第六百六十六話・西と東の苦悩
Side:堺の商人
「尾張は熱田で花火か。一度は見てみたいな」
そろそろ夏だというのに、堺は相変わらず活気がない。わしもすっかり暇になった店で帳簿を見るしかやることがない。
少し前には西国や遥々九州の商人も立ち寄ったが、特になにかを買ったわけではなく尾張に向かう途中に寄った程度だ。
尾張で売れそうなものを探しておったようだが、ここにある物で尾張が欲しがると言えば山科の茶などごく僅かな貴重な品しかない。その貴重な品ですら、近頃は近江から尾張に入るのでここで買っても儲けはあまり期待出来ぬのが現状だ。
近頃の堺で売れておるのは鉄砲と武具くらいだ。織田が金色砲や鉄砲で勝っておるからな。特に金色砲と鉄砲はどこも欲しがる。
金色砲は作り方すら知らぬ。
鉄砲は作れるものの安くはない。しかも鉄砲は国友や雑賀などあちこちで作っておるのだ。世評が落ちている堺から無理に買う必要もないからな。
それに鉄砲を用いるには玉と玉薬がいる。肝心の玉薬に必要な硝石は明から買わねばならぬが、近頃は堺にくる明の船も減ったので値が高くなりすぎて誰も買わぬ。先年、南蛮人に船を沈められた密貿易商人が明に帰ったことで堺は駄目だと思われたのかもしれんし、九州や西国相手でも利になるのかもしれぬ。
詳しい事情は会合衆ならば知っておるのかもしれんが、わし程度の商人では理由すら教えてもらえん。
それでも三好様を筆頭に畿内を相手に鉄砲そのものは売れておる。儲けておるのは鉄砲や武具を扱う者と堺銭を造っておる者くらいであろうな。
諸々の職人は減った。堺に見切りを付けて他所に移ったのだ。裏切り者と会合衆は罵っておるらしいが、下らぬ理由で尾張と争う会合衆に嫌気がさしたというところが本当のところだろう。
尾張や伊勢では仕事があって暮らしも上向くと聞くしな。
「相変わらず暇そうだな」
「お互い様だ」
ため息交じりに帳簿を閉じると、馴染みの商人が店に顔を見せた。顔を見ただけでもわかるほどお互いに苦しい立場だ。代々堺の商人として生きてきたからと踏ん張っておるが、いつまで店を開いておられるのやら。
「三好様も会合衆と組んだ。これからはよくなるといいが……」
馴染みの商人は諦めにも似た表情をした。
三好様が間を取り持って尾張と和睦する。それが堺の者の望みだ。斯波家、織田家、久遠家に絶縁されておる現状で和睦を仲介出来るとすれば、京の都を押さえる三好様くらいしかおるまいと思うのだが。
会合衆は依然として尾張を下に見ておると聞くが、本音ではもう争いはたくさんだという声があるのだとか。面目もあるので尾張如きに頭を下げられるかと意地を張っておるらしいが、いつまでその意地が持つのやら。
「桑名で織田と争った商人は、皆、同じ桑名の商人に殺されたそうだ」
「駄目だろうな。やるなら三好様が許す前にやるべきだった。会合衆に異を唱えておった者らは出ていったからな」
わしらが世話になっておる会合衆の商人もおる。今しばらくは我慢してくれと頼まれて従うておるが、会合衆ですら一枚岩ではなく争うようになってきたと聞くくらいなのだから、あてになど出来ぬのであろうな。
「会合衆が造っておるあの船、大丈夫なのか?」
「さあな。金色砲は上手く出来ぬらしいとは聞いたが」
無論、会合衆も無策ではない。尾張の黒船を模した船と金色砲を造らせておる。あれが出来れば尾張になど大きな顔はさせぬと息巻いておると聞くが、船は形になってきたが、馴染みの商人いわく金色砲はまったく上手くいかぬらしい。
本当にいかになることやら。
Side:今川義元
「なんとか夏の間に攻められるか。雪斎」
「はっ」
気が付くと我が今川家は、周囲の国の顔色を伺わねばならん立場となっておる。
東三河では何故三河を割るのだと不満を口にする者が多い。故郷を割られたのだ。怒っても仕方なきこと。心情は理解するがな。
遠江は大人しいが内心では不満もあろう。西三河では織田が飢えぬようにと食べ物を流しておる様子。飢えぬだけでもいいのだ。国人程度からすればな。
斯波と織田は相も変わらず西三河には臣従を求めぬようで、未だに立場を定めることが出来ぬ者が多いと聞くが、それでも吉良は臣従を申し出たとか。
所詮は織田の力で遠江の旧領奪回でも企んでおるのであろうがな。せいぜい織田の足を引っ張ってほしいものだ。
「北条が気になるの」
「いかにも織田の統治を真似ておる様子。東海道も駿河を素通りしていく商人が多くなっており懸念しておりまする」
それと先年の地揺れでは北条も武田も今川家も被害があったが、北条はすでに地揺れのことなどなかったかのように領地が落ち着いておる。
尾張をいでて、駿河や遠江の湊に立ち寄らぬ織田の船は、今も年に幾度か関東に行っておるようだ。陸でも織田との和睦の条件に、今川領を通る商人への手出し無用を盛り込まれて以降は増える一方じゃ。
税も入るので東海道沿いに領地がある者は喜んでおるが、多くの荷が素通りするのを見ておるだけという状況に不満を口にする者もおる。
頭が痛いのは、未だに集めた兵で西三河を、更に尾張を攻めるべきだと考える者が多きことか。中には武田と謀って攻めれば、織田など物の数でないと豪語する者までおると聞き及ぶ。
左様なことしてみろ。西と東から攻められてしまうわ。北条が織田から
武田は勝つ者に味方するであろう。素知らぬふりをしてこちらを攻めてくるのが目に見えておるわ。
「それで寝返りそうな甲斐者はおるか?」
「今のところは……。野戦にて大勝でもすればわかりませぬが。信濃にも声を掛けておりますが、あちらもあてに出来ませぬ。信濃はまとまりがなく武田に敵が増えたことで、むしろ信濃内での争いが起きておりまする」
関東には手が出せぬので信濃に期待したが、まとまることすら出来ぬとは。晴信に隙を与える程度の連中ということか。
「それと言いにくくございますが……、信濃は我らより斯波と織田に期待しておりまする。今川家と斯波の因縁を知らぬ者はおりませぬ。また斯波が小笠原長時を助けておると思われ、余計に当家に味方する者が少のうございます」
信秀の仕業か。相も変わらず隙のない男じゃの。長時は居城を失った程度の男故、助けを出しても高が知れておろう。とはいえ、かような世だ。助けるだけでも期待してしまうか。
小笠原はかつて遠江での戦において、斯波に後詰めを送ったこともあるはず。そこを持ち出したのかもしれんが、なにかと噂の尾張から助けが来れば今川家に味方するとも思わぬか。
さすがに兵を挙げてくると思うほどおめでたい考えはせぬとは思うが、仏と噂の弾正忠が味方となって助けを寄越したと吹聴するだけでも違うはず。
「このまま織田が大きくなったことで、織田と久遠が争えば面白いのだが……」
「御屋形様。安易な期待はなりませぬ。仮に織田と久遠が争う時が来るやもしれませぬが、それは天下が見えた頃でもなければまずあり得ませぬ」
「分かっておる。言うてみただけだ」
国を治めるということがいかに難しいか、わしにはよく分かる。僅かな間に領地が広がり新参から古参まで入り混じると争いが絶えぬはずだ。
何故、織田は上手くいくのだ?
まあ、よいか。いつか今川家にも好機が訪れるはずだ。その時のために今川家は武田を食らい大きくならねばならん。
仮に雪斎の語るように織田が畿内を制したとしても、無下に出来ぬ力をもっておれば粗末には扱われまい。
なんとか甲斐を切り取り信濃まで制することが出来れば……。
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