにかに気付いたようにそう口にした。
千代女さんは顔に出さないものの驚き、オレもなんと答えるべきか迷い、すぐに返事が出なかった。
菊丸さんとは同じ夢を見ているといえば言い過ぎだろうか? オレはそう思っている。
ただし鎌倉以来続く武家政権と足利将軍家という立場を背負う、足利義藤さんは難しい立場にある。
「我らは大きゅうなり過ぎた。足利を終わらせねばならぬのならば、いかに終わらせるかを考えねばならぬ。平家や鎌倉のように戦をして滅ぼさねばならぬのか。それとも他の道があるのか。上様に黙って進めることこそ不忠であろう」
忠義か。生まれた世界が違うオレに足りないものなのかもしれない。信秀さんは争うことになっても一度話すべきだと考えたのか?
確かに義藤さんには随分と良くしてもらっている。それに菊丸さんとは多少ではあるが話しているし、以前には新しい世の中を考えていることを認めて話もした。
「そうですね。懸念はありますが、よく話すべき時は近いのかもしれません」
エルも考え込んでいる。オレたちよりも足利幕府の在り方を考え悩んでいるのは義藤さんだろう。
三河が落ちるのは時間の問題だ。飛騨だってこちらの影響が思った以上に強まっている。
なにかのきっかけで遠江、駿河、甲斐、信濃を治めることになっても不思議じゃないほどなんだよね。
ただ一歩間違うと、史実の織田のように戦続きの日々になるな。それがこの時代だといえばその通りなわけだし。
「ちーち、ちーち」
「はーは!」
季節の変わり目だなと感じる。菊丸さんのことは義統さんも交えてもう一度相談することにして話が終わると、侍女さんに抱えられて午後の散歩に出てきた大武丸と希美がオレとエルを見つけてはしゃいでいた。
「おお、すっかり話すようになったな」
大武丸はエルに抱っこしてほしいと手を伸ばして、希美はオレに手を伸ばしていたので抱き上げてやる。
初めて話してから数日、次に覚えたのは『ちーち』だった。嬉しかったな。今では会うと『ちーち』と呼んでくれるんだ。
信秀さんはそんなオレとエルを見て、まるでおじいちゃんのように笑みを浮かべている気もする。先ほどまでの厳しい表情とは別人のようだ。
信秀さんが笑みを浮かべたことで大武丸もご機嫌で手を伸ばした。
「じーじ!」
ああ、やっぱり大武丸は信秀さんを『じーじ』と呼んでしまった。まだ言葉を覚えたばかりだからなぁ。
「大武丸、大殿は『じーじ』ではありませんよ。申し訳ありません。歳上の殿方を見ると『じーじ』と呼ぶようになっておりまして」
「じーじ!」
エルは困ったように大武丸に優しく語り掛けるが、大武丸は逸れも面白いのだろう。余計に嬉しそうな顔で信秀さんを再び『じーじ』と呼んだ。
「よいよい。孫に変わりはないからな」
大武丸と希美、資清さんとか望月さんを『じーじ』と呼ぶんだよね。信秀さんは気にすることなく目尻を下げている。
いろんな人が会いに来てくれていろんな言葉を教えるから、誰が教えたのか不明だけど。
「どれ、わしにも抱かせてくれ」
侍女さんたちが少しハラハラしているが、信秀さんが手を伸ばすと大武丸は嬉しそうに信秀さんの膝の上に移った。
それを見て希美も信秀さんのところに行ってしまった。二人を抱きかかえた信秀さんは本当のおじいちゃんのように喜んでくれている。
こういう何気ない姿を見ると感謝しかない。
この子たちが大きくなる前に統一出来たらいいんだけどなぁ。殺伐とした世界で生きてほしくない。
頑張ろう。難しいことでいっぱいだけど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます