第千七十九話・神宮の動き
Side:久遠一馬
この時代はとにかく時間がかかる。物事が決まることも進むことも。
伊勢。古くから栄えている国で、昨年の野分までは、北伊勢ではまとまりに欠ける中小の勢力が入り混じっていた。
野分を引き金とする一揆から始まった騒動で、独立していた国人や土豪はほぼいなくなったが、寺社は未だ以前と変わらず治めているところがある。
「決断が早いね。もっとごねるかと思ったけど」
「諦めや仕方ないという思いもあると思いますが、大殿と神宮は外宮の仮殿造営の頃からの信頼があるので早かったのでしょう」
留守中に事態が動いていた。伊勢神宮に関してだ。伊勢と志摩の神宮領の扱いについて話していたんだが、前向きな返答が来ていたらしい。
かつては広大な神宮領があったと聞くが、今ではだいぶ減っている。今も名目上は神宮領であるところはあるが、実質的に横領されていたりして実入りにならないところも多いらしい。
織田領となった志摩半島にある神宮領は、整理統合して織田領にする。対価として定期的に神宮に寄進する。その方向で話はまとまりそうだ。
領有権に関しては、横領されていた地域を含めてすべて棚上げとなる。正式に領地を放棄するわけではない。現時点ではそこまで踏み込むのは無理があり、現地の管理する武士なり土豪が織田に臣従をすると、統治方法に口を出さないだけになる。
複雑な歴史の積み重ねがあり、どこの領地が誰のものでどうなって現状に至るのか、正しく把握するのはこの時代でも難しい。本気でやるなら朝廷と足利家も巻き込んだ領地整理が必要となるが、現状でそこまでするメリットは双方にない。
この交渉は織田家の文官が出向いて交渉をしていたが、エルが助言をして様子をみていたんだ。積み重ねた信頼が役に立ったということか。
「神宮は建て直しも要るんだけど、北畠家に余裕がないのがね」
皇統の祖とされる天照大御神を祀る伊勢神宮は、他の寺社とは別格だ。式年遷宮を筆頭に復興と建て直しをするべきところは多い。ただ、あそこでなにかをするには北畠家への配慮がいる。
具教さんが家督を継いだし、式年遷宮の再開など出来るといいんだけど、いかんせん北畠家にはお金がない。いや、あるにはあるが、使い道として神宮は後回しになるというべきか。
密かに交渉していたプランテーション案はすでに一部で始まったが、現状では長野家から召し上げた領地の一部での試行に限定している。
こちらからのアドバイスで中伊勢の街道と耕作放棄地の整備を始めたが、北畠家としてはプランテーションの利益と懸念をあまり理解出来ていないことがある。
はっきり言えば、よく分からないプランテーション案に北畠家中があまり乗り気でないというのが本音か。
北畠とすると、織田を信じ過ぎると危ういと思うのが当然だしね。
「宰相殿も焦れているよ。宰相殿は格差に気付きつつあるからね」
子供が出来たことで屋敷でのんびりとしているジュリアが、オレたちの話を聞いて具教さんの様子を教えてくれた。
領内の開発というのは簡単じゃないしね。尾張もそうだが、伊勢もちょっと開発して利益が出るようなところはほとんどない。お金も人も物資も集めて計画的に開発が必要だが、中世武家の統治方法では国人や土豪がそれぞれに領地を持っているので難しい。
なにより先例主義で変えようという意識がないことが問題の根底にある。
オレたちも身を以て理解している。発展という経験のないこの時代の武士は、開発と発展をあまり理解出来ないでいる。尾張の武士がそれを理解したのはここ数年だろう。
道を広げると攻められやすくなる。民が豊かになるとなにをするか分からない。そんな時代なんだ。
具教さんは概ね理解出来ているが、中世武士を相手に意識から変えていくなんて誰であっても難しい。
「周辺が変われば、嫌でも変わる必要があると理解しますよ」
どうするかなと思ったが、エルは時間をかけるつもりか。これが織田家ならまた違うが、下手に手を出せないんだよね。他家なんで。
伊勢沿岸と志摩半島はほぼ織田領だ。そこの暮らしが変われば、確かに北畠家の人たちも変わるだろう。
少し話が逸れたが、伊勢神宮の再建はもう少し時間が必要か。音頭は北畠が取る必要がある。
庭の畑に行くと吉法師君が待ってましたと言わんばかりの笑顔で駆けてきた。
「かじゅ! かじゅ!」
庭の畑の馬鈴薯ことじゃがいもの収穫時期だ。本当はオレたちがいない間に収穫出来そうだったが、戻るのを待っていたようだ。
吉法師君たちと一緒に植えたんだけど、あれから吉法師君はウチに来るたびに畑の生育を見て、自分で水をあげたり雑草を抜いたりして楽しみにしていたからなぁ。
「では最初は若様にお願い致しましょうか?」
御付きの吉二君とか守役の政秀さんも今日は来ていて見守っている。みんなを見渡した吉法師君は、一番よく育っているじゃがいもの茎を思い切り引っ張った。
「うわぁ!」
力いっぱい引っ張ったお陰で勢い余って倒れそうになったが、政秀さんが支えていた。吉法師君が抜いたものにはよく育ったじゃがいもが何個も付いていて、吉法師君がキョトンとした顔で見ている。
「じい!」
「若、それが馬鈴薯でございますぞ」
吉法師君は植えた時に種芋を見ているし、調理前のじゃがいもも見たことがあるはずだ。それが何個も収穫出来たことに嬉しそうにみんなに見せている。
「さあ、みんなで収穫しましょうか」
吉二君とかお市ちゃんにも収穫してもらおう。エルたちと、秋と冬がちょうど屋敷にいたので、みんなで収穫して小さな芋も残らず探して収穫していく。
吉法師君とか吉二君は、いつの間にか泥んこになってしまったな。この後、小芋を蒸して食べようと思ったけど、出来上がる前にお風呂に入れちゃおうか。
「エル、調理をお願いね。オレは若様たちをお風呂に入れてくるよ」
「そうですね。ちょうどいいかもしれません」
早く食べたいと瞳を輝かせている吉法師君たちをお風呂に連れていく。御付きの家臣とかいるけど、今回はオレがお風呂に入れてあげよう。
「さあ、若様も吉二殿らもかけ湯をしますよ」
オレが吉法師君と御付きの子たちをお風呂に入れるのは、これが初めてじゃない。ウチに来ると結構汚れることもあるからね。帰る前に一応綺麗にして帰すことにしている。
湯船に手を入れてお湯の温度を確認してかけ湯をしてあげる。なんか親戚の子の世話をしている気分になるんだよね。
城だと御付きの人が洗ってくれるらしいが、オレはあえて自分で体を洗わせるようにしている。なにごとも経験だからね。仕上げは一列に並んで座って、前の人の背中をゴシゴシだ。
ウチの流儀だというと特に問題にはならない。特に教育方針としては信長さんも信頼してくれているし。
「かじゅ!」
「ああ、船ですか。いいですよ」
ウチのお風呂場には木製のおもちゃがある。それを吉法師君たちに渡してあげる。
舟とか動物の形をしたものだ。もとは山間部の内職にでもどうかと作らせたものだが、誰かが信長さんに献上したらしく、お風呂での玩具としてお気に入りだというのでウチにも置いてある。
ちゃんと危なくないように角とか丸くしてあるし、木のいい匂いがするものだ。これも地味に売れているんだよね。
のぼせないように気を付けないとね。でも、こうして一緒にお風呂に入るのは楽しいし、吉法師君たちもよろこんでくれるからいいね。
さて、そろそろエルが着替えと湯上がりの冷たい飲み物を用意してくれてる頃だ。蒸し芋はまだ早いかな。
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