第二百一話・織田家の人々と北条さん達
side:久遠一馬
今夜の接待メニューは、豆腐のステーキ・豆乳の味噌鍋・がんもどきと旬の野菜の煮物・揚げ出し豆腐・おいなりさんになる。
本当はおでんにしようかと思ったんだけどさ。大根がこの時期にないんだ。大根の入っていないおでんなんて、間違っても普及させられない。
ただ、今夜は
オレの感覚では質素にも感じるけど、豆腐はこの時代ではお坊さんなんかが作る手の込んだ料理になるみたい。扱いとしては贅沢品になる感じかな。
「実はひとつ皆様に詫びねばならぬことがございます。ここにおりますのは、我らが主、北条左京大夫氏康様の嫡男、西堂丸でございます。西堂丸。挨拶せよ」
「はっ! 北条西堂丸でございます!」
東の空には一番星が見える頃、集まった皆さんを前に、幻庵さんは突然頭を深々と下げると例の子供に挨拶をさせた。
やっぱり史実だと早くに亡くなった新九郎かぁ。小姓にしては態度がおかしかったもんね。気づいていた人は相応にいる。
「騙すようなことをして申し訳ございませぬ。すべては西堂丸に噂に聞く尾張を見聞させたかった某の責でございます。
「なんじゃ。突然、頭を下げたかと思えば。かようなことか。構うまい。のう弾正忠よ」
「はっ。守護様のおっしゃる通りかと。某も先日には
なんというか驚くほど深刻に謝罪する幻庵さんに織田家の皆さんは驚いていたけど、義統さんと信秀さんは素直にホッとしたような笑みを浮かべた。
あまりに深刻な表情で謝罪したんで不安になったんだろう。オレも何事かと思って焦ったよ。
「しかし、北条家の嫡男に他国を見聞させたいと連れてくるとは。駿河守殿もなかなかやりますな」
「左様ですな」
「城と所領だけを見ておればよい時勢ではない。久遠殿を見ておるとそう感じる。まさか相模の北条家にも同じような考えをする御仁がおるとは……」
織田家中の皆さんの反応は悪くない。伊豆・相模に武蔵も半ばまで領有する北条家は格上の大名だ。
そんな北条家が尾張を見聞させたいと嫡男を連れてきたのは、織田家中の皆さんの誇りを刺激したのかもしれない。悪い気はしないのだろうね。
ただ、中には同盟国でもない駿河や尾張に嫡男を連れてきた幻庵さんの力量に気付いた人もいる。油断ならぬ人だと少し厳しい視線を向けている。
まあオレとすると、城と所領だけを見ておればよい時勢ではない。そう語る武士がこの段階の織田家にいることに驚きを隠せない。そういう流れは作っているつもりだ。ただ、こういう場で口にするほど定着していたとは予想外の驚きだ。
「今宵の料理は豆腐に
挨拶も終わると宴だ。最近だと織田家の集まりには、ウチが関与した料理が多く出るから評判がいい。
やはり正月に信秀さんが出した料理の影響だろう。
今夜は豆腐料理に合わせて清酒も用意した。夏だから冷酒だけど飲んべえの皆さんは喜んでくれているみたい。
そういえば幻庵さん。昼間にウチで子供たちに相撲を教えてたのが信長さんだって気づいたかな? 時代劇なんかだと言われないと気付かないんだけど。気付いてもこの場で指摘はしないよなぁ。
ああ、西堂丸君には飲み物として冷やし飴を用意した。ご飯に合うかは微妙だけど子供も飲み物は欲しいかなって。お酒よりお腹に優しいはずだ。
side:北条幻庵
西堂丸の件は乗りきったか。それにしても武衛様は惜しいの。世が見えて己と周りと上手くやっておられる。関東に来て鎌倉で公方にでもなってほしいくらいじゃ。織田も手放さぬであろうがの。
今宵は澄み酒か。久遠家が僅かばかり造っておるが売り出してはおらず、織田家中に下賜されておると聞くあれか。
わしも初めて飲むわ。
こっ……、これもまた美味い酒じゃの。なにから造っておるか知らぬが、これほど甘くすっきりした酒がこの世にあるとは。
「西堂丸。そなたは飲みすぎるなよ」
「大叔父上。これは酒ではないような……」
「なんじゃと?」
「西堂丸殿の飲み物は酒ではありませんよ。水飴に生姜を加えて水で割った物です。美味しいですし、身体にもいいものです」
美味いが少し酒精が強いの。西堂丸に気を付けるように言うたが、まさか西堂丸は違うものを飲んでいようとは思わなんだ。
こういう細かい気遣いが久遠殿には随所に見られる。当人か家臣かは知らぬが若いのに上手くやっておるな。
「これは……」
「そちらは豆腐を固める前の絞り汁ですね。固めずそのまま味噌で味を調え、汁にしました。ウチでは豆乳と呼んでいますけどね」
さて今宵の料理じゃが、また昨日とは違うの。
豆腐はわしも知るが、かような料理は初めてじゃ。特にこの白い汁には西堂丸も固まっておるわ。
「……美味しいです。大叔父上」
ふと気になり織田家中の者らを見るが、臆する事なく料理に箸をつけておる。慣れておるのか?
久遠殿の料理は、いずれを食べてもわしの知る料理と味が違う。この豆乳とやらの汁は本当に美味い。味に深みや柔らかさがあると、これほど感じたのは初めてかもしれぬ。
特に味噌がよう合うわ。なんの味噌であろうな? 糠味噌や豆味噌ではあるまい。
「久遠殿の料理は相変わらず美味いですな」
「まったくだ。清洲の八屋を知っておるか? おかげであそこに通っておるわ」
「ああ、八屋か。あそこは確かに美味い」
うむ。やはり尾張でもこれほどの料理はそうそう御目にかかれぬか。久遠殿が
「これほどの料理でもてなして頂けるとは……」
「どれも豆腐があれば作れる料理ですよ。せっかくですから美味しいものを召し上がっていただきたかったので」
煮物はよう味が染みておるし、焼いた豆腐は、かの醤油を元にしたであろうか? 食べたことのないたれがかかっておる。
それにこの揚げた豆腐はまた味わいが別じゃ。おお! この俵型の料理の中には米が入っておるではないか! なんじゃこれは!?
いずれも味が違う。わしでさえよう分からぬものが多い。味付けが日ノ本の料理と違うのであろうか?
「北条の御仁でも久遠殿の料理には驚くのだな」
「もしかすれば公方様や殿上人、果ては帝すら驚くかもしれぬな」
織田家中の者は、我らが驚く姿を見てしみじみとしておる。考えてもみれば久遠殿が尾張に来て一年。先に驚いたのは彼らであろうな。
確かに北条家は織田よりは大きい。されど久遠殿のような御仁と、同じ知見を持つと思われるのは困る。
所詮は関東の鄙者よ。明や南蛮など誰も知らぬのだ。
「久遠殿。いかがすればこのような味になるのでしょう?」
「うーん。ひとつは手間を惜しまぬことですね。あとは銭も相応にかかります。もうひとつお教えしますと、料理には砂糖も入ってますよ」
「砂糖とは、あの薬師らが使う白いモノですか?」
「ええ。他にも出汁を取るとか、いろいろありますが」
わしが少し考え込んでおる間に、西堂丸は久遠殿に料理の秘伝を聞いておったわ。子とは時に恐れを知らぬの。秘伝の技をそう容易く聞くべきではないのじゃが。聞いた後に対価を求められては断われぬ。
しかし砂糖か。久遠家の砂糖は相模にも入ってくるようになった。北条家では薬や茶菓子にも使っておるが、まさか料理にも使うとは。
「これ西堂丸。他家の秘伝を易々と聞くではない」
「はい。久遠殿。申し訳ございません」
「お気になさらず。砂糖の件はそのうち広まることですので。それに砂糖が売れればウチが儲かります」
西堂丸にはこれ以上聞かぬように釘を刺したが、久遠殿は気にする様子もないか。確かに砂糖の使い道が広がれば売れるであろうな。
じゃが秘伝は秘伝。それをあっさり教えるとは。やはり武士というよりは商人が本質かの?
しかし、久遠殿の料理は美味いの。
これだけで人を落とせる気もするわい。一介の国人程度ならばこの料理で臣従してもおかしくはあるまい。
配下の者に料理を習わせたいの。だがそれには対価がいる。なにを対価として出すべきかの?
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