第八十二話・史実の英傑
Side:久遠一馬
信長さんは二百の兵を新たに銭で雇用した。
みんな以前からつるんでいた悪友たちなので間者を疑う必要もないし、実際に工業村の警備だけでもこれくらいの人数は必要なんだよね。
ただ、兵を銭で雇用するのは別に珍しくはない。堺の町なんかだと傭兵を雇っていると聞くし、有名な大名なんかも場合によっては雇うことはあるらしい。
とはいえ土地と兵を切り離す第一弾としては、悪くないだろう。まして二百人は信長さんの子飼いだ。
必要でもないのに足軽を二百人も雇えば、信長さんであっても既存の武士が反発するかもしれないけど、工業村の警備は必要だからね。
半士半農の武士や家臣に人を出させるよりは負担もないし、信長さんも自由に使える兵になる。実際、人手がいるんだよね。新しいことをするには。
「構えな」
ただ、身分もないヤンチャな子たちを集めても、すぐに使えるわけではない。結局は先日ウチが雇った百名の新兵や家臣たちと一緒に、訓練をさせることになった。
武芸に火縄銃や学問は当然ながら、効率的な肉体作りに集団での捕縛術や組織として町を守るためのイロハを教える予定だ。
指導者は信長さんの武芸の師と、ジュリアとセレスになる。
細かい武芸は信長さんの師匠に任せて、ジュリアたちは肉体作りや捕縛術に戦闘技術など、応用というか近代的な価値観からの指導をすることになった。
「人数の優位を生かすんだよ。後ろ! なにしてる! 死角を攻めないでどうするんだい!」
意外だったのは信長さんの師匠たちとの連携が悪くはないことか。ジュリアたちが相手に敬意を払っているのもあるけど、訓練内容に反対するどころか興味を持つとは思わなかった。
「いろいろ考えておるのだな」
「武士の武勇だけで戦えるなら足軽は要りませんからね」
信長さんと師匠たちは、ジュリアたちが教える戦闘技術に興味津々だ。
特に今回は工業村の警備という目的もあるので、あくまでも殺さずに捕らえることを前提にしているから、
相手を殺すことを前提にしたこの時代の武芸とは、少し違うものがある。
そもそも戦場じゃないんだから、領民相手に刀を抜いて斬るのはね。それに間者は捕まえて情報を吐かせないと。
「某も見てよろしいでしょうか?」
「河尻か。構わぬ」
那古野郊外で訓練させているところを見ていたオレと信長さんだけど、意外な人物が訪ねてきた。
河尻与一さん。セレスいわく、先日の戦でジュリアと戦ったバトルジャンキーさんだ。女に負けたとの恥を隠すことなく語った、良くも悪くもまっすぐな人。
「噂以上でございますな。並の男どころか武将にすら勝てるというのも頷けますな」
どうもこの人、ジュリアを探しているみたいなんだよね。正確には自分を負かした忍びを探しているようだ。
ただジュリアの身長はこの時代の女にしては当然高い。まして武芸に秀でたと噂になっているから、馬鹿じゃないなら正体がバレるよね。
「尾張は広うございますな。某を負かした素破も強いおなごでございました」
ああ、やっぱりバレている。
「探しておるそうだな。見つけていかがする気だ?」
「最初は何故某を討ち取らなかったのか、尋ねたかったまで。某には討ち取る価値もないのかと、聞きたかったのでございます」
どうしようかなと考えていると、信長さんが単刀直入に探している理由を聞いた。信長さんらしいけど、意外に河尻さんには一番いい対応かもしれない。
「最初はか」
「今は一目素顔を見たいと思ったまで。某を討ち取らなかった理由は分かりましたので」
ジュリアが河尻さんを生かしたのは、大した理由はないと思うんだけどね。クズみたいな人だったら、多分討ち取っただろう。
河尻さんはジュリアの立場から討ち取らなかったと、誤解している気がする。ぶっちゃけ首を取って手柄にする気ないんだよね。オレたち。
「この子はどなたです?」
「松平家の竹千代だ」
訓練から数日が過ぎたこの日、信長さんが鷹狩りに行くと言うので城に出向いたら見知らぬ子供がいた。まだ未就学の幼児くらいの子だ。
信長さんの小姓や友達にしては幼いし、大人しい子だから誰かと思えば史実の徳川家康かぁ。
少し不安げな様子で周りの様子を窺っている。
「連れていくんですか?」
「いつまでも閉じ込めておいても、仕方あるまい」
「まあ、そうですね」
これが史実の偉人か。どうも信長さんが竹千代君のことを気にかけていて、連れてこさせたらしい。
三河もかなり安定しちゃったしね。今川が信広さんを捕らえて人質交換ってのも無さげだし、今から教育しといたほうがいいか。
そもそも史実だと織田信秀は、数年で体調を崩すんだよね。ちなみにこの世界の信秀さんは、ケティが流行り病の際に何度か診察をしたけど健康体らしい。
食生活を少し注意したみたいだけどね。
まあ生活環境も変わったし食べ物も変わっているから、史実同様に亡くなることはないだろう。気を付けなきゃいけないのは毒殺だけど、そっちは密かに信秀さんの周囲に虫型の偵察機を配置している。
八十くらいまでは生きてほしい気もする。長生きして天下人になったりして。
「仕方ないとはいえ、厳しい世の中ですね、武家は。オレは家族のためなら地位も領地もすべて捨てますよ」
「案じずともお前たちから人質など取らん。好きなようにするがいい」
少し気になったので人質のことを話したが、お見通しか。さすがだね。それはともかく竹千代君。いっそ三河に返してあげたい気もするね。
でもなぁ。返しても今川に送られるだけだし。お母さんは水野さんのとこにいるしな。
本当、今も昔も未来でも武力勢力同士の嫌な一面だよね。信長さんはその点は合理的というか、変わっているのかもしれない。
そういえば信長さんの鷹狩りで有名な六人衆とかは、まだいないんだよね。
あの信長公記の作者の太田牛一も、まだ織田家にはいないみたい。この日は可成さんが御付きに加わっているけど。
そもそもこの時代の鷹狩りって、イメージと微妙に違う。大勢の人を使って獲物を追いたてるからね。
移動中、馬に乗るのは信長さんにオレと可成さんで、後の御付きは徒歩になる。むろん竹千代君も。
信長さんはあまり気にしないけど身分差はあるし、そもそも馬を持つには相応の収入がないと無理だからね。元の世界だって、馬を持っている人なんてほんの一部の大金持ちさんだけだからな。
「お見事でございますな」
結局この日は昼の休憩までに、兎と雉を一羽ずつゲットした。お昼はウチから持参したお弁当を囲み、みんなで休憩だ。
御付きの人とか多いから、馬三頭に大量の弁当を運ばせての昼食になる。オレたちと一緒にいるせいか、信長さんも昼食を食べるようになったんだよね。
メニューはおにぎりと漬物に、おかずを何品か用意してきた。
竹千代君は鷹もいないので見ているだけだったけど、尾張に来てからほとんど軟禁されたままだったらしく、次第に表情が和らいできている。
「うめえ!」
「なんだこりゃ!」
そこの欠食児童の皆さん。そんな争うようにガツガツと食べなくても大丈夫ですよ。ちなみに今日のおかずは小魚の佃煮があって人気らしい。
おにぎりには梅干しも入れてあるから、そのままでも美味しいんだけどね。甘辛の佃煮がこの時代の人の口に合うのかもしれない。
「これも醤油と砂糖か?」
「ええ。そうです。ウチでは佃煮って呼んでいますけど」
「何故、佃煮なのだ?」
「さあ? 私が考えたわけではないので、名前の由来までは」
竹千代君も可成さんも食べてみて、その味に驚いている。
信長さんは醤油と砂糖の味を覚えちゃっているから、味つけに気付いたけど名前のことは聞かないでほしい。
佃煮って正確にはこの時代にはないんだよね。そもそも砂糖は高価だし、醤油は原型となるものはあるけど一般には普及していない。
金色酒もそうだけど、気に入ったなら好きに名前を付けてほしいところだよ。
「これは甘めですけど、もう少し味を塩辛くすると保存も出来るんですよ」
「ほう。それはいいな」
尾張は魚が捕れるからね。佃煮を作れば干物と塩漬けに続く第三の保存法になっていいだろう。
問題は醤油の生産にまだ手を付けていないことなんだよね。
やることが山積みだ。
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