第六百八十七話・出立

Side:六角定頼


 観音寺城麓にある館から今日、武衛殿らが上様を密かにお連れして出立される。わしは門まで自ら見送りに出ておる。


「お世話になり申した」


「あの、管領代様……」


 武衛殿ら織田殿と別れの言葉を交わす中、久遠殿がなにかを言おうとしておった。まるでわしを案じるような、左様な顔をしてな。


 いつ以来であろう? かような顔をされるのは。


「久遠殿、よき旅を祈っておる。次に会うた時には、唐天竺の話でも聞かせてくれ」


 わしはとっさに否と首をわずかに横に振ると、感謝を込めて言葉をかける。


 なにを言おうとしたのか、定かではない。ただ、わしの体のことを案じて診察を申し出るのではと思えた。


 昨夜行った別れの宴の頃からであろうか。わしの体の不調を察しておったのではと思える者が幾人かおったのだ。


「はい、ではいずれまた……」


 その答えにわしは、己の思い違いでないことを悟る。この若さでたいしたものだ。


 されど、今、わしの体のことを知られるわけにはいかぬ。たとえ六角家中の者たちでもな。


「行ったか」


 出立する者らが羨ましいと言えば家中の者たちは、如何様な顔をするのであろうな?


 武衛殿も弾正忠殿もまだまだ若い。あと十年や二十年は生きられるであろう。公方様や三郎殿や久遠殿に至っては言うまでもない。


 あの者たちは如何様な世を生きるのであろうな。ふと、そんなことが気になった。公方様に至っては、最早、その地位に執着どころか邪魔だとすら思い始めておる。遠くないうちに天下は再び揺れることになるのやもしれぬ。


 気持ちは分かる。されど足利将軍家はかつて後継争いで大乱を起こしたことがある。その二の舞いにならねばよいがな。


「父上、よろしかったのでしょうか。管領殿を差し置いて、このようなことを……」


「四郎よ。上様と管領殿の仲は、最早、如何にしようもないのだ。下手に関わると双方から恨まれるだけぞ」


 共に公方様の見送りをしておった嫡男の四郎義賢しろうよしかたが、あまり納得がいかぬ様子で声を掛けてきた。


 もう三十になるというのに、いまひとつ物足りぬ嫡男だ。武衛殿や弾正忠殿はもとより、殿下でさえ驚かれたほどの見識を示した久遠殿や、そんな久遠殿を妬みもせずに信じて任せる三郎殿と比較してもいささか物足りぬ。


 なにより世の流れを未だ掴んでおらぬことが不安でならん。


 まだ讃岐や丹波は管領殿の力の及ぶところなれど、その所領に戻るでもなく近江で策謀するあの男では三好長慶には勝てん。こんな乱世なればこそ、信義に勝る力はないのだ。側近すら信じず己以外は配慮すらせぬ管領殿では世が治まらぬ。


「よいか四郎よ。世の流れとは、如何程の武勇や智謀があっても、人には止められぬ。信義を重んじ、家臣と力を合わせて生きるのだぞ」


「父上……。何故、今そのようなことを……」


 物足りぬが愚か者ではない。欲を出さずに所領を治めておれば問題はあるまい。つい幼き日を思い出してか、説教をしてしまった。戸惑う四郎に精進するようにと言いつけて空を見上げる。


 気になるのは尾張の行く末がわしにも見えぬことだ。一歩間違えると朝敵にでさえ、されかねん危うさが尾張にはある。されど……。


「御屋形様!!」


 四郎がこの場から辞して、しばしした時、突然胸が痛み出した。そのあまりの痛みに、つい我慢できずによろめいてしまった。


「大事ない。騒ぐな」


 近習が慌てるのを一喝して、何事もないように振る舞う。今、倒れるわけにはいかぬ。浅井領の始末も付けねばならんし、三好との和睦も決めねばならん。


 わしが倒れれば、荒れる世を誰も止められなくなるやもしれぬのだ。若い者らに地獄のような世を残すなど、なにがあろうとあってはならぬこと。


 四郎にはよく言い聞かせておかねばならぬ。くだらぬ争いは命取りになるとな。北伊勢、甲賀、伊賀は織田の影響が日増しに高まっておるのだ。くだらぬ争いで離反せぬとも限らぬ。


 しかし困ったものだな。これではいつ隠居出来るかわからんではないか。




Side:久遠一馬


 観音寺城を後にした。義輝さんがいるからか、城の門まで見送りに出ていた定頼さんの姿が何故か印象的だった。


 これが最初で最後、本当に『一期一会いちごいちえ』になるかもしれない。そう思うと手を差し伸べたくなる。とはいえこちらの医師の診察は望まなかった。


 ついさっき、オレは医師の派遣を提案しようと思ったが、定頼さんに止められた。観音寺城から尾張は遠くない。ケティは難しいが、誰かあまり名前が知られていない妻ならば密かに動けるはずなんだ。


 マドカの見立てと史実に鑑みると病に侵されている可能性が高い。だけど定頼さんの体調が外部に漏れると六角が揺れかねない。


 天下をなんとか落ち着かせようという覚悟のようなものがあった気がした。凄いな。歴史の偉人って。


 次に会った時には……。会えるといいな。もう一度会って、しっかりと話をしたい。難しいだろうけど。


「それにしても……」


 厄介事を抱えてしまったのかもしれない。卜伝さんの弟子として、馬にも乗らずに他のお弟子さんと共に歩いている義輝さんを見るとそう思う。


 表向きには、オレたちの上洛に、近衛稙家さんと数人の公家が同行することになっただけになり、義輝さんは観音寺城にいるという体裁になっている。


 エルとジュリアとマドカは引き続き輿に乗っていて、その護衛として義輝さんがいるんだから周りはなんとも言えない様子になる。


 もっとも本人は自由を楽しんでいるが。


「久遠殿、何故険呑けんのんな旅に奥方が同行しておるのか聞いてよいか?」


 旅は当然六角家の護衛もいる。問題なく進んで休憩になると、義輝さんが唐突にそんな疑問を口にした。


「三人が世を見たいと言ったからですよ」


 義輝さんは菊丸と名乗っている。幼名の菊幢丸から取った偽名らしい。


「ほう、同じか」


「言われてみるとそうですね。危ういので今回のような機会でなければ畿内を見られませんので」


 過剰な態度と敬語は禁止だ。当然だが、義輝さんの正体は知らない人も多い。そもそも将軍様が人に素顔を見せること自体が珍しい。普段は御簾みすというすだれの中にいて謁見する。


 オレたちは茶会と招かれた宴で見たが、資清さんたちは見ていないので今日初めて見たことになる。もちろんウチの家臣には伝えてある。当然警護の問題があるからだ。


 まあオレはさほど抵抗感はない。ただ、この時代のみんなは戸惑っているみたいだけどね。


「ウチは船で海に出ないと生きていけなかったからね。女が屋敷に籠るなんて習慣はなかったんだよ。それに上げ膳据え膳なんて、つまらないしね」


 移動で輿に乗っているせいか、休憩になるとジュリアは体を動かすことが多い。多分、輿が性に合わないんだろう。卜伝さんの弟子から木刀を借りると素振りをしながら、オレの返答を聞いて興味深げにしていた義輝さんに自分から声を掛けていた。


 こういう場合、難しいのは加減だよね。あまり無礼な態度で接すると駄目だし、かと言って過剰な対応でも駄目だ。義輝さんの性格か卜伝さんとの繋がりの影響か、ジュリアが一番義輝さんを理解しているのかもしれない。


 あと、三好長慶には、京の都で義輝さん名義で和睦をしたいと密使を送ったらしい。定頼さんと稙家さんの意向も伝えられる予定で交渉は稙家さんがするそうだ。三好も無視はしないだろう。


 史実を見てもわかるが三好長慶が拘るのは細川晴元だ。自分で天下を治めたいのかどうかは分からないけどね。


 義輝さんは自ら天下というか足利将軍家と現体制に嫌気が差しているようだし、この先どうなることやら。


 晴元も当然まだ自身の天下を諦めていないはず。定頼さんの生きている間にどこまで落ち着くかだよね。


 義統さんと信秀さんが官位をもらったら、義輝さんと三好の和睦のどさくさに紛れて京の都を出てしまえればベストか。


 ロボとブランカ元気かなぁ。早く帰ってのんびりと散歩に行きたいよ。




◆◆◆


 六角家の全盛期を築いた六角定頼と戦国の異端児久遠一馬の対面は、たった一度だけであった。


 斯波義統と織田信秀の上洛に同行した一馬が、観音寺城にて滞在した時に対面が行われたと幾つかの資料にある。


 この時、観音寺城には時の将軍足利義藤が訪れていて、後世で有名な観音寺城の謁見が行われたが、そのお膳立てをしたのが六角定頼だったと伝わる。


 この当時、京の都を制していたのは三好長慶であったが、定頼こそ事実上の天下人であったという歴史学者もおり、彼の寿命があと十年あればまったく変わった歴史になったとも言われている。


 楽市令を最初に始めた定頼は、一馬の力とその先を見抜いていたとも言われていて、息子と六角家の行く末を案じていたと一部の資料に残っている。


 一方、滝川資清の『資清日記』には、この時すでに定頼が病に侵されていたことを同行した一馬の妻である久遠マドカが見抜いていたとの記載もある。


 一声かけてくれれば治療も出来たかもしれないと一馬が残念がったほど、彼の存在は近江のみならず天下にとって大きかった。


 急速に拡大発展していく織田家に対抗出来る数少ない武士が、六角定頼だったというのが現代の定説となっている。






◆◆

四郎義賢。史実の六角承禎。


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