第千八十二話・理想と現実
Side:久遠一馬
七月に入ったこの日、久しぶりに工業村にやってきた。本格的な硝子工房の打ち合わせと視察をするためだ。
ここの職人で原始的な硝子工房は小さいものがあるが、ウチの技術を学び本格的な工房を立ち上げるんだ。
ここは日進月歩。変わりつつある。
特に、ずらりと並ぶ反射炉の光景は圧巻だ。高炉一基に二十基の反射炉がいるが、すでに十三基が完成している。ここだけ見ると戦国時代だということを忘れそうになる。
敷地は計画段階で無駄と思えるほど広く確保したのでまだ余裕はある。そういうところは先を知っている利点と言えると思う。
まずは、代官屋敷で益氏さんと清兵衛さんと話す。
「随分と外部に発注が増えたね」
驚いたことに大八車と馬車などの部品は、多くを外注というか工業村の外に作らせている。
「度量を統一したおかげで寸法を合わせることが出来ました。一定の寸法の品を作るようにと命じて従う者に任せております」
職人が増えたこともある。外にある職人町では、頼まなくても工業村の中の品を模倣する人すらいる。鉄砲や武具を勝手に売るとかは禁じているが、あとは好きにさせているからね。
一定の品質の部品を作らせることも、一部の職人は従い始めたそうだ。現状では手工業ではあるが、大きな進歩だろう。
「殿、これをご覧ください」
工業村の報告を一通り終えると、清兵衛さんがとあるものを見せてくれた。
「へぇ。こう使ったのか」
目の前に出されたのはゴム製のマットと底をゴムで覆った足袋、それとゴムで保護した木槌ものだった。藤吉郎君が気づいたゴムをウチの奥さんが作り方を教えて、職人衆が考えて試作した品になるらしい。
意外だったのは木槌か。元の世界でもあったものだが、この段階で作られるとは思わなかった。
「あれは面白いものでございますなぁ。一番使い勝手のいいものはこの足袋でございます。滑らぬようになったことで、高炉で働く者らが喜んでおります。また薄く延ばしたこれは作業をするのにようございますな。木槌はあて木など必要ないということで使える品でございます」
嬉々として語る清兵衛さんの表情から、工業村が上手くいっていることが分かる。
足袋、この時代はそこまで普及しているものじゃない。ただしオレたちが履いているので、尾張に限定すると結構普及しつつある。足袋は藤吉郎君が目を付けたものなんだってさ。
今は草鞋か裸足だからな。そりゃ喜ぶだろうな。このまま試してどうなるか様子を見たい。
「いいね。原料は運ぼう。当面は技術を工業村の外に伝えるのは禁じる。あと品物も領外への持ち出し厳禁にするから、工業村の中でどんどん使ってみて」
「かしこまりました」
ゴム自体、原料が南米にしかないんだよね。この時代。ゴムの木は東南アジアでも育つのは史実で明らかなんで南方で栽培するつもりだけど。当面は宇宙産を運べばいいだろう。
実は天然ゴムの代用品になるサブの生産も一応視野に入れてはいるが、ゴムの製品の開発と需要を見ながら決めることになるだろう。
「あと硝子工房、殿の許しも出たから始めようか」
「おお! ありがとうございます!」
今日の本題はこの硝子工房の件だが、清兵衛さんの喜びぶりに少し驚く。なんというか新しいものづくりにこれほど喜びを感じてくれるんだなと感心する。
織田家とは利益の中から一定の割合をウチがもらうことで話が付いた。工業村の高炉で生産した鉄なんかと同じだ。
ああ、藤吉郎君にはあとで褒美をあげないと。ゴムに気づいて使いたいと頼んできたのは藤吉郎君だからね。
Side:丸屋善右衛門
湊屋様に呼ばれて代官屋敷を訪れると、相変わらず多くの者が忙しそうに働いておるな。
「忙しいところ済まぬの。少し話があってな」
元大湊の商人という立場は同じだが、わしと湊屋様では天と地ほど違う。わしは騙し騙される商いに嫌気がさして、己だけでも信義を重んじる商いをしようとして久遠様に認められた。
実際に久遠様には蟹江に店まで持たせていただき商いは大きゅうなったが、それ故に今でも商いの難しさを痛感する日々なのだ。
そんなわしと違い湊屋様は、久遠様の願う騙し騙されぬ商いを実現するべく働かれておる。
その違いに己の力量のなさが嫌になる時があるほどだ。
「実はの。そなたに商人の目付をしてもらえぬかと思うての」
「目付でございまするか? されど某は身分が……」
「やる気があるのならば仕官してもらうことになる。そなたならば分かるであろう? 密かに織田の命に背き商いをする者や、不当に利を得ておる商人がおることを。左様な商人をなくさねばならぬ。商人の手でな」
いかなる話かと思うておったが、それは思いもよらぬものだった。わしは一介の商人ぞ。湊屋様とは違うのだ。
「何故、某なのでございまするか?」
「そなたの願う商いは殿のお考えに近い。それに実直で殿を裏切ることもあるまい。商人の目付は商いをしたことのない武士では務まらぬのだ。今はわしが差配しておるが、いささか手が足りぬというところもある」
わしは己の願いが、いかに無謀かということを久遠様にお認めいただき理解した。武士も坊主も利を得るためならば、いかなる手を使うても得ようとする。
この世には神仏の目は届かぬのだ。地獄のように。
賊に襲わせるなどまだいいほうで、火付けや奉公人をかどわかそうとすることまであったのだ。今こうして無事なのは、久遠様や大湊の会合衆などがわしを守ってくれたからだ。
そこまで考えて湊屋様を見た。会合衆の頃から食道楽として知られており、温和でいさかいなどがあると仲介しておったお方だ。
左様なお方が少し疲れておられるようにお見受けする。
「……ご恩をお返し出来るならば……、お受け致します」
久遠様にも湊屋様にもご恩がある。信義を重んじる商いを出来ておるのも、すべては久遠様や湊屋様がわしごときを守ってくれておるからだ。
その恩を返せるのならば……。
「まことによいのか? 同じ商人からもいい目で見られぬぞ」
「それはもとより変わりませぬ。騙されぬ商いが出来る世が来るのならば……」
力量不足で役目が果たせぬのならば、それまで。やってみてもよかろう。駄目でも尾張ならなにかしらの働き先を見つけて食うていけるはずだ。
「そうか。よう決心してくれた。殿もお喜びになるであろう。そなたと家族らのことは久遠家が必ず守る。それ故、役目をまっとうせよ」
「心得ましてございます」
尾張も蟹江もよいところだ。騙されてすべてを奪われる者などおらん。そのようなことを企んだ者は捕らえられて罰せられた。
わしは守られるだけで己の不甲斐なさに情けなくなったが、それでもまっとうな商いをすることで恩を返そうと思っておったのだ。
このような機会をいただけるならば、やらねばなるまい。
「湊屋様、ひとつお教えくだされ。この件を久遠様はご存知なのでしょうか?」
「実はの。そのほうを召し抱えたいと言われたのは殿なのだ。尾張の商いはこれからも大きゅうなる。そのほうの実直な姿に殿は期待しておられる」
ふと最後に気になったことを問うてみた。あまりお会いする機会はないが、久遠様と奥方様がお忙しいとは聞き及んでおる。
もしやと思うて問うてみたのだが。
愚かで己のことしか知らんわしだが、尾張でひとつ学んだ。
この荒れた世を変えられる御方は織田様と久遠様しかおらん。尾張の者は少なくともそう信じて皆が尽くしておる。
わしもまた尽くす時がきたのだ。
父のように騙されて亡くなる者が少しでも減るようにな。
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