第百二十二話・分国法と千代女
side:久遠一馬
望月家一行は千代女さんを残して、引っ越しのために一旦甲賀に帰った。望月家と郎党の屋敷を用意したりするのに、こちらも時間がかかるしね。
ただ、正直ウチは尾張の内政の問題で忙しい。
「分国法は厄介ですな。せっかく纏まった尾張が割れかねませんぞ?」
「だがここでやらねば、好き勝手する愚か者が後を絶たぬであろうが」
議論する文官の皆さんも意見が分かれている。問題は分国法だ。今まで曖昧な慣例のままで、好き勝手をしていた者たちに法を守れと言うのだ。反発するのが目に見えている。
まあ、この時代の大名が定めた分国法は幾つかあるが、織田に一番必要なのは命令系統の法制化だろう。
家中と領内の命令書には、すべて信秀さんの朱印を必要とする。これを第一に定めないといけない。信秀さんの朱印がない命令書を発した場合には、厳罰に処するとの文言も入れなきゃ駄目だ。
朱印とは判子だ。現状では花押やら署名だけど、信秀さんの負担軽減のために朱印を採用した、朱印状を正式に採用した方がいい。
そもそも現状の織田家では、領内の税や年貢ですら明確な規則がない。実は元来の弾正忠家の支配領ですら、立場が曖昧なんだよね。元から家臣の人もいれば、強いから従っていただけの曖昧な人もいる。
戦や賦役の際には所領に応じた負担はするが、あとはその領主の裁量に委ねられている。やっぱり中央集権体制じゃないんだよね。
「久遠殿。この目安箱とは?」
「ああ、それは殿に直接訴えるためのものですよ。以前に村で丸ごと逃げてきた人たちがいたでしょう? あの領主みたいなのを野放しに出来ないですし」
「確かに……」
「相模の北条家でやっているみたいなんですよ」
それと領民から信秀さんに直接訴える仕組みも必要だ。歴史の授業でも習う目安箱。実は北条氏康が先にやっているんだよね。
あの名前を聞くのを忘れた人の存在が、目安箱設置のいい口実になる。目安箱もちゃんと分国法に書かないと。勝手に箱を開けたら厳罰にするとか投書の妨害なんかの罰則は必要だからね。
他にも関所を設ける際には許可が必要だとか、いろいろ分国法の試案は出している。
「久遠殿もなかなか人が悪いですな。この分国法を認めれば、勝手な税の徴収が叶わんことになりますぞ。しかしそれに気付く者がいかほどおるか」
内容はそれほど厳しくはない。別に織田家に上納金を払えとか言っているわけじゃなく、何事も許可を取るようにしているだけだ。
税制の整理は分国法とは切り離して考える。まずは朱印状を認めさせることが先決になる。
「大和守家の者らは酷いからな。付け届けやら重臣と婚姻を結ぶために、民から絞り取っておる。奴らを取り締まる理由は必要であろう」
「そこなんですよね。早くしないと我々が恨まれますよ」
「大人しくしておれば、戦場での武功の機会くらい与えるというのに」
ちなみに分国法とその流れでの家臣の統制強化に、文官衆は当然気付いている。
原因は大和守家の元家臣にある。あそこの旧臣の一部が復権を狙って、重臣たちに付け届けをしたり、婚姻を頼むための資金を領内から無理やり徴収してる人がいるんだ。
当然信秀さんの耳にも入って、止めろと激怒されていたけど。
ああ、おかげで家中の結婚も許可制になりそう。
「あの方たちって、常に上から目線なんですよね。ウチにも仕官してやるって感じで来ましたよ。お断りしましたけど」
「商人や文官を軽んじておるのであろう。文官や商いがいかほど難しいかも知らん奴らだ」
「殿も丸くなられましたな。若い頃ならば斬り捨てておられたであろうに」
「連中を許している理由は、奴らを口実に家中を統制するためですからね」
分国法とは違うみたいだけど、実は信秀さんも家中の統制を考えていたらしい。大和守家の元家臣たちを泳がせてるのは、元主家の家臣に遠慮しているのではなく、口実にするつもりだったようだ。
いずれ連中を潰して、勝手なことをするなと厳命するつもりだったとか。分国法のほうがいいから、そっちに切り替えるつもりみたいだけどね。
side:望月千代女
父上が尾張に行くと言った時、家中は真っ二つに割れました。甲賀に生まれ甲賀で育ったのに、何故尾張に行くのかと。
滝川家が尾張に行き、信じられないくらいの身分になったのは知っています。でもそれは滝川家の話。望月家が後から行っても、同じ待遇で迎えられるとは限らないというのが多くの者の言い分でした。
現に滝川家は望月からの縁談すら断ってきた。なのに父上は……。
六角家にいても望月家の先はない。ならば尾張に行くほうがいい。そう言われました。
結局、望月の家はふたつに分けることになってしまった。父上と共に尾張に行く者と、甲賀に残る者に。
無論、不満は皆にあります。同じ六角家中からも、素破・乱破と
私は尾張の久遠家を、氏素性の怪しい者とは思わない。六角家中の者たちのように嘘かまことか分からぬ家柄をでっち上げて、私たちを見下す者たちと同じことをしたくはないですから。
「殿がお呼びです」
久遠家に来て夜伽のお呼びがかかるのは、意外に早かった。父上たちが甲賀に一旦戻った日の夜でした。
女好きと聞いていましたが、噂通りということですか。まあいい。私の身に望月家の行く末が掛かっているのは理解しているのです。
すでに日の暮れた屋敷を案内されて、殿の寝所に向かいます。正直、安堵しています。これで私たちは尾張で生きていけると。
「千代女殿を連れて参りました」
「入っていいよ」
「失礼致します」
……あれ? 寝所ではない? 案内されたところには奥方様や滝川様もおられます。夜伽じゃ……ないの?
「あれ? もう寝てた?」
「いえ……」
「悪いね。夜更けに」
もしかして、私はとんでもない勘違いで寝間着のまま来てしまったの? 殿たちは地図を見ながら、まだ仕事をしておられますわ。
はっ、恥ずかしい。こんな勘違いをするだなんて。
「千代女殿。読み書きは出来る?」
「はい」
「じゃあ、明日から八郎殿の奥方を手伝ってくれるかな。禄はちゃんと出すから。望月家の人たちが来た時に困ったり不安にならないように、ウチの仕事を見て軽くでいいから覚えておいて」
「畏まりました」
ああ、良かった。久遠様は気づいておられない。それに望月家のことも考えてくださっている。
「それと人を付けるから、清洲とか津島とか一通り見物してくるといい。これから暮らすんだし、知らないと困るからね」
「あの……、私は人質では?」
「そうだね。ウチには他にも人質が何人かいるけど、みんな働いているし外出も好きにしてるから。千代女殿もそのつもりで」
逃げたらいかがするのでしょう? 人質に好きにしてよいとは信じられません。私は、必要ではないということでしょうか?
「千代女殿も戸惑うと思うが、そのうち慣れる。あまり心配めされるな」
滝川様に不安を見抜かれた。でも戸惑うどころか理解出来ません。女の人質は側室か妾にするのが常でしょう?
「ああ、オレの側室にとかにはしないから。婚姻相手は好みの人でも探すといい。千代女殿が選んだならオレは認めるから」
「私では務めは果たせぬと?」
「そういうことじゃない。滝川家からも側室はもらっていないから、望月家からももらう気はない。それでも望月家も粗末には扱わないから、心配しないでいいよ」
分からない。私がお嫌いなのでしょうか?
「久遠家では縁談などはすべて断っておるのだ。そなたに落ち度はない」
何故? 何故縁談を断るの? 血縁を持ち、他家との繋がりは新参の久遠家にはなにより必要なはずでは?
分からない。このお方はいったいなにをお考えなのか。
私には分からない。
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