第千八十三話・一馬、美濃に行く
Side:六角義賢
「まことに近江に攻め入る気がないとはな」
ひとりの若い家臣がそう呟いたのが聞こえた。
隙あらば所領を広げる。名分もいるが、当たり前のことなのだ。ところが尾張は違う。北近江三郡が今年に入りコソコソと戦支度をしておるというのに、武衛殿と内匠頭殿は久遠家本領へ行って、尾張をひと月も空けていたというではないか。
留守を預かる尾張介殿からは戦が起きれば国境の封鎖をすることと、兵を求めるのならば出すという書状が届いておる。
「騙し討ちはないのであろうな?」
「あるはずがない。騙す必要などないからな」
疑り深い者はだまし討ちを懸念するが、騙す必要などなかろう。堂々と争うても甲賀と伊賀は織田に付くであろうからな。
織田がその気になれば、東海道と東山道から総勢三万は攻めてくる。北近江三郡の僅かな兵など要らぬと言うであろう。
織田はむしろ東海道を早く使えるようにすることを求めておる。甲賀の暮らしも気にしておるな。
「北近江三郡の愚か者どもは織田が来ると信じておるぞ。近頃では隠すことなく戦支度をしておる」
「浅井の隠居は動かぬな」
「あの男は愚かではない。織田が動かぬことなど察しておろう」
叡山でも動けばまた違うが、動かぬであろうな。叡山もまた尾張が動かぬことを察していよう。
すべては晴元の謀なのだからな。三好と六角を叩き、都に戻る。武衛殿には管領を譲ると文を出したらしいが、まあ本気ではあるまい。
三好は阿波の守護を自害させたとか。向こうでも謀をしておったのであろう。主家を自害させたことで、三好の評判を落とせると晴元は喜んでおろうな。
織田と比べると三好の動きはいまひとつだな。されど、それでも三好を倒して畿内から一掃するのは難しかろう。
今そのようなことが出来るのは織田くらいか? 西国の尼子もおるが、大内亡きあとの陶と争うようだしな。
その陶は大内の跡を継ぐ者を未だに擁立出来ておらん。公家衆を怒らせた者の末路だな。
もっとも六角も陶のことを笑えんがな。織田は今も領国を整えて栄えておるというのに、こちらは内輪の争いだ。
せめて北近江三郡くらいは己の力で治めねばならん。幾度も独立独立と騒ぎを起こしおって。此度は許さん。北近江三郡の国人や土豪を一掃してくれるわ。
Side:久遠一馬
鷹が飛んでいる。
流れに逆らうようにゆっくりと上る川舟もいいものだ。
「いざ行かん!」
「鬼ヶ島へ参るのです!!」
元気なすずとチェリーが桃太郎のようなセリフを口にすると、家臣のみんなが笑った。紙芝居で大人気の物語だからね。
目的地はもちろん鬼ヶ島……ではなく、美濃の井ノ口の町だ。久しぶりに美濃の視察に行く途中なんだよ。
すれ違う川舟は多い。陸路も整備しているが、水路の利便性は大きい。特に荷物の運搬に川は本当に便利だなと実感する。
同行者は春、夏、秋、冬と義龍さんになる。エルは大武丸と希美のこともあるので今回は留守番だ。
途中で船を降りて陸路で井ノ口を目指す。こっちに来るのは久しぶりだ。長良川温泉の視察をした時以来か。
「この辺りもだいぶ変わりましたね」
やはり人の行き来が多いようで賑わっている様子はいいもんだ。行き交う人々も殺伐としておらず、オレたちも出迎えの斎藤家の人たちも和やかな雰囲気だ。
領国単位での対立。それがだいぶ薄れたなと思う。
「今も町は広げております。あとわら半紙作りも盛んでございますぞ」
出迎えとして現れた人に少し驚きそうになった。明智十兵衛光秀。まさかこんなタイミングで会うとは。今までも顔を見かけたことくらいはある。とはいえゆっくり話すほどのことは今回が初めてとなる。
斎藤家家臣として主に稲葉山城で道三さんの側近として働いている。
ある意味、戦国史でも有数の有名人だが、割と普通の人かなという印象かな。
「あれが美濃衆を変えたと言うても過言ではあるまい。新しい技を与え、織田の意思を示したのだからな」
義龍さんも忙しく正月以来の帰郷になるらしい。何処か誇らしげに語る様子が嬉しいね。
領国による違いは今も多くある。とはいえ義龍さんも言うように、奪い奪われるのではなく、共に発展していくんだと実感出来ることが美濃衆を変えたのかもしれない。
わら半紙は、今やほぼすべてが美濃産だ。需要もある。高価な和紙の美濃紙と安価なわら半紙。どちらも織田領に欠かせないものになっている。
「いいですね。道が広い。これが大切なんですよ」
井ノ口の町は以前来た時と様変わりしている。広い大通りがあって、そこからなるべくまっすぐな道が左右に広がっている。
発展性のある町だ。それに広い道は火除けの意味もある。
「内匠助殿。よう参られた」
まずは道三さんに挨拶をするべく稲葉山城麓にある斎藤家の屋敷に来ている。
「町も城も変わりましたね。難儀されたのでしょう」
援助も助言も惜しまなかったが、それでもこれだけ変えるのは大変だったろう。正直、道三さんは内政が得意とはオレには見えなかった。
道三さんの凄いところは、面目とか気にせずに教えてほしいと聞いてくれたことだろうか。分からないことを分からないと聞く。身分もあって年齢も重ねていると、なかなか出来ないんだよね。
「戦と同じと思うて励んだまで。油断しておると置いていかれてしまうからの」
冗談でも言うように笑みを浮かべる道三さんもまた、変わった。少なくともオレたちに気を許していると見せるくらいには信じてくれているらしい。
実は井ノ口と稲葉山城は、オレよりもケティたちのほうが来ているんだよね。診察であちこちを回るので。道三さんとはそんな話から入って現状を聞く。
経済状況はいい。街道整備も進んでいるし、人の往来も多い。春になり戻ったが、飛騨からの出稼ぎの人が冬期間はこのあたりでも働いていた。
農地の区画整理は尾張南部より進んでいるところがあるかもしれない。尾張に負けてられないという心理もあるようだし、追い付け追い越せと頑張っているのが理由のようだ。
「作物の割合もいいですね」
農業に関しては作物の多様化を徐々に進めている。湿田を乾田にすることも進めているので、二毛作の麦の収量も増えている。田んぼに出来ない土地は蕎麦や大豆を植えているし、尾張と同様に一部ではウチが持ち込んだ無毒性の麻も植えている。
斎藤家直轄領を中心に植えているウチが持ち込んだ米や麦の品種は、それ以前の在来種と比べると収量が大幅に違うので、その成果もあるね。
欲を言えば、もう少し産業をこちらに分散させたいかな。これは帰ってからの検討課題だ。
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