第三百五十四話・時を刻む

Side:とある医師見習い


「なるほど。左様なことが必要なのか」


「はっ、そのように教えを受けましてございます」


 殿の命で小田原の北条家に、地揺れの被災者の手当てと病が蔓延するのを防ぐために来たが、まさか北条家当主である左京大夫様にじかの目通りが叶うとは……。


 某たちは今、小田原城は謁見の間、左京大夫様の御前に座しておる。のぼえん階段きざはしを前に、庭に平伏して、縁側におる側近の声だけを聞き、顔も上げられぬ、甲賀におった頃の某が知る目通りではない。某は望月一族ではあるが、実際には下っ端の家臣に過ぎなかったのだぞ? 六角家の管領代様は元より、重臣方にすら目通りが叶ったことはなかったのに。


 某たちに出来ることは多くない。だが地揺れが起きて、多くの人が亡くなると流行り病が起きることがあるらしいので、それを防ぐ知恵は習うてきた。


 北条家では民の暮らしの再建をするべく動いておると聞く。今の尾張を除けば、常にはそんなことはせぬのだがな。城や寺社の再建と町の復興を大事とするのが当然で、民の暮らしなど己たちでなんとかするしかない。


 それが北条では人心を安定させることを第一に考えておるようだ。


 流行り病を防ぐ手立てはいくつかあるようだが、重要なのは死したる者の亡骸をきちんと弔うことを筆頭に手や体を清めることなど。


 亡骸は埋葬すれば弔う必要まではないらしいが、人心を安定させるためにも弔うべきだと習うた。どうしても無理な時のみ、供養は後日でも良いとな。


「ほう。それほど違うか」


「はっ、民の力の入れようが違います。それに貧しい者はそれで食べておりますので。ただ地揺れの復興は大変でございます。銭を配るところまではいかなくとも飯を食わせれば、それだけで十分かと思います」


 それと織田家でやっておる賦役に関しても聞かれた。北条家でも復興に賦役をしたいようだが、まもなく田仕事の時期でもある。それにそれぞれの家や田畑の再建などやらねばならぬことも多いからな。


 どこまで動員してやらせるか迷うのであろう。


 ただ賦役に銭を出すのは悪い策ではない。殿は『効率』と言うておられたか。実のところ、銭の有無で民のやる気がまったく違う。それに民が銭を持てば品物が売れて商人が儲かり、ひいては武家の税となる。


 もっとも北条家のように急に多くの賦役が必要ならば、銭ではなく飯を食わせるだけでも違うと尾張を出る前に助言を頂いた。もし関東で聞かれたらそう答えるようにとのことだったが。


 殿と奥方様たちはここまで読んでおられたのであろうか?


 というか某がいつの間に織田家名代になったのだ? 佐治水軍の者もおるし、他にも久遠家の本領の船乗りもおるのに。皆が某に任せるというのはいかがなのだ?


 望月の名は確かに名乗ってよい立場だが、甲賀では名乗ったことなどない程度の一族の端くれの身分なのだが。


 確かに久遠家の滝川と望月といえば関東でも名が知られておるようだが、それは某のような者ではないのだぞ。


 だが待てよ。そういえば某だけ、やけに多くの助言を頂戴したのはそういうことか? ともに尾張から来た同輩らは左京太夫様に頭を下げ控えるばかりで、某と目も合わせてくれぬ。


 まあ、某は出来る範囲で働くのみなので、立場は気にはしないが……。だが…、お前ら!謀ったな!


 事前に言うてくれてもいいだろうが!!




Side:久遠一馬


「これが時を知るものか」


 田んぼに青々とした稲が見られるとほっとするのは、オレもこの時代に慣れた証拠かな。元の世界だと当たり前の光景だったが、この時代だとちょっとした切っ掛けで飢饉が起きるからね。


 この日は清洲城に来ている。


 実は新たな清洲城の目玉となる施設の建設がもうすぐ始まるので、その前に小型の現物を献上に来たんだ。


「はい。時計といいます」


 もとは信秀さんの『清洲城になにか織田を象徴する施設でも作れないか?』という無茶ぶりから、エルが考えたものなんだが。清洲城の見張り台、この時代だと物見櫓とでもいうのかね。それを兼ねた時計塔を作ることにしたんだ。


 いまいちピンとこない人もいるようなので、先に置時計を献上することにした。史実でも宣教師が織田信長に献上しようとしたみたいだけど、扱えないからと辞退したとも聞く。


 欧州やオスマントルコなんかではあるものだし、別に勿体ぶるほどじゃないけどね。


 信秀さんと信長さんを筆頭に土田御前や他の子供たちも、不思議そうに置時計を見ている。ただし、お市ちゃんはよくわかってないと思う。


 にこにことしているお市ちゃんは、みんなでお茶するのが楽しいだけだろう。最近よく遊ぶからオレにもそのくらいは分かる。


「南蛮には斯様なものがあるのだな」


「実はこれ、ウチで改良したものなんですよ。南蛮と日ノ本では一日に於ける時の計り方が違うので」


 信秀さんたちは物珍しそうに見ているが、この時代の日本って時の計り方も違うんだよね。オレもこの時代に来て初めて知ったが、不定時法という一日を昼間と夜間を分けて、それぞれに六等分した時刻で生活しているんだ。


 一日は二十四時間という定時法ではなく、日の出から日の入りまでの日中の長さによって一刻の長さが変わるというややこしい仕組みだ。もちろん明確な指標はなくて、なんとなくこの時刻だろうで済ませている。


 オレたちが持参したのは、史実の江戸時代に発明されたという和時計になる。


 本当は元の世界のように定時法の一日が二十四時間制にしたい気もするんだが、それを領内に布告しても今ひとつ領民には理解出来ないだろうし。慣れないだろうからね。


 それに少し話が逸れるが暦もなるべくならば、この時代の太陰暦から元の世界で使っていたような太陽暦にしたいところだ。ただ、暦は朝廷が決めていることな上に、寺社の権益にもなっていることなので、少なくとも日ノ本を統一するまでは無理だろう。


 まあ、織田領だけで太陽暦と定時制に移行することなら考え方としては不可能じゃないだろうが、タイミングは見計らう必要があるだろうね。


 関東なんかでは独自の暦を使っているし、やれないこともないと思うが。根回しとかは必要かな。他国と日にちや時間が明らかに違うと騒がれそうだし。


 ただ、この件は騒がれる割に変えるメリットが少ない。太陰暦もメリットはあるからね。


「かじゅま、けてぃ、とりさんおって!」


 まだ幼いから落ち着くということが苦手なんだろう。そのまま時計と時法の違いと、暦の違いについて信秀さんたちにエルが簡単に説明している中、話に付いていけないお市ちゃんはオレとケティのもとに紙を持って駆け寄ってきた。


 どうやら折り紙がしたいらしい。お市ちゃんは本当に折り紙が好きだね。


「ほう。時と暦か。面白きことよな」


「ですが殿。暦はさすがに……」


「分かっておる」


 時と暦の違いに信秀さんと信長さんの表情が面白そうに変わると、土田御前がマズイと思ったのか止めに入る。もちろんこの時点で暦や時間を変えるリスクは、ふたりも理解しているらしい。


 信秀さんは以前に『古き習わしを変えていく』と宣言したが、実は幾つかは本当に変えているんだよね。


 例えばテーブルの使用も普通に取り入れているし、家族での食事は一緒にテーブルで食べているみたい。お市ちゃんがウチによく遊びに来るのもそうだし、信行君や他の子は学校に通って勉強しているし、行き帰りにはウチにも寄っていく。


 通常は織田家クラスになると家庭教師が付くのが標準的だし、今も彼らに教えてる人もいる。ただ、それだけでは視野の広い考えが身に付かないと、数日に一度は学校にくるようにもなった。


 信秀さん自身も何度も学校見学に来たし、時には授業を一緒に聞いたりしていた。その結果、城の中で周りにかしずかれてばかりでは駄目だと感じたみたい。


 信秀さんが若い頃は織田弾正忠家もそれほど大きくはなかったし、いろいろ揉まれて強くなった自負があるんだろう。信行君に関しては大人しすぎることに悩んでいたくらいだ。


 ああ、変えたといえば信秀さんは、信長さんに対しても変えた部分がある。


 家族で一緒に食事するために信長さんと帰蝶さんも度々呼ぶようにもなった。幼い頃から城を与えて独立させたことは間違いではないんだろうが、家族や兄弟と一緒に過ごす時間がもっと必要だと思うようになったらしい。


 まあオレとエルたちも一緒に呼ばれるけど。猶子にしたとはいえ、もとは他人だ。オレたちと信秀さんの家族も一緒にいる時間が必要だと思ったんだろう。


 この辺りはウチの様子を見て学んだんじゃないかってエルが言っていた。ウチでは家臣も忍び衆もみんな家族か親戚のように付き合っているからね。特に、抜け忍などは刺客を送られることもあるから、全員で一致団結して守る必要があるんだ。


 家族や一族に家臣などそれぞれ立場が違うが、出来るだけみんなで上手くやりたいと苦心していることはあまり知られてないのかも。




◆◆


 天文十八年春、久遠一馬が織田信秀に時計を贈ったことが『織田統一記』に記されている。


 同時代の欧州などではすでに珍しくない代物だが、日本に時計が伝来したのは早くても鉄砲伝来の時だと言われており、記録に残る最初の機械式時計はこの時の記録が最初となる。


 なお一馬が献上した時計は、当時の日本が不定時法により時を定めていたことに合わせた和時計と呼ばれるもので、別名久遠時計とも言う。


 欧州諸国の定時法の時計とは違うものなので、これは久遠家が発明したものだと言われており、当時の久遠家の技術水準の高さを表す貴重な記録となる。


 なお、この時の時計は現存してはいないが、同年より数年あとに土田御前に贈られたものは現存していて織田博物館にて展示されている。


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