第六百八十八話・菊丸さんの旅道中

Side:久遠一馬


 一行は一路、東山道を西へ向かう。宿泊する場所は城もあれば寺もある。その辺りは六角家にお任せになる。


 食事は可もなく不可もなく。日頃のウチの食事がこの時代では贅沢なので、食事の質が落ちるのは確かだ。とはいえ、野草の入った雑炊が出てくるということなどあり得ず、近淡海ちかつあはうみと呼ばれている湖、元の世界での琵琶湖のお陰か、魚などもほぼ毎食出してもらえるので悪くはない。


 個人的にこの時代の食事も、それはそれで美味しく食べられるので特に気になることはないんだけど。


「なにをしておるのだ?」


 この日は朝から予定通りに出立したのだが、お昼前に雨が降り出して近隣の村の寺で雨宿りをしている。旅の途中は一日二食にしていたが、時間があるということでエルと一緒に昼食の準備をしていると義藤さんがやってきた。


 史実では義輝という名で有名だが、この時代ではまだ義藤と名乗っている将軍様だ。


 相変わらず楽しそうだな。彼は当然ながら徒歩での旅なんてしたことはない。初めての徒歩での旅だけに足に豆が出来て痛そうにしていたが、それでも旅を止めるとは言わない。


 ただこの人、よくオレたちのやることに興味を持つ。太田さんの日記や慶次のスケッチに護衛の配置やジュリアの鍛錬などなど。


 上げ膳据え膳で周囲を多くの近習に囲まれていた義藤さんには、一切の自由がなかったらしい。なにか質問しても、上様が知らずともよいことでございます、と言われて終わったそうだ。


 答えてくれたのは、藤孝さんなどの本当に少数の者と卜伝さんだけらしい。結局、今回の観音寺城への同行を許したのは、そんなごく少数の近習だけだった。


 もっとも、その近習もほとんどがアリバイ作りに、観音寺城に残っているけど。


 まあ、史実でも江戸時代の将軍なんかは、スケジュールが決まっていて自由がなかったというしね。義藤さんの場合は余計な人が取り入らないようにと側近がガチガチに固めていたっぽいね。


 六角家の寄越した護衛の皆さんも、勘のいい人はただの武芸者の弟子ではないと気付いている人もいる。もっとも正体まではバレてないが、どっかの貴人の息子ではと噂になっているほどだ。


 本人は大人しくしているつもりでも目立っている。仕方ないけど。


「ちょっとお昼の支度をしているんですよ」


「昼? 昼になんの支度がいるのだ?」


 ああ、この時代だと昼食を食べる習慣がないから理解出来ないのか。尾張だと三食が普及してきているから忘れていたよ。


「ウチは一日三度食べるんですよ」


「ほう、左様なところも違うのか。されど飯の支度など下人にやらせればよかろう」


「私たちはこれが当然なのですよ。自ら食事の支度もしますし、掃除もします」


 彼の感覚ではオレとエルたちも織田一族なので、下働きがするようなことはしなくていいと思っているようだ。こうして話していると新しい発見もある。身分という定められた社会システムからなる常識。知っているようで知らない価値観がわかる瞬間でもある。


 尾張では本当に自由にやらせてもらっているなと実感もするね。


「なんだそれは? 芋がらか?」


「蕎麦の乾麺ですよ。素麺のようなものを蕎麦で作ったんです」


 暇なんだろうね。お供の藤孝さんが少しハラハラしているが、義藤さんは気にする様子もなくオレたちのやることを眺めている。


 そんな、なんにでも興味を持つ子供みたいな将軍様が興味を示したのは、蕎麦の乾麺だった。ウチで持ち込んで牧場で試作したものになる。


「素麺か。あれはいいな。殿下に頂いたことがある。それは……、硝子か?」


「ええ、尾張から持参した当家の調味料ですよ」


 驚きは芋がらを知っていることか。少し聞いてみると、戦のことを教わった時に見せてもらったことがあるらしい。硝子の瓶はウチで献上しているから知っているみたいだ。


 それにしてもどうなるんだろうね。いっそ適当な武士の家の庶子ということにでもしたほうがいいと思うけど。


 まあ、塚原さんが考えるか。責任を取らないことは口にしない。ほんと、観音寺城で余計なことを言って皆さんに迷惑をかけたから、今後は徹底したい。


 義藤さんはそのまま、オレとエルが調理する様子を興味深げにみていた。


「ほう、久々じゃの」


 昼食が完成すると、義統さん以下、尾張から来たみんなと卜伝さんたちに配って軽く小腹を満たすことになる。


 義統さんは近江に入り、初めてのエルの料理を思った以上に喜んでくれた。


 メニューは冷やし蕎麦だ。薬味とか具がないのが少し寂しいが、旅の途中だから仕方ない。ただつゆは尾張から持ってきた醤油をベースに作った。


 荷物になるのであまり持ってこられなかったが、調味料とか乾麺や粉物は多少持ってきたんだよね。


 ズルズルと蕎麦をすするオレたちを、不思議そうに眺めている稙家さんと義藤さんたち。卜伝さんとお弟子さんも尾張に滞在していた期間があるから同じ食べ方を知っているんだよね。


「おおっ」


 稙家さんは啜らずに食べ始めたが、義輝さんはオレたちを真似するように食べて驚きの声をあげた。


 そういえば、昨日の夜には熱い味噌汁をそのまま飲んでいたら驚かれたね。今までは毒見してしばらく様子を見たのちに冷えたものを飲んでいたそうだ。


 まあ身分のある人はそれが普通かもしれないが、今回は六角家のお世話になっている身だからね。信頼しているという意味もあり、オレたちは出されたものをそのまま食べている。医師の曲直瀬さんを隠れ蓑にした医療型アンドロイドのマドカがいるということもあるが。


「かような美味いものがあるとは……」


 あの、義藤さん。将軍様に戻っていますよ? 稙家さんと卜伝さんも苦笑いしている。


「本当は、蕎麦は挽きたてが一番美味しいんですけどね」


「左様なのか!?」


「ええ。まあ……」


 なんかガーンと効果音でも聞こえそうな顔の義藤さんに問われた。そんな衝撃の事実か? 蕎麦は安いから尾張だと庶民も食べているものなんだけどね。


 日頃、なにを食べているんだろう。


 最近は清洲を始め、あちこちに、挽きたて・打ちたて・茹でたての蕎麦を食べさせる店もある。オレ自身はあまり外食はしないけどね。あちこち視察に行くと、そういうのを見ることはあるんだ。


「菊丸殿、エルの料理は別格じゃぞ。尾張では並び立つ者がおらぬほど」


「なに、そうなのか?」


 困った将軍様だとでも思ったのか、義統さんがあまり失礼のないようにと気遣いつつ義藤さんにエルのことを教えると、驚きながらオレとエルを見ていた。


 まあ義統さんからしたら我が子くらいの年齢だ。しかも遠縁の親戚になる。足利家は嫌いだが、義藤さん個人を恨むほどではないという感じか。同情や共感などいろいろあると思うが。


 食後は紅茶とそば饅頭になる。


「これも美味い。旅先で菓子を作るとは恐れ入った」


 食べ方、話し方、態度。どれも将軍様に戻りつつある。周囲に素性を知らない人がいないということもあるけど、態度の使い分けが出来ていないね。何事も勉強と経験が必要なのだろう。


「ほっほっほっ。噂はまことであったか。尾張の久遠では極楽浄土のような菓子を作ると聞いてはおったが」


 それとこの人もご機嫌で楽しげだ。近衛稙家さん。殿上人であり身分が違うんだけど。なんでオレたちと一緒に蕎麦を食べているのだろう。あげないわけにいかないから、近習に届けてあげようとしたら、向こうからやってきた。


 この人と公家の皆さんだけは蕎麦を啜ってなかったね。麺類はそういう食べ方なんだろう。蕎麦の美味しさが損なわれる気がするなと思うけど、こちらの食べ方にケチを付けないなら、ほんとお好きにというところかな。


 ただ、極楽浄土のような菓子とはなんだ? お土産にばら撒いているようかんのことか? 食えない人だなぁ。ちゃんとウチの情報を持っていたのか。


 確実に探られているね。友好的だし、身分を理由に上から申し付けることなどしないからいいけど。世慣れているのは勿論、旅慣れている感じか。上手いこと状況を利用しているということは油断ならない人だ。


「主上におかれても、かように美味なる食、召し上がって頂きたいものよの。近頃は勤皇に励む者も少なくて嘆かわしいことじゃ。武衛と三河守くらいじゃの。主上を案じて折々にと品々を献上してくれる者は」


 遠回しに菓子を献上しろと要求されているのか? いや、そういうのが喜ばれていると教えているだけか。なにが価値があってなにを喜ぶか。こういう情報を提供することで自分の価値をこちらに示す。


 この前から感じていたけど、この人、気を許すと危ないかもしれない。エルに視線を送り、気を付けるようにと確認する。多分、エルも同じことを感じたはずだ。


 義統さんや信秀さんも察したと思うけどね。オレたちは目立つから特に気を付けないと。


 もうすぐ山城国に入るな。どうなるかね。三好は今頃慌てているのかもしれない。



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