第二百話・織田と北条
side:久遠一馬
学校の案内も無事に終わった。まさか幻庵さんから写本の提供をしてくれるとは。ならばこちらも写本を提供する必要がある。
この時代の書物は、写本といえど本当に貴重だ。とにかく数が少なくて持っていても出し渋るからね。それをあっさりくれるとは驚いた。
他の北条家の皆さんも驚いていたほどだ。事前に考えていたことではないだろう。あの場で考えて決めた。その思考と決断力は警戒しなくてはならない。
もちろん、一方的な貸し借りは良くない。信秀さんは氏康さんと交流しているらしいし、このままウチは幻庵さんと交流していこう。
外交チャンネルは多いほうがいい。ましてや、相手は北条家だからね。
「初めまして。エルと申します」
病院と学校の視察も終わったので、休憩を兼ねて幻庵さんたちを那古野の屋敷にお連れした。
畳の敷いた応接間に案内して、井戸で冷やした麦茶と水ようかんを出す。
麦茶と水ようかんを運んできたエルが挨拶をすると、北条家御一行が驚きの表情を見せた。ケティは割と日本人的な容姿だからね。ブロンドヘアのエルには驚いたんだろう。
「……甘い」
「なんと
麦茶は麦湯という名でこの時代にもあるから驚きはないだろう。ただ、水ようかんには驚いてくれたみたいだ。
夏だしね。見た目からして涼しげな水ようかんはウチでも人気のおやつだ。
「あそこの子たちは久遠殿の血縁でござるかな?」
「いえ、家臣や奉公してくれている者たちの子たちですよ。ウチでは子供たちを集めて武芸や学問を教えています」
吹き抜ける風に揺れる風鈴の音が心地良い。
幻庵さんは庭で相撲を取る子供たちに視線が移ったみたい。相手をしてるのは信長さんと慶次だ。
信長さんも着替えて挨拶をすればいいのに。
「良き光景じゃ。そなたたちもしかと見よ。あの子らの笑顔を。よいか、そなたたちもあのような笑顔を与えられる武士となれ」
ただ幻庵さんは、そんな相撲を取る光景を微笑ましげに見ながら、家臣の皆さんに戒めとも教えとも思える言葉を掛けている。
やっぱり並の武士じゃないね。伊勢家出身にして関東の雄である北条家の幻庵さんが、氏素性の怪しいウチを見習えなどと言うのは恐ろしくすら感じる。
この人が史実にない尾張を訪問した意味は大きいのかもしれない。
もしかしたら歴史を変えるほどに。
休憩すると夕方までもう少しだ。幻庵さんたちを工業村の外にある銭湯町に案内する。ここは、今も拡張し続けているんだよね。
銭湯と旅人のための宿屋などはウチで建てたけど、他には飯屋に遊女屋なんかが出来ている。それらはウチではなく、他の商人なんかが建てた店だ。
人が増えれば民家も建つし、周辺の村からは野菜なんかを売りに来る人もいる。うまい具合に発展している。
「まさか風呂屋まであるとは……」
「今日は貸し切りに致しました。ごゆっくりどうぞ」
領民のみんなには申し訳ないけど、北条家御一行のために今日は午後から貸し切りにしてある。この時期は夏だしね。行水でも十分だから、お客さんの入りは元々そんなに良くない時期なんだけどね。
ちなみに、以前にも説明したけど外の銭湯はお金を取っているが、工業村の内部の銭湯はタダにしてある。内部は福利厚生の一環だからね。
「広い。このような風呂まであるとは……」
「領民が風呂に入るには、このくらいの場所が必要ですからね。身を清めると病に罹りにくくなるそうなので」
銭湯では、普段は金色酒やエールに簡単なつまみも出している。別にオレが指示したわけじゃないけどね。ここは家臣に任せていたらそうなった。
金色酒は尾張でも少し値が張るもののエールは安いので人気だ。銭湯自体はみんなが入れるようにと値段をかなり安くしたので、少しでも収入を増やそうと考えてくれたみたい。
幻庵さんたちは贅沢なお風呂を領民に開放していることに驚いてるけど、高炉の廃熱利用だと気付くかな?
さすがにそこは教えてあげないよ。
side:北条幻庵
久遠殿の屋敷に招かれるとは思いもせなんだ。屋敷を見れば分かることも多い。
屋敷は特に珍しきものもなく質素とも思えたが、畳の間に財力が窺える上に、現れた南蛮の奥方にはさすがに度胆を抜かれたわい。
話には聞いておったが、本当に髪の色が違う。
それに、なにか気になるの。このエルの方という奥方は。
まあいい。それより重要なのは庭で相撲を取る幼子らじゃ。いい顔をしておる。あれこそ、皆に教えねばならぬこと。
誰もが好き好んで下剋上をして戦をしたいわけではない。家のため、生きるためにしておるのだ。
子というのは素直じゃ。久遠殿が家臣といかに上手くいっておるかが分かる。あの子らが大人になれば、久遠家は更に強固になるであろう。
惜しい。本当に惜しい。北条家は千載一遇の好機を逸したの。北条家に来てくれたのならば、城と湊を与えても惜しくはない人材だ。
じゃが、久遠殿が織田を裏切ることはなかろう。織田も決して久遠殿を粗略に扱ってはおらぬ。城こそ与えておらぬが、地位を与えて商いは思うままにさせておる様子。
まあ、過ぎたことを悔いても仕方ないの。織田家と久遠家の関わりが盤石だと分かっただけでもよしとせねばならぬ。
久遠殿の屋敷で休憩をしたのちに、わしらは噂の尾張たたらの近くまで案内された。塀があり中の様子は窺えぬが、塀の外にも小さな町がある。
中は久遠家のもたらした南蛮のたたらがあると噂じゃが、それはまあいい。驚くべきは風呂屋まであることであろう。
湯を沸かすのに大量の
那古野は織田の本領と言うても良かろう。元は今川が建てた城だと聞き及ぶが、それもすでに昔のこと。
ここまでする意味は、いずこにあるのだ? 久遠殿が言うように病に罹りにくくするためか? それだけのために風呂を?
「中も広いですな」
「まるで温泉じゃな」
風呂は湯船も広々としておって、まるで温泉のようじゃ。恐らくは多くの領民が入れるようにするためであろうが、この湯を常に沸かすのにいかほどの銭がかかる?
なにか、からくりがあるとみるべきかの。
「城か寺社のような病院なる診療所と足利学校を真似た学校に尾張たたら。織田は凄まじいものが多うございますな」
「よいか。物事は多くの立場から見ねばならぬ。ひとつに惑わされてはならぬのだ」
そうじゃ。ひとつのものに惑わされてはならぬ。わしとしたことが惑わされておったわ。皆に教え聞かせる己の言葉でその失態に気付くとは。歳かの。
思えば何故、清洲ではなく那古野の尾張たたらの近くに風呂屋はあるのだ? 人を近付けたくないならばおかしなこと。
まさか……、たたらの火で湯も沸かしておるのではあるまいな。
そのようなことが出来るのか、わしには分からぬ。されど、南蛮の知恵ならばあるいは……。
「わしらは運がいいのやもしれぬ」
「大叔父上?」
久遠殿が尾張に来て僅か一年でこれじゃ。十年も経てばいかがなる? 勢いが落ちるならばいい。じゃが久遠殿の勢いが続くか更に増したら?
思えば父上が駿河の客将だった時。誰が今の北条を予期していた? 誰も予期しておらなんだろう。
織田にはまだ尾張一国に三河と美濃の一部しか領地はない。しかし織田が美濃・三河・伊勢のうち、一か国でも落とせばいかがなる?
三河と美濃は落とせぬわけではあるまい。
「西堂丸よ。そなたは今夜、弾正忠殿に挨拶致せ。素性を隠しておったことはわしが詫びよう」
「大叔父上。よろしいのですか? 父上との約束がありますが……」
「それはわしが戻り次第、殿に説明致す。よいか。西堂丸。信義を忘れてはならぬ。織田家との付き合いは長くなるのじゃからな。織田のよきところを学ぶのじゃ」
仮に織田がいずこかで
無論、織田が畿内に進み天下を鎮められるかは話が変わる。しかし、このまま終わるとはわしには思えぬ。
十年後。わしが生きておらなくてもいいように、西堂丸には織田殿と久遠殿と誼を結ばせねば。
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