第三百五十五話・松平宗家への布石と温泉

Side:久遠一馬


 政秀さんを介して、松平広忠から信秀さんに手紙が届いたらしい。竹千代君の扱いに感謝するという手紙だ。史実を知る身としては、竹千代君を返せって手紙でないのにちょっと驚きだ。


 信秀さんの人質解放の際に、竹千代君の扱いも問題になった。母の於大おだいの方、伯父の水野信元さん、信秀さんに信長さんを交えて話し合ったそうだ。


 竹千代君は現在信長さんの近習という扱いで多くはないが禄も貰っている。どうも真面目な性格らしく学校にほとんど毎日通っているとのこと。


 信秀さんは岡崎に帰すという選択肢も提案したらしいが、現実問題として帰したところで今川の人質となるだけのことで水野さんが反対したそうだ。


 もちろん信秀さんもそれは百も承知だ。ただ竹千代君と水野さんに選択肢を与え、選択させることが目的なんだろう。竹千代君本人もまた母と別れて今川に行くことなど望むはずもない。


 広忠は竹千代君の待遇のお礼を言うことで、万が一にも岡崎に帰すということは不要だと言いたいのかもしれない。


 ただ、史実の死期を越えた彼だが、身辺は相変わらず少し危うい。西三河は親織田と親今川に分かれているが、国人衆の中には今川に人質を出しているところが少なからずある。


 彼らからすると自分たちの人質を見捨てて、長年の敵である織田に付く者は裏切り者だと息巻いてる人もいるらしい。


 もっとも以前と違い今川が有利ではないことに気付いている人もそれなりにいる。


 問題は松平宗家当主が死んでも困らないと考えてる人が多いことか。三河武士の忠誠心は現時点では織田よりも低いのかもしれない。


 織田は信秀さんがいなくなれば困るのをみんな知っている。比較するわけではないが、彼のいいところはあまり見えてない。上手くいかない時はそんなものだろう。


「松平宗家に手を貸すのか?」


「はい。織田家が前面に出るのはよろしくありませんが、大湊の商人ならば……」


 この日は信長さんと一緒に鷹狩りに来ているが、休憩の合間にエルが対三河の次なる一手を提案したら信長さんは少し考え込む。


 広忠が危ういので、エルと相談して大湊の商人を介して支援する策を考えたんだよね。


「それで織田に従うとは思えぬが」


「当面は現状維持が望ましいので構わないですよ。それに少し利を与えませんと、なにをするか分かりませんので」


 広忠が本当に織田家に従うのかは現時点では不明だ。そもそも三河統一を諦めたのかも定かではない。こちらのオーバーテクノロジーでも人の心は覗けない。


 ただ、せっかく織田家寄りになった広忠と三河の国人衆たちに多少は飴を与えないと、勝手に騒動を起こしそうなんだよね。もっとも中には利を与えるとそれで戦だと考える人もいるから様子を見ながらになるが。


「獲れなくもないのが悩ましいな」


 信長さんは少し困った顔をした。誰が考えても三河を織田家が獲れる可能性は高い。ただ、その先はそう簡単ではない。


「今川はまだまだ強大です。外交と商いを鑑みれば抑え込めていますが、なまじな敗北を与えれば本気になってしまいます」


 エルは今川との戦は駿河まで一気に攻め獲れる機会がくるまでは、なるべく織田にとって無駄な戦はしたくないようなんだ。今川義元と太原雪斎のふたりに中途半端な負けを与えると、本気で動きかねないと警戒している。


 名門という自負と今川家という家格で自由に動けない部分がある今川に敗北を与えると、なりふり構わず本気で織田家を倒しに来る危険があるからなぁ。


 外交も決して油断出来ない。史実で武田・北条・今川の三国同盟を成立させたのは今川の太原雪斎なんだよね。


「ずいぶんと高こう評しておるな」


「家として持つ地力は斎藤家とは比較になりません。西三河では織田が優勢ですが、相手は駿河・遠江・東三河を治める大国です。現状の織田であれば、互角以上に戦えるとは思いますが……」


「六角と朝倉も無視出来ん。勝算がないうちは動かぬほうがいいか」


 信長さんの今川に対する評価はオレたちよりも低い。史実と違い織田家は今川に負けてないからだろう。もちろん無能とまでは思っていないのだろうが、はっきり言えばこちらの工作に今川はなにも対応出来てないのが現状だからな。


 一気に駿河まで行くか北条と結んで駿河を分けることが出来るのならばいいが、中途半端に攻めると武田がどう出るか怪しいんだよね。武田も現時点では評価が必ずしも高くないしさ。オレたち以外はそこまで警戒していない。


 まあ、信長さんはエルが評価することで相応に評価している節がある。あの今川と互角以上に戦えると言い切ったエルも凄いけどね。


 実際、信秀さんの信頼は厚いし、エルが存分に采配出来ればそう難しいことじゃない。


 だいぶ話が逸れたが、要は松平宗家に大湊の商人を介して支援するということ。大湊クラスになると何処と取り引きしてもおかしくはない。隠れ蓑というほど隠せないだろうけど、あからさまでないのが大事だ。


 どのみちこっちが困るほど支援するわけじゃないしね。問題は広忠が支援を上手く活用出来るかだ。蔵の肥やしにしたり使い道を間違う気がしないでもない。




「そういえば蟹江に温泉が出たらしいな」


「ええ。苦労しましたよ。相当深く掘りましたから」


 三河の話が一段落すると温泉の話になった。


 実は数日前から蟹江の普請場で温泉が出たと騒ぎになっている。史実の尾張温泉のことだ。一応事前にこっそりと科学調査して温泉が出るのは分かっていたので、掘っ立て小屋と陣幕でやり方を隠して上総掘りでひたすら掘っていた。


 工事をしていたのはウチの家中からの選抜者と佐治さんから借りた大野からの人足さんだ。井戸掘り経験のある人たちを頼んだ。交流が多いからいろいろ頼みやすいんだよね。


 深さ千メートルを超えてようやく温かい温泉が出たらしい。


「新しき湊に温泉と、賑やかになるな」


 以前はたいしたものがない海沿いの土地が港と温泉で大騒ぎになってる。信長さんは近場で温泉に入れることが嬉しいようでご機嫌だ。


 当分は蟹江で賦役をしている労働者たちが入れるように公衆温泉にするが、ゆくゆくは建設する城や町に引いて温泉街にしたい。


 温泉の名前は広忠支援の許可をもらうついでに信秀さんに付けてもらうか。というか蟹江の名前も変えたほうがいいかな? まあその辺りは相談だね。


「ただ、こうなると河の治水計画をもう少し考えるべきかもしれません」


 港と温泉に工業村に牧場と産業も順調だが、尾張の欠点は史実でも度々氾濫して本流の位置すら変わる木曽三川になる。


 織田家の本拠地として発展させるには治水が必要だとエルが懸念を示す。


「武芸大会の儲けでは足りぬか?」


「残念ながら。場当たりの処置だけでも足りません。ただ懸念は資金よりは人、労力でしょうか」


 河川の堤防工事は昨年行われた武芸大会の賭けで儲けた分ですでに行われていたが、農繁期に入り止まっている。優先順位が清洲と蟹江より低いからなぁ。


 蟹江の港に関しても高波対策と洪水対策はそれなりに考えはしたが、他の地域がねぇ。


 清洲なんか町の中に川が流れているからね。工業村は洒落にならない被害損失になるからか堤防で囲んであるんだけど。


 まあ、問題はエルが懸念する通り、資金より労働者不足だ。下手すれば天下普請クラスの賦役を複数同時進行しているからね。


「そこまで言うならば策はあろう?」


「はい。西美濃と斎藤家から農閑期に人足を派遣してもらうべきかと思います」


「北伊勢と同じことを致すか」


 そこで解決策だが、足りない労力を美濃から持ってくる計画を立てたんだ。これには美濃と尾張を一体化する布石としての意味もあり、織田家の力と尾張のよさを美濃の人に知ってもらう目的もある。


 信長さんは流石に慣れたのかあまり驚かなかった。というか織田と久遠と大湊で組んでる現状が驚くほど儲かるんだよね。


 堺から東国の商いを半ば奪いつつあるし、畿内や西国にもお酒や絹に硝石なんかがいくらでも売れる。


 特に正式に臣従した大垣周辺の人たちには、相応の利を与えて動員しないともったいない。


「ゆくゆくは美濃の河川工事でも役に立ちます。あちらも河川の氾濫は悩みの種でしょうから」


「領地が広がれば広がったなりに悩みは尽きぬのだな。親父に話してみるか」


 休憩も終わると鷹狩りを再開するが、信長さんは次から次へと問題が出てくる現状に何とも言えない表情をした。


 こんなに大変だと思わなかったんだろうなぁ。武士を従えて武力で天下布武とかいうレベルじゃないから。


 とはいえこの方法が有効なのは確かで、今川も斎藤もほとんど戦をしないで、今川の抑止、斎藤の弱体化が出来たんだ。


 夏には蟹江で海水浴をして温泉でのんびりと出来るかな?




◆◆◆◆◆◆◆◆


 尾張温泉


 尾張温泉の歴史は戦国時代までさかのぼる。


 蟹江にて港の建設が織田家により行われていた時に、温泉を掘り当てたと言われている。


 なぜこの地で温泉を掘ったのかは定かではないが、久遠家が命じて掘らせていたことは確かなようで、当時としては最新の技術である現代の尾張掘りにてひたすら深く掘られたと伝わる。


 この尾張掘りは久遠家が尾張に伝えたと言われ尾張では久遠掘りとも言うが、後に全国に広がった時には尾張掘りと呼ばれるようになり現代に至る。


 風呂好きとして知られる久遠家だけに温泉を狙っていたという説があるが、詳しい経緯は不明。


 しかし現地では、一馬公が夢の中で仏に教えられて掘ったという伝説が伝わっていて、しばしばこの話の時に語られるが真相は不明である。



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