第千八十四話・美濃のひとたち
Side:浅井久政
先触れもなく密かにやって来たので、何事かと思えば……。
「今しかございませぬぞ! 汚名をそそぐのは!!」
ああ、わしもかつてはこやつのような目をしておったのであろうな。怒り、憎しみ、欲に濁った目がそこにはあった。
管領と京極が動く今こそ、北近江三郡が立ち上がる時なのだと声高に叫ぶこの男は、ここが観音寺城の目前であるということを理解しておらぬのか?
管領が命を下し京極が兵を挙げる。そこまでは分かる。去れど勝算が織田とはいかなわけだ? 管領は三好と和睦した六角を叩き、京極は北近江を取り戻したいのであろう。織田はなんのために兵を挙げるのだ?
「情けを仇で返す気はない。早々に立ち去れ」
この愚か者は分かっておらぬ。織田が来るだと? まことに来るのか? 密約もないというのに。
心情は察する。浅井が敗れた相手は織田であって六角ではない。それが北近江の者らの根底にあるのだ。中には六角が卑怯にも漁夫の利を得たのだと考える者までおる。
されど、事実は違う。織田は厄介な地である北近江を要らぬと拒んだだけ。
「己は臆病者か!!」
「話しても無駄じゃ。帰らねば人を呼ぶぞ」
大敗したわしでも、おらぬよりはマシだと考える者がおるか。父上の武勇は未だに健在だということであろうな。
愚か者は腹を立てて帰っていった。あれで使者のつもりか?
「勝てば天下が揺れますなぁ」
無言で控えておった幸次郎がようやく笑えると、堪えていた笑いを解き放つように笑うた。すると他の近習と家臣も幸次郎に釣られるように笑い出した。
あまり行儀のよい男ではないが、かような場におると皆が上手くまとまる。何故であろうか? 立身出世など興味なさげなところが周囲を安堵させるのであろうか?
まあ、幸次郎のことはよいか。懸念は北近江三郡だ。
「ここで兵を挙げるくらいならば、織田は前の戦で無理をしても北近江三郡を切り取っておるわ」
管領と京極の名で気が大きくなったのであろう。北伊勢にて六角が動けぬ間に織田が領地を得たことで、己らも六角から独立出来ると勝手なことを考えた。
織田が兵を挙げて北近江三郡を抑えたとて、管領や京極の好きにさせるわけがなかろう。
あやつらは知らんのか? 北伊勢では国人や土豪は土地を召し上げられてしまったことを。まだ六角のほうが所領を認めておるだけいいということが分からんらしい。
「殿、もし六角の御屋形様が出陣を命じればいかがなさるので?」
「命には背かぬ。情けで生かされておるのだ」
家臣らの懸念はわしが北近江三郡の討伐を命じられることだ。新参者などいずこにいっても扱いは変わらぬ。織田は違うようだがな。
北近江三郡の中で争わせるというのはあり得る策であろう。中には北近江三郡の者で御屋形様に自ら出陣を願い出る者もいよう。わしは自ら動く気などないが。
いずれにしても織田と六角が争い、己らの領地がそのまま好きにやれるなどあり得ぬことだ。さらに公方様に疎まれておる管領など信じられるか。
「誰ぞ、城にまた使者が来たと伝えてこい」
戦か。果たして御屋形様はいかに動かれるのか。命と家を助けた恩を返せと言われるならば出ねばならん。
はてさて、いかがなるのやら。
Side:久遠一馬
道三さんと義龍さんと共にさっそく視察に出かけるが、道三さんは一緒にきた春たちを見て興味深げにしていた。
「春殿を見ておると、とても伊勢であれほどの武功を挙げたとは思えぬな」
「戦ったのは兵たちで従えたのは武士たちよ。女の身で将などをするから皆が守ってやらねばと思ったのでしょう」
近頃だと武辺者の女として名が知れつつある。三河の野分の後始末はともかく、伊勢で大活躍しちゃったからね。興味があるようだ。
「いかなる形でもよいのだ。結果がすべてじゃからの。関の城を即座に落とした采配は見事。あそこで手間取ると厄介なことになっておったであろう」
「山城守殿があの場にいれば、私が要らぬ世評を受けることがなかったのよね」
本当にそう思う。あの場で任せられる人がいたほうが、ウチとしてはよかった。
「運も実力のうちじゃ。運のない将ほど要らぬものはない」
この世界に来て、春は遠慮なく本音を言うようになったな。もともとさっぱりした性格ではあったけど、ここまで言うタイプでもないとオレは思っていたんだけど。
まあ、道三さんとは話が合うようでもあるけどね。
伊勢はねぇ。仕方なかったんだと思う。関との戦に時間をかけると北畠と長野の戦にも影響したからな。おかげで春は武闘派だと思われているけど。
「温泉でござる!」
「賑わっているのです!」
今日、視察に来たのは二年ほど前に来た長良川温泉のところだ。冷泉で冬でも冷たくならず一定の温度を保つ温泉になる。
温泉街というか温泉村か? 意外と人気らしく人がいる様子にすずとチェリーが駆けていってしまい家臣が後を追った。
ここは冷泉なので温めないと駄目だが、この時代だと貴重な医療施設なんだよね。温泉って。泉質によって効能、効き目に差はあるけど。
湯治宿が何軒か並び、遊女屋や飯屋などの店もあるようだ。運営は斎藤家がしている。領民には安く旅人からは相応の値段を取る。そんな仕組みのはず。
「内匠助殿いかがじゃ?」
「ええ、いいと思いますよ。民の様子もいいですし」
斎藤家の人たちがオレの顔色を窺っているのを感じて少し居心地が悪い。道三さんはそんなオレの心境を察して少し楽しんでいるようにも見える。
そんな立場になっちゃったんだなと改めて実感する。ちょっと複雑だ。
温泉村の中には露店の屋台もあった。川魚だろうか。焼いて売っているものや、蕎麦や小麦の水団のような汁物を売っている店などある。衛生管理もまずまずだ。
こういう店があるということは、それなりにお金が回っているということだ。客層も地元の人が多いように見える。
工業村や蟹江と比べてお風呂の値段は少し高いが、ここは冷泉を沸かす費用が掛かるからね。森林資源の保護の目的もあって、工業村のコークスを一部こちらに回して運営しているはず。
「東美濃では牧場とやらも造っておるとか」
「尾張で試していることは出来ることから広げていきますよ。なにか要望があればおっしゃってください」
本当は東美濃に建設中の牧場の視察も行きたかったんだが、今回はちょっと日程の都合でいけない。あっちはこのあと春たちに視察をお願いする予定だ。
気になるのは、道三さんと義龍さんはいろいろと話をしてくれるが、他の家臣はやはり自発的に発言しないことは少し気になるなぁ。まあ余所者のオレがいるし仕方ないけど。あとで道三さんと義龍さんにそれとなく言っておこう。
「いいお湯だね」
「気を使われたわね」
そのまま視察している長良川温泉に入ることになったが、当然貸し切りでありオレたちだけでゆっくりしてほしいと言われた。
夏がそれを察して苦笑いを浮かべた。
信長さんがいなくても接待される側になったんだなという実感と、斎藤家の皆さんの苦労がオレたちも分かるからね。
「警備兵も頑張っていたでござる」
「優秀なのです」
姿が見えなかったすずとチェリーは警備兵の視察をしていたらしい。オレたちの目の届かないところでも機能していたことが嬉しい。
細かく見ると、それなりに問題と改善点はある。やくざ者ではないようだが、実質的に温泉村を仕切る商人がいることとかいろいろとね。
指摘はタイミングと実情を考えてする必要がある。今回は致命的な問題以外はスルーするべきだろう。みんな知恵を絞り頑張っているだけでいい。
隣村や隣国が敵だった時代を生きる人たちが、力を合わせて頑張っている。今回はそれを褒めてあげるべきだ。
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